唐王朝を滅ぼし後梁を建国した男!朱全忠(朱温)の裏切りに満ちた人生とその哀れな末路について

どんなに栄えた国家でも、必ず滅びる時がやってくる。

7世紀8世紀と世界で最も栄えた国家であった唐王朝にも、滅びの時はやってきた。

唐を滅ぼした男の名をご存意であろうか?

彼の名は朱全忠。

本名を朱温と言い、朱全忠の名は「完全な忠誠」という意味を込めて唐が贈ったものである。

 裏切りに満ちた生涯

f:id:myworldhistoryblog:20190519060649j:plain

繁栄を極めた唐王朝が衰退した原因はいくつかあるが、その際たる原因の一つが「節度使」の制度にあったと言えるだろう。

唐の勢力範囲はとにかく広かった。あまりにも広すぎた。

そのため「節度使」という中央政府からの任官を受けて各地の政治を行うという制度が発展した。

これは地方分権の元祖とも言え、現代日本の建前上の地方自治はこの制度に近い。節度使が力を持ち始めたのは「安史の乱」からで、玄宗皇帝の時代に起きたこの巨大な反乱において節度使の力が大きく増した。

中央→節度使→中央での出世という現在日本の警察官僚と全く同じ仕組みな訳であるが、節度使の評価というのがどれだけ中央に資金を送ったかというものであったので、節度使の治世は如何に領民から搾取を繰り返すかという一点にのみ集約されるようになる。

現代の日本の政治システムは西欧のシステムを真似てはいるが、実態は東洋的な政体と言え、如何に国民から搾取を行うかという点に焦点があてられる訳だが、その源流が遣唐使が学んだ唐の政治システムにあると言えるかも知れない。

地方ではこのように節度使による収奪が行われ、中央では宦官の専横や官僚の派閥争いによって着実に唐という国家は衰退の道を走っていた。

要は政治に携わる者が誰も国民のことを考えなくなったのである。

顧みられなくなった国民はやがて黄巣の乱という形で爆発することになる。

黄巣は塩の密売人で、当時民衆に非常に人気があった。

密売人がなんで人気があるのかと疑問に思う人が多いだろうが、当時塩は基本的に国家の専売であり、良質な塩は公務員が優先的に手にし、粗悪な品が民間に流れることとなっていて、しかもその値段は非常に高かった。

競争の原理が働かなければそうなるのは当然の流れで、しかも塩は人間が生きていくのに不可欠なものである。水と塩だけあれば生命の維持は可能と言う話だが、逆に言えばどちらかが欠ければ人間は生きてはいけない。

塩の密売人は良質な塩を安価で国民に届けてくれる存在であり、875年に起こった大反乱「黄巣の乱」は民衆の支持を得て、国を揺るがす大規模なものとなっていった。

朱全忠こと朱温は当初この黄巣の乱に参加していた。

朱全忠の生まれは非常に貧しく、兄弟と共に親戚をたらいまわしにされ、小作人として働いていたという。しかしその勤務態度は非常に悪く、遊んでばかりいて「ごろつき朱三(朱全忠は三男だった)」という綽名で呼ばれていたという。

主人からは悪さをするたびに棒うちなどの罰を受けていたがそのたびに「いつか大物になるぜぇ」とうそぶいていたという。現代日本にいたらきっとミュージシャンかサーファーを目指していたに違いない。

しかしいつまで経ってもビッグになれないばかりか暮らしは厳しくなるばかり。そんな時に黄巣の乱がおきた訳だから、乗るしかないこのビッグウェーブに!と思ったに違いない。

元々無頼の徒であった朱全忠は反乱の中で次第に頭角を現し、中国歴代王朝の帝都となっていた洛陽や長安を攻め落とすまでになっていった。唐の皇帝はかつて蜀の都であった成都に落ちのび、黄巣は長安にて皇帝位を僭称、国号を斉とした。

絶対的権力は腐敗するという言葉があるが、黄巣の腐敗は酷かった。

黄巣は元々官吏登用制度である科挙の受験に失敗した人物であったためか、官僚に対して非常に深い恨みを抱いており、これらを次々と処刑していった。

そうなると政治ができる人物がいなくなり、反乱軍は暴徒と化し、国中を略奪するだけの軍隊となってしまって行った。

もしも黄巣がもう少しまともなら、歴史は大きく変わっていったかも知れない。

朱全忠は賊の集まりとなってしまった黄巣の軍を見限った。

俺のしたいことはこんな盗賊まがいのことじゃないと思ったのかも知れない。

朱全忠は唐へと寝返ることにした。

唐へと寝返った人物はもう一人いた。

突厥出身の李活用という人物だ。彼は沙陀族という部族の長で、2人は生涯においてライバル関係となる。

この2人の活躍もあって黄巣の軍団は長安から追われ、朱全忠は長安からほど近い地を拠点とし、この地はやがて開封と呼ばれるようになる。

長安を取り戻した唐の皇帝であったが、すでに国を運営していく力は残っていなかった。漢最後の皇帝であった献帝よろしく、唐の皇帝であった昭宗の身柄も各地の群雄の間を転々とする羽目になる。

