家族を全て失ってしまった馬超にとって、馬岱は最後に残った家族であった。
人材不足であった蜀をささえ、孔明のもとで活躍した名将馬岱について見て行こう。
一族最期の生き残り
時は後漢末期、献帝の時代。
曹操の横暴は極まり、まるで自分が皇帝であるかのような振る舞いをしていた。
おりしも最大のライヴァル袁紹を降し、自らの都許昌に漢帝国の皇帝献帝を擁する曹操は、各地に散らばる諸侯に対し、皇帝の名で命令を下せる立場になっていた。
「大恩ある漢王朝の復活!」
その旗印のもとに、後漢の忠臣である董承は曹操暗殺の計画を立てた。
そこに劉備や馬騰と言った諸侯や医師の吉平も加わったが、計画は事前に漏れてしまい、董承、吉平、馬騰は一族皆殺しとなってしまう。
馬騰は息子の馬鉄や馬休と共に討ち死にを果たすも、馬岱に対しては「馬超を頼む」と言って一人故郷へと帰したのであった。
かくして馬騰は三族にいたるまで根絶やしにされ、涼州にいた馬超と馬岱だけになってしまった。
二人は馬騰の義兄弟であった韓遂と共に涼州軍を組織し、そこに梁興や成宜、楊秋と言った涼州の有力者たちが次々と合流した。
馬岱は馬超とともに騎馬隊を率いて曹操陣営へ突撃し、もう少しで曹操を仕留めるというところまで行くも、曹操親衛隊の隊長許褚によって阻まれてしまい、曹操は一命をとりとめることになった。
その後は韓遂と馬超が賈詡の「離間の計」によって仲たがいし、涼州軍は崩壊、行き場を失った馬超と馬岱は漢中の張魯を頼っていくことになる。
おりしも張魯は益州の劉章との戦をしていた時期で、馬超をこの抑えとして利用しようとしていた。馬超と共に劉章軍との戦いに臨んだ馬岱は、そこで劉章のもとにいた劉備軍との戦いにのぞむことになった。
馬岱は先鋒を率い、敵方の先鋒である魏延の部隊を退けることに成功した。勢いに乗る馬岱の前に、雷のような声が響き渡る。
「我は張翼徳!文句のあるやつはかかってこい!」
相手にとって不足なし。馬岱は張飛に斬りかかっていく。が、10合ほども打ち合わぬままにその実力の差はうかがい知れ、あとは任せろとばかりに馬超と張飛の一騎打ちが始まった。
二人の決着は夜をまたいでも終わらず、お互い馬が倒れ、矛が折れてもまだ素手で戦っていた。
このままではずーっと戦いかねない馬超を抱え、馬岱は張魯のもとに帰っていったのであったが、ここでは楊松の讒言を信じ込んでいた張魯によって門が固く閉ざされていた。
「馬超は敵方に通じている」
二人に待っていたのはねぎらいではなく矢の雨であった。
行き場を無くした二人のもとに劉備の臣下である李恢がやってくる。「臣は良檎をえらぶべきである」と。二人は劉備陣営に迎えられ、馬超はやがて五虎将軍へと昇進を果たす。
しかしこれからという時に馬超は病死してしまう。
彼は死に際して劉備に手紙を送っている。
「私の一族200人余りは、ほとんど曹操に殺されてしまいましたが、従弟の馬岱のみが生き残っています。彼を馬氏の祭祀を守らせる者として陛下にお預けします。どうか、どうかよろしくお願いいたします」
劉備は馬岱に平北将軍の位を与え、馬超の言葉に応えた。
しかしその劉備もすぐに亡くなってしまう。跡を継いだ劉禅と、丞相として国をささえる諸葛亮孔明の手足となって、馬岱は彼の行くところにならどこへでもついたいった。
南蛮の孟獲を攻めた時も、魏を攻める北伐の時も、孔明の傍らにはいつも馬岱がいた。
忠義に厚く実直で、言ったことを確実にこなしてくれ、時には汚れ役も引き受けてくれる馬岱は孔明にとっても蜀にとってもなくてはならない存在であった。
ある時、魏延と司馬懿が山道で戦っていた。孔明はこれをチャンスと思い、魏延と司馬懿を共に火攻めにして攻めたのだが、これは孔明の失敗に終わった。
魏延は当然のように激怒したが、孔明は馬岱が悪いといって馬岱に罰を与える。100叩きにした挙句に馬岱を魏延の部下にしたのだ。
魏延は有能な部下が手に入り気をよくしたが、まて、これは孔明の罠なんだ。
234年、五丈原に星が落ちた。蜀を長年支えてきた諸葛亮孔明も天命には勝てず、これを機と見た魏延は孔明の後継者を自称した。
同じく孔明の後継者を自任していた楊儀との戦いになり、楊儀は魏延に向かって「ワシを殺せる者はいるか!」と叫んだら貴様の部下になってやろうと言ったので、魏延はその通りに「ワシを殺せる者はいるか!」と叫んだ。
すると後ろにいた馬岱が「ここにいるぞ!」と言って魏延を斬って捨てたのであった。
これは生前、魏延が裏切ることを予測していた孔明の策であったのだった。
この功により馬岱は位を授かり、末永く幸せに暮らしましたとさ。
チャンチャン。
正史における馬岱
多分馬岱ほど三国志演義で優遇されている武将はいない。
趙雲、諸葛亮孔明、徐庶、そして馬岱。この四人は強烈な羅漢中補正がかかっていると言える。
趙雲と孔明はまだ良いかもしれない。なにせこの二人は歴所である蜀書に列伝が建てられているれっきとした名臣なのだから。
しかし徐庶と馬岱に関しては列伝が立てられていない。二人とも他の人物伝には記載があるのだが、単独でその人物についての功績を述べられているところがないということだ。
馬岱に関しては「馬超伝」と「魏延伝」の二つに登場しており、三国志後の「晋書」にも少しだけ登場している。
晋書に関しては諸葛亮の死後魏に攻め込んできたが牛金に敗れた旨が記載され、馬超伝では演義同様馬超が最期に劉備に馬岱だけが親族なのでよろしく頼むという内容が記載されている。
馬岱に対して一番詳しく記載されているのは魏延伝で、魏延と楊儀が反目しあい、両方が劉禅に対し謀反を起こしたと上奏した結果諸侯が楊儀に味方をしたのを見て、魏延の兵が逃亡、馬岱はそれを追撃し魏延を斬ったという。
個人的な馬岱の評価
馬超の従弟なので、後漢の名将馬援の子孫であり、その先祖は春秋戦国時代までさかのぼれるほどの名門出身である。
家柄で言ったら関羽や張飛よりも遥かに良い。
ただ、馬岱が大活躍をしたという記録はなく、記録が少ないがゆえに羅漢中としては活躍させやすかったという部分もあるだろう。
劉備陣営を主人公とする際、孔明の活躍が随分付け足されたが、その付け足されたエピソードには趙雲と馬岱が良く出てくる。
三国志演義の作者羅漢中お気に入りのキャラクターだと言えるだろう。
実際にどれぐらい活躍したかは不明だが、馬岱は実際に平北将軍と陳倉侯に任命されており、5つの等級の中では三品の一番上の位となっており、かなり高位についていたと言え、陳倉もかなりの要所であったので、それなりに有能な人物ではあったのだろうと推測される。