魏晋南北朝を終わらせ隋を建国した男!楊堅(隋の文帝)

日本史にも出てくる煬帝の父親で、隋という国を建国したのが楊堅という男である。

 武川鎮軍閥

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「武川鎮軍閥」という用語を聞いたことがある人は相当の中国史マニアである。

高校の世界史の教科書には影も形もないが、中国の歴史を語る上では欠かせない用語であり、北魏から唐にいたるまでの支配者層を形成したのがこの武川鎮軍閥であったと言える。

時は魏晋南北朝の始まりとも言える北魏の時代。北魏の支配者層は鮮卑族であり、その首都は平城から洛陽へと変わっていった。特に孝文帝の時代には極端な漢化政策がとられた訳だが、元々の故郷たる北方や辺境ともいえる西域やモンゴル高原などの守りも当然必要となる。

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それら辺境の地の守りにつき、軍勢を引きいし者たちを「武川鎮軍閥」という名称で読んでいる訳である。

この名称は隋や唐の時代に誕生した訳ではなく、清代の歴史学者がつけた名称であるという。

この「武川鎮軍閥」に属する者たちとしては、北周を建国した王族たちである宇文氏、隋を建国した楊氏、唐を建国した李氏などがいる。つまり北魏滅亡後の各王朝の王族である。

武川鎮は北魏が設置していた6つの鎮と呼ばれる防衛拠点の1つで、現在の内モンゴルに置かれており、北魏滅亡の原因となった「六鎮の乱」はこの六つの鎮が起こした争いである。

北魏は西と東に分かれる訳だが、拓跋氏の分裂というより六鎮の分裂と見る方が自然で、懐朔鎮出身の高歓が牛耳る東魏と武川鎮出身の宇文泰が牛耳る西魏の2つが長い間対立し、宇文氏はやがて北周を建国することになる。

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北周の外戚として権力を握る

楊堅はこの北周の大将軍楊忠の子供として生を受ける。有力者の息子で、かつ軍才もあったためにグングンと出世していき、東魏の後継として高歓の子孫が建国した北斉の平定にも大きな軍功を立てる。

やがて長女を北周の皇帝宣帝の皇后とすると外戚として権力を握り、反対派を粛正、宣帝が亡くなると七歳の静帝を即位させ禅譲を迫る。こうして581年隋が誕生した訳である。

権力を奪った後は用済みとばかりに楊堅は宇文氏の一族を根絶やしにしている。

隋の初代皇帝

皇帝となった楊堅は周辺に残った2つの大国の攻略にとりかかる。1つは荊州の一部江陵を中心とする後梁という国で、これはすぐに攻略できた。もう一つ南朝の流れを受け継ぐ陳には苦戦したが、有能なる息子楊広(後の煬帝)がこれを攻略し、隋は晋以来の実に200年ぶりの中国統一王朝となったのであった。

皇帝となった楊堅は各種の改革に乗り出す。

中央省庁を三省六部に集中させ、官吏登用制度として魏の曹丕の時代から脈々と受け継がれてきた九品官人制度を廃止、代わりに試験により広く人材を登用する科挙を導入した。

これらの制度は隋や唐はもちろん、基本的には1300年後の清の時代まで続くことになる。

他にも貨幣の統一、府兵制や均田制、仏教の保護など諸政策に乗り出し、強力な中央集権体制を作り上げた。

これらの諸政策は高熲(こうけい)という宰相が中心となって導入した政策であったが、皇太子問題において、長男の楊勇の廃嫡に反対した件で高熲は失脚する。

この有能な宰相は煬帝の時代まで生き延びるが、煬帝の暴政を諫めた結果怒りを買って処刑されてしまう。

さて、問題の後継者問題であったが、当初は長男の楊勇が皇太子であった。しかし楊勇は女性関係が派手であったため、皇后である独孤皇后の寵愛は受けられず、逆に陳を攻略した煬広のことを気に入っていた。

これだけの業績のある楊堅だったが、妻にはまるで頭が上がらなかった。

独孤皇后は武川鎮軍閥の最有力者であった独孤信という武将の娘で、そもそも楊堅が北周で力を持てたのはこの独孤信の後ろ盾があったからである。

独孤皇后は非常に嫉妬深く、男性に対し清廉性を何より求める人物で、楊堅も後宮を置くことや愛人を作ることはなかったほどである。

*ただし陳の王族の娘など政治的な面で必要だった場合は認めたようであるが、ただし絶対に子供を作らないという約束であったという。

まだ楊堅が若きある日、楊堅が愛人を作ったことがあった訳だが、その愛人はすぐにこの世に住まうことはできなくなっていた。

この時楊堅は走って宮殿を出て山奥にこもり「天子になったのに自分には自由がないじゃないか!!」と言って叫んだという。

高熲の失脚も、おおもとの原因は高熲が愛人に子供を産ませたことを独孤皇后が知って激怒したからだと言われており、自分が腹を痛めて産んだ子でさえもその例外ではなかったようだ。

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604年、楊堅は63年の生涯を閉じる。

古来より、次男の煬帝による暗殺説は絶えない。

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個人的な楊堅の評価

簒奪者ではあるが、以降1000年にわたって続く六部や科挙などの制度を整備したこと、長い戦乱を終わらせ統一王朝を作ったことなど評価できる点は多い。

そういった意味では名君の素養さえあった。

実は高句麗遠征には失敗しているが、内政的にも外征的にもトップクラスの功績があり、高く評価すべき人物であろう。

 それでも楊堅を名君と言いたくないのは、恐妻家であるという面と、煬帝という皇帝を生み出してしまったからなんだよなぁ。

なにせ統一王朝の中でも秦と隋に関してはずば抜けて滅亡までの期間が短い。始皇帝を名君とするのは難しい理由もここにあり、楊堅も同様である。