隋の二代目皇帝である煬帝は果たして言われるほど暴君であったのか?

煬帝は中国史上最悪の暴君であるとされている。

誰がしたのかと言えば、隋を滅ぼして新しい王朝をたてた唐の王族たちである。

じゃあ名君なのかと言えば、それは明確にNOであろう。

今回は日本が遣隋使を派遣した時の皇帝である煬帝について見て行こう。

 戦乱を終結させた英雄

煬帝と言うのは廟号で、本名は楊広という。

後に隋の初代皇帝となる隋の文帝こと楊堅の次男で、魏晋南北朝最後の南朝である陳を滅ぼして天下に安定を取り戻したのは実は煬帝であった。

煬帝の人気はかなり高く、即位する前には皇太子であった楊堅の長男楊勇よりも人気があったのだ。

それに加えて2人の母である独孤伽羅という人物も長男ではなく次男を愛していた。

楊堅は隋を一代で築いた人物であったが、妻である独孤伽羅にはまるで頭が上がらなかった。匈奴の血を引くと言われる彼女は夫に一生浮気をしないことを誓わせ、この時代には珍しい一夫一妻制としたため楊堅には後宮がなかった。

そもそも楊堅が皇帝になったのも彼女の強い勧めがあってのことだともいわれており、浮気が何より嫌いな独孤伽羅は浮気性な長男をあまり好いておらず、煬帝が皇太子になる可能性は非常に高かったと言える。

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煬帝が兄から皇太子の地位を奪ったというよりも、母が長男から次男に後継者を変えたと見るのが正しいであろう。

煬帝は唐王朝の正当性を主張するために意図的に悪く書かれているというのは中国史の中では今や常識とされており、父を殺して兄から帝位を簒奪したという儒教精神としてはあり得ないことをした人物とする必要があったと言える。

ついでに言うと唐の太宗である李世民も兄を殺して皇帝になっている。

煬帝は確かに兄を殺したが、それは実は皇帝になった後である。この部分に関しては中々難しい部分である。というのも三国志を終結させた晋は一族を各地に配したため八王の乱を招いてしまい、一族同士の争いで国力を大いに衰退させてしまった面があるからだ。

遠く離れたオスマン帝国などは君主であるスルタンが即位すると兄弟を処刑するという風習があり、そのために600年という長きに渡り国家が維持できたという面もある。

また、父殺しに関しては実は全く根拠がない。母が死んで父が死ぬまで2年が経過していたが、この二年間で皇太子が変わることはなかった。なので煬帝が父を殺したというのはあまり合理的ではない。

 もっとも、不合理なことをするのが人間と言ってしまえばそれまでであるし、事実は結局当人たちのみが知り得ることであるともいえるが、いずれにしても煬帝に対する悪評は大幅に割り引いて考える必要があるのは確かだ。

なお、煬帝が皇帝に即位した後には弟の楊諒が反乱を起こしており、この反乱を鎮圧したのは事実である。

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大帝国の大皇帝

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秦の始皇帝が名君なのか暴君なのかは現代でも大いに議論のあるところである。

始皇帝は煬帝と類似している面が結構あり、大規模な土木工事を敢行した点やその死後すぐに王朝が滅亡している点などは共通している。

煬帝が行ったことは多岐にわたる。

晋以来の中華統一王朝ということもあり、煬帝はその威容を周辺諸国に知らしめる政策をとることにする。所謂「朝貢政治」である。

これは隋こそが世界の覇者であり、その周辺諸国には隋が位を授けるというものである。

これによって各国は隋の後ろ盾を得たことになり、国力の増強につながる訳である。この政策に載ったのが陽昇る国の天子であった。海の向こうの大和という国は政情が不安定で、その正当性を示すには隋という大国の後ろ盾を得るのが良いと考え、その為政者である聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子は小野妹子という人物を隋に派遣した。後世の歴史ではこれを遣隋使と呼んでいる。

このように煬帝が招集した国は多岐にわたり、現在のベトナムやカンボジア、恐らくは台湾か沖縄にあった琉球、西域諸国家、果てはスマトラ島にあった赤土国などがこの朝貢に参加した。このことによって情報が集まりやすくなり、諸国家にとっても先進国隋の文化などに触れられるようになった。

しかしそれに従わない国があった。朝鮮半島の北部を領有する高句麗と言う国である。

朝貢に従わない国にはその威信を見せなければならない。隋は大軍を派遣して高句麗征伐に乗り出した。が、失敗してしまう。しかも3度も。

このことは煬帝に決定的な打撃を与えた。

基本的に煬帝は戦に強い将軍であり皇帝であった。即位前には陳を破ったし、ベトナム南部にあった林邑を征し、チベットにいた吐谷渾には打撃を与え、帰途には多くの国が隋に従った。

それなのに高句麗遠征に失敗した。

高句麗遠征は隋に大きな負担をかけ、その財政は破綻した。

そしてもう一つ、隋の財政を破綻させたのが大運河の建設である。

これは長江(揚子江)と黄河を繋げてしまおうという壮大なプロジェクトであり、秦の始皇帝の万里の長城以来の国家的大事業であった。

と言っても始めたのは煬帝の父である楊堅であり、煬帝が始めた訳ではないことと、この大運河自体は後の中国王朝発展の基礎になったのも確かである。後に宋の都になる開封などはこの運河によって発展した都市であり、経済がこの運河によって大発展したのも事実なのである。

隋の次代の唐は隋を非難しながらこの運河を大いに利用して発展したというのも確かである。

しかしこの運河の開通には多大な犠牲を伴った。工事に駆り出された人民の生活は破綻し、人民は煬帝への怨嗟の声を上げた。

このような声を背景に隋に大規模な反乱を起こしたのが隋の将軍であった楊玄感であり、反乱は鎮圧されたものの怒れる群衆の勢いは止まらず、各地で反乱が相次ぐようになる。

そのような隙をトルコ系民族突厥に突かれ、隋は大いに衰退。後に唐を建国する李淵を始めとした諸侯の伸長を赦し、煬帝は江南へと逃亡する。

618年、煬帝は自ら組織した親衛隊によって殺される。享年50歳。

個人的な煬帝への評価

言われるほどひどくはないが、かなりの暴君である。

煬帝に対しては唐王朝の正当性を主張するために必要以上に悪く言われている面もあるが、それを割り引いても煬帝が暴君であるという評価は変わらないであろう。

始皇帝同様功績もあるのだが、最後に親衛隊に殺されるというのは、ローマの軍人皇帝並みに酷い。

後の中華王朝に受け継がれる運河や朝貢体制などを整備したのは功績であるが、そのためにかなり無理をして国家を破綻させてしまった。

また、その威信を守るために無謀な高句麗遠征を繰り返してしまい、結果的に民衆への負担と権威の失墜だけが残ってしまった点も失政であろう。

正直もっと酷い君主など中国の歴史にはいくらでもいるのだが、功績がある分叩かれやすいのも確かで、良くも悪くも存在感のある君主であった。

我が国日本の実質的な歴史は聖徳太子の時代から始まったと言える。

隋に使節を派遣した結果、我が国はその文化や制度の遅れを認識し、憲法十七条や冠位十二階などの諸制度を整備し、古事記や日本書紀などの歴史書の編纂にも取り掛かることが出来たと言え、そののちも遣唐使という形で先進国であった唐の文化を取り入れ、国家を発展させることが出来た訳である。

中国では悪い評判しかない煬帝も、日本という国から見れば恩人に近い存在であるのは歴史の面白さを感じさせる一事であると思う。