ナポレオンはその生涯において40を超える戦闘に参加したというが、その中で最も栄光に満ちた勝利だと言えるのがアウステルリッツの戦いであろう。
3人の皇帝による会戦
アウステルリッツの戦いより2か月前、ナポレオンはウルムの戦いにてオーストリア軍に完全な勝利を得ていた。
元々オーストリア軍はロシアのクトゥーゾフ将軍と合流してフランス軍と戦う予定であったが、ナポレオンの進軍速度が予想より速かったため単独で戦わねばならず、指揮官であるマック・フォン・レイビッヒは為す術もなく降伏するしかなかった。
これを受けてクトゥーゾフは軍を後退させ、ナポレオンはそのままオーストリアの首都ウィーンの占領に成功する。
ナポレオンはそのままクトゥーゾフを追っ手東へと軍を進めたが、ロシア軍はその進路で略奪を行っており、フランス軍の補給はままならず撤退の動きを見せる。
クトゥーゾフはこれをナポレオンによる作戦と見抜き軍を動かさなかったが、ナポレオンの撤退を見たロシア皇帝アレクサンドルとオーストリア皇帝のフランツはナポレオンを倒すために攻撃を仕掛けた。
1805年12月2日、後にアルステルリッツの三帝会戦と呼ばれる戦闘が開始されるのであった。
ナポレオンは自軍に有利に戦闘をすすめるために、右軍をわざと手薄に配置し、ゴールドバッハ川が細くなっている地点に敵を誘導させた。
このためロシアの歩兵隊は沼地にはまってしまい身動きがとれなくなる。ナポレオンは第4軍団のスルト元帥を高地に移動させ、ロシア歩兵隊への奇襲を敢行、見事に成功させる。
これにより逃走した連合軍は凍結した湖を渡ろうとするも途中で氷が割れ溺死及び凍死するものが後を絶たなかったという。
一方の左翼においてもナポレオン軍は完勝し、ロシア軍は撤退、オーストリア軍は講和の申し入れをした。
第三次対仏大同盟側の死傷者は16000人、対してフランス軍の死傷者は約8000人、さらに同盟側は約12000人がフランス軍の捕虜となり、戦いはフランス軍の圧倒的な勝利に終わった。
「激しい散弾の銃火に絶え間なくさらされた、午前7時から午後4時までひたすら戦い続けたが、多数の兵士の弾薬が底をついた。もう、我々は撤退するしかなかった」
後にロシアの中将ブルシェブイシェフスキーはアウステルリッツについてそう語っている。
凱旋門
フランスの象徴とも言えるエトワールの凱旋門はアウステルリッツでの勝利を記念して建てられたモニュメントであり、3帝が集う会戦に勝利したことはフランスにとっての歴史的な勝利を意味した。