中国の長い歴史においても最も悪名高い人物の一人が漢を滅ぼし新を建国した王莽という人物である。
漢の元帝の外戚として
日本には宦官は輸入されなかったが外戚の禍は輸入されたという話がある。
中国の歴史を紐解くと宦官と外戚が相争った歴史とも言え、例えば三国志も始まりは外戚である大将軍何進と宦官たちの対立からであった。
日本では宦官の制度はなかったが、君主の妃の一族である外戚が政治を意のままに操る制度は中国より輸入され、特に藤原氏の専横が有名である。
中国でも度々外戚がその権勢を奮ったが、その中でも最も有名なのが王莽である。
彼は漢帝国第10代皇帝である元帝の皇后王政君の甥として生まれた。元帝が崩御すると王政君の息子である成帝が即位し、王一族は次々と要職に就いていった。
王莽の父は早くに亡くなっていたため要職には就けなかったが、若き日の王莽は勉学に励み、その才能を一族に示した。時の大将軍であった王凰の病気の看病を続けた結果一族の覚えもよくなり、次々と要職を経験、38歳で軍事全般を司る大司馬の地位に就任したが、そのころに成帝は病死してしまう。
皇帝が哀帝に代わると外戚争いが激化し、王一族は次々と要職を外されることとなる。哀帝は当初国力の回復に対して意欲的であったが、在位5年で崩御、これを機と思った王莽はまだ9歳であった平帝を帝位に就け、自らは再び大司馬の地位に返り咲く。
王莽は自らの娘を平帝の皇后とし、外戚として再び権力をふるうようになる。彼には当初から帝位簒奪の意思があったと見え、讖緯説と呼ばれる予言によって自らが帝位に立つべきだという理屈を並べ立てた。
科学も宗教も未だない時代、占いや陰陽道は広く信じられており、名君との誉れ高い光武帝でさえも讖緯説を信じていたと言われ、中国の歴史書には皇帝が生まれた時に竜が地上に現れたというような記述が多数存在するぐらいである。
平帝はわずか14歳で崩御した。古来より王莽による毒殺説が根強い。
王莽はわずか2歳だった人物を皇帝に就任させようとして周りの反発を買った。漢の諸侯たちはもちろん一族の有力者であった王政君もこれに反対したが、王莽はそれらの声を無視して幼子を皇帝位に就け、自らに帝位を譲らせた。
紀元8年新王朝の誕生である。
世界史でも稀に見る暴政
王莽は儒教に傾倒していた。
儒教が学問であるのか宗教であるのか、実務的なのか理想的なのか、そういった議論を脇においても王莽の行った政治は机上の空論であった。
彼はこの時代から数えても1000年前の王朝である周王朝の政治を理想とし、実情にはおかまいなしにその制度をあてはめて政治を行った。
具体的には奴隷制度の禁止と土地所有の禁止である。
全ての私有地を公有とし、地区の区画や名称なども変更された。貨幣制度にも改革を加えようとしたが、古い貨幣を復活させようとしたり、そうかと思えば悪貨を発行したり、経済原則を無視した政策を断行した。
このような政策の裏には貴族による大土地所有があり、漢帝国の税収がそのために大きく減収していたという事情もある。
これは日本という国において、平安時代に貴族の大土地所有が進み税逃れなどが横行し、中央政府の力が弱まったことに似ているであろう。
王莽はさらに中華思想を肥大化させ、周辺地域との軋轢を深めていく。
具体的には、高句麗を下句麗と呼んだり、匈奴を降奴と呼んで蔑むなどである。このような思想は当然のように周辺諸国の離反を招いた。
王莽への不満が決定的となったのは黄河の氾濫に対して治水を行わなかったことであろう。
中国の王朝において、為政者の何よりも役目は治水である。
これは中国のみでなく、古代エジプトにおいてもそうで、王家の役割は川の氾濫への対処である。聖人とさえ呼ばれた古代の帝王堯でさえ治水の失敗者である鯀を処刑し、その息子である禹を責任者とし、禹はやがて中国最初の王朝である夏王朝を開くことになる。
中国の王朝とはその開始時期から治水を行う機関であり、皇帝や王都は治水を行うものなのだ。
その責務を果たせなかった王莽に対し、誰もが皇帝失格の烙印を押した。
簒奪者の最期
このような政治が長く続く訳もなく、あちらこちらから反王莽の火の手が上がった。
中でも赤く眉を染めた集団による「赤眉の乱」は世界史の教科書に載るほどで、王莽の治める新の兵士達は反乱を鎮圧するどころか逃げ出すかこの集団に加わる始末。というのも王莽の滅茶苦茶な政治のおかげで食糧が支給されず、近隣を略奪しようにもすでに農民は農村を捨てているという状態であったからだ。
それでも収奪の結果中央に軍団を集めることには成功したようで、自称100万の軍を率いて劉秀率いる軍団と対峙。されど兵士の士気はあがらず、王莽には天下に覇する大義名分もない。さらには軍を指揮するような優秀な将軍も皆無な状態では所詮は烏合の衆、さらに運の悪いことにこの劉秀と言う人物は漢王室の末裔で、漢王朝復興と言う大義がそこにあったうえに、中国はもちろん世界の歴史においても5本の指に入る名君と言え、王莽がどうにかできるような相手ではなかった。
昆陽の戦いにおいて新は敗北し、そのまま都長安に逃げ帰るも、王莽に味方する者はなく、最後は混乱の末に商人に殺害されるという結果となった。
享年68年。その遺体は功を挙げんとする兵士によって八つ裂きになったという。
個人的な王莽の評価
ここまで何も評価できない人物も珍しい。
あえて言うなら、腐敗しきっていた漢帝国を再建する契機となり、光武帝という世界史でも稀な名君を誕生させるきっかけとなったことであろうか。
王莽のやろうとした政策の中には、断固たる決意で実行していれば改革として評価できるようなものもあったが、王莽自身に政治や軍事における才覚が決定的に不足しており、また人望もなかったため優秀な部下もいなかった。
実は王莽は中国の歴史上初めて戦争によらないで政権交代を成功させた人物なのであったが、「禅譲」という名の簒奪であり、彼自身が追い求めたのは儒教の掲げた理想ではなく、王莽自身が作り出した幻想であったというべきであろう。