最近マーベルの映画にはまっている。
ハマりすぎて「マーベルVSカプコン3」のゲームを買ってしまったぐらいだ。
さて、アヴェンジャーズ第二作となるエイジ・オブ・ウルトロンなんだけど、これはある意味人間の好奇心が生んだ敵であり、人類そのものが生み出してしまった敵だと言える。
第一作はいわば敵は神で、神々の1人ロキであった。
ロキは悪神としてしられていて、悪神なんだけど邪神ではなくて、敵なんだけど絶対悪ではなかった。
今回の敵は人工知能ウルトロンで、悪どころか正義とさえ言える。
暴走した正義と言っても良いかも知れない。
アヴェンジャーズそのものにも突きつけられることになる「暴走した正義」はこの先のマーベルの映画の主要なテーマになっていく。
アイアンマンとハルクの好奇心が生み出した強敵ウルトロン
アヴェンジャーズも一枚岩ではなくて、主にキャプテンアメリカとアイアンマンが対立していくようになる訳だけど、2人を分かつ要素の1つが「知的好奇心」というものであろう。
ハルクことブルース・バナーも学者で、アイアンマンことトニースタークも兵器開発者という面で知的好奇心旺盛な面がある。
スパイであったり軍人であったりするキャプテンアメリカたちとはある意味役割も出自も興味も違う。
今回の件はある意味トニースタークの暴走と言える。
暴走ともいえるが、結局はその知的好奇心の結果ヴィジョンという存在が生まれてウルトロンを倒すことが出来たのも確かだった。
この映画だけで考えると結果オーライなんだけど、今のマーベルはそんなヤワな映画は作らないらしい。
この問題は次作と言ってもよいキャプテンアメリカ・シヴィルウォーに暗い影を落とすことになる。
シヴィルウォーは言わばヒーロー同士が対立する話なのだけど、対立の芽はこのエイジオブウルトロンで撒かれたと言っても良い。
アヴェンジャーズが作り出した敵
アヴェンジャ-ズ、もといヒーローの役割とは誰かを守ることにある。
そのアヴェンジャーズ自体が敵を作り出してしまうのは皮肉だ。
例えば敵であるハイドラがアヴェンジャーズに対抗して強大になるなどならわかる。
でも、強大な敵を自ら作り出してしまったのだ。
そしてそのことで甚大な被害が出る。
取り返しのつかない被害を、どうしようもない被害を出してしまうのである。
これ以降のマーベルがそれをどういう形で表すのか、また表さずに放置してしまうのか。
それで一連の映画の評価が大きく変わることだろう。
とてつもなく巨大な映画
現在マーベルが展開しているような映画構成は、過去に例がない。
どんな映画でもそれは独立した映画で、あのスターウォーズでさえもナンバリングタイトルとスピンオフという形になっている。
ところがアヴェンジャーズはそれを軸として様々な映画が展開されている。
本来なら次元も時代も違う映画たちが同じ世界観の中で存在しているのだ。
第二次大戦中に活躍したキャプテンアメリカと宇宙の果てで銀河の平和を守っているガーディアンズオブギャラクシーと神であるソーやロキが同じ世界で活躍している。
本来無理なんだけど、一定の世界観と倫理におさまっていて、それがアヴェンジャーズという映画を構成している。
ヒーローものには敵役であるヴィランが必要だ。
バットマンならジョーカーだし、スターウォーズならシスだ。
敵はどんどん強くならなければならない。
でも全ての敵を倒したとき、物語ではめでたしめでたしでも、実際にはそこからが問題なのだ。
人類は共通の敵を持っている時には団結するという性質を持っている。でも、共通の敵を失った時、お互いに争い始めるのだ。
多くの国は、そうやって滅びて行った。
エイジオブウルトロンは、この映画だけでこれを語ることのできない問題を抱えている。
この映画を評価するには、シヴィルウォーも見なければならないだろう。