やがてその身柄は朱全忠の手に渡る。

朱全忠はこの昭宗を殺害し、幼き皇帝哀帝を擁立し、禅譲の儀を執り行う。これによって朱全忠は中華帝国を束ねる皇帝となり、国号は梁とした。哀れ幼き皇帝も朱全忠によって

成り上がりものの朱全忠が群雄割拠の戦いを征することが出来たのは、本拠地を開封においた慧眼にあったと言える。

隋の煬帝が整備した大運河は、南と北を結ぶことに成功し、開封はその要所に位置した。そのため物資が集まりやすく、経済的に発展していったのである。

日本の三大都市を考えた時に、東京、名古屋、大阪となるが、これらは全て海運業において発展していった都市でもあった。21世紀の現在であっても物資の輸送は海上輸送が基本だと言える。

対するライバルの李活用は独眼竜と呼ばれ、鴉軍と綽名される騎兵隊を率い、軍事的に言えば最強の勢力であったが、政治力はなく、軍は粗暴で略奪を繰り返すなど人心を掌握することはできず、本拠地であった太原という土地は、守りは固く軍事的な価値は高かったが、生産性は決して高くなかった。結局のところ皇帝を手中に入れたことと経済的な部分で大きな差がついてしまった結果と言えるだろう。

 短命政権の始まり

日本は君主に恵まれた国だと言える。

源頼朝、足利尊氏、徳川家康、いずれの政府の創始者も優秀で、基本的に短命政権というのは少なかった。

しかし中国の歴史においては短命政権の数がかなり多い。

唐が滅び宋が再び中国を統一するまで、五代十国時代という短命国家が乱立する時代を迎える。

朱全忠は時代に光をもたらす英雄とはなれなかった。

後梁の勢力圏は河北の一部にとどまり、建国からわずか15年で滅びの時を迎える。

朱全忠には乱世を生き抜く力と運はあったが、政権を運営する能力は皆無だったのである。

朱全忠は簒奪を恐れて唐の王族やその腹心、宦官達を全員河の底に沈めてしまったため、政権を運営する人物がいなくなってしまったのだ。

これは20世紀においてカンボジアのポル・ポトが全く同じことをやっており、知識人と言われる人間達を根絶してしまったがために政治を行うことのできる人物がおらず、まるで原初のような文明レベルまで落ちてしまった。

また、そもそも朱全忠は軍事的な才能があった訳でもなく、李活用の息子である李存勗との戦いに大敗し、次第に圧迫されるようになる。後梁はやがてこの李存勗によって滅ばされ、後唐が建国。華北は突厥系民族によって支配されることとなる。

なおこの後唐もわずか13年で滅ぶことになる。

朱全忠に話を戻すと、彼は後継者には恵まれなかった。そのため養子の朱友文を後継者とするも実子であった朱友珪はこれを不服と思い実の父である朱全忠を殺害してしまう。

黄巣を裏切り、唐を裏切った男の末路は、実の息子によって殺害されるというものであった。

なおその朱友珪は親衛隊によってその命が奪われ、帝位はその弟である朱友貞が継ぐものの、先述したように李存勗によって滅ぼされることになる。

個人的な朱全忠の評価

朱全忠が皇帝となったのは個人の才覚もあるが運の要素が強かったと言え、本来はその器ではなかった。建国の祖としては劉邦や光武帝、趙匡胤、朱元璋などとは比べようもない。

中国の歴代王朝の末期を見ても、きれいに政権が交代した例は少ない。それでも大きな王朝が滅ぶと新たな英雄が登場するのが常であったが、唐に関して言えばそのようなことは全くなかった。

五代十国と呼ばれる国々は領民に対する略奪を繰り返し、民はそのあおりをもろに食らってしまった。五胡十六国時代や魏晋南北朝時代に六朝文化が発展したのとは違って新たな文化も生まれず、中国における暗黒時代であったとさえいえるかも知れない。

そんな時代もある英雄の登場で統一へと向かうことになる。

その者の名は柴栄、後周の世宗と呼ばれる人物である。

www.myworldhistoryblog.com