歴史学を変えた男!世界を代表するローマ史家テオドール・モムゼンについて

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ローマの歴史を語る上で外せないローマの専門家が何人かいる。

テオドール・モムゼンはその筆頭であり、歴史というもののとらえ方を根本から変えて行ったと言っても過言ではない人物だ。

例えばモムゼンによって名誉を回復した人物にティベリウスなどがいる。

歴史とは面白い。

かつて暴君と言われた人物が名君になったり、マイナーな人物が一気にメジャーになったり。

日本でも司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を小説にして以来坂本龍馬の知名度は一気に上がったという話があるが、そのような影響力のある人物の叙述はしばしば歴史観を変える。

今回はノーベル賞を受賞した歴史家でもあるテオドール・モムゼンについて見て行こう!

 ベルリン大学の教授になりノーベル文学賞をうける

モムゼンは「シュレスヴィヒ公国」に生まれた。

世界史の教科書においては「シュレスヴィヒ・ホルスタイン地方」として登場する同地域であるが、モムゼンが生まれた1817年当時はまだデンマーク王国の領地で、後のビスマルクおよびヴィルヘルム一世の時代に起きたシュレスヴィヒ・ホルスタイン戦争の結果この地域はプロイセン領となり、後にドイツ帝国に組み込まれることになる。

モムゼンは元々法律や言語学を学んでおり、イタリアやフランスなどにおいてローマ時代の碑文などを丹念に調査していた。

1848年には名門ライプツィヒ大学の教授となるもシュレスヴィヒの国民分離運動に参加して教職を追われ、チューリッヒ大学、ブレスラウ大学の教授を歴任後ベルリン大学の教授となる。

ベルリン大学では古代史を教え、その際の教え子には社会学の祖ともいえるマックス・ヴェーヴァーの名前もある。

モムゼン自身は教授であると同時に国会議員でもあり、当時鉄血宰相と呼ばれたビスマルクとは激しく対立したようである。

 ブレスラウ大学時代において全三巻の「 Römische Geschichte(ローマ史)」を出版し、国内外で賛否両論を巻き起こす。

その他にも『ローマ貨幣制度史』 Die Geschichte des römischen Münzwesens (60) ,『ローマの国法』 Römisches Staatsrecht (3巻,71~88) ,『ローマの刑法』 Römisches Strafrecht (99) ,また『ラテン碑文集成』 Corpus inscriptionum Latinarum (63以降)など多数のローマの歴史に関する本を出版しており、その功績により1902年第二回ノーベル文学賞を受賞することになる。

モムゼンの何が画期的だったのか?

歴史を判別するとき、一体何を基準にしているのだろうか?

この根本的な問に答えるのはかなり難しい。

「聖徳太子は名君だったか?実在するのか?」

この問に一体どのように答えるだろうか?

あるいは「邪馬台国はどこにあったか?」

古来より現在に至るまで、我々は歴史をその著述によって判断する。

なぜ邪馬台国があって卑弥呼様が実在すると我々は判断するのだろう?

それは「魏志」という書物にその記載があるからだ。

ローマの歴史もそのように古代ローマ人が遺した著述によって判断されていた。

特にタキトゥスの遺した「歴史」とスエトニウスの遺した「皇帝伝」は貴重な資料で、その中で例えばティベリウスなどは散々な書かれようであった。そのため誰もがティベリウスを暴君と信じて疑わなかったのである。

しかしモムゼンは詳細にヨーロッパ中の碑文や貨幣などを調査した結果実はティベリウスが非常に優秀な皇帝であることを証明して見せたのだ。

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歴史を著述のみではなく遺跡などを総合して判断するという史観はまさに革命的であり、歴史学そのものの根底を覆したと言えるだろう。

モムゼンに対する批判

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モムゼンはだがいくつかの点において批判されている。

まずは歴史学から遺跡の重要性を排除したとして批判されている。

次に彼はラテン語の用語を勝手にドイツ語に翻訳したとして批判されている。例えばパトリキをユンカーとしたりして。

そして彼はローマ法を自説を正しいと証明するために捻じ曲げているとして批判されている。

これらの批判はもっともで、王政を前提としたユンカーと共和政内において発展したパトリキを同一視するのはさすがにやりすぎだろうと思う。

もっとも、この観点から行くとプリンキパトゥスを皇帝と訳したりパトリキを貴族と訳すのはもっと無理が出てくることになるが・・・

しかし批判なきところに発展はない。

こういう批判が出るあたりも、モムゼンが歴史学の発展に寄与した部分であると言えるだろう。