人類史の転換点!フランス革命をできるだけ詳しく、できるだけ簡単にまとめさせてもらう!

どの世界史の教科書でも、フランス革命に関するページは特に厚く書かれている。にも拘わらずほとんどの人はフランス革命がどのような革命であったのかがよく分からないまま大人になったのではないだろうか。

広大な世界の歴史をわずか1年という期間で学ぶのには無理があって、それでもエッセンスを集めた結果今の教科書になった。

そしてエッセンスだけを記載した結果重要な用語だけが無味乾燥に並んだ教科書が出来上がる訳だが、今回は人類史の転換点ともいえるフランス革命について教科書より少しだけ詳しく記述したいと思う。

ちなみに受験生用「フランス革命」の記事はこちら。

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 きっかけはルイ16世が開いた三部会にあった

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フランス革命においてまず考えなければならないのは、絶対王政の絶頂期においてなぜ王政が倒れてしまったのかという点だ。

当時のヨーロッパには君主絶対論である「絶対王政」が蔓延していた。その中でもフランス王家のブルボン家の力は絶頂にあり、ルイ14世の時代には「朕は国家なり」という言葉が表すようにその王権は絶対的でありもはや不可侵ともいえるレベルにまでいたっていたのだ。

ブルボン朝は宿敵であったヨーロッパ最強貴族ハプスブルク家とも同盟および姻戚関係を結び、その王権はますます盤石であった。

歴史的に見ると、フランス王国は中央集権的な性格ではなく地方分権的な性格、つまり地方貴族が王権以上の力を持っていた時期が長い。メロヴィング朝もカロリング朝もカペー朝もヴァロア朝もブルボン朝も皆そういった性格であったが、ルイ13世以降のブルボン朝は俗に言う常備軍と官僚制の整備によってその王権を非常に強くした。

実はそれまでは戦争の際において軍隊を組織するのが常識であったのだが、それからは国王が常に軍隊を抱えているようになり、その圧倒的な武力によって貴族たちを支配することが可能になっていったのだ。それゆえにブルボン朝はフランス王権にしては珍しく中央集権型の国家であり、国王の権限は絶対であったのだ。

国王の他に力を握っていたのは各地方を治める貴族であり、もう一つカトリック勢力が大変大きな力を持っていた。

名誉革命や清教徒革命などのイギリス革命とフランス革命が大きく違うのがカトリック教会が力を持っていたかどうかである。イギリスにおいてはプロテスタント系国教会が力を握っており、その首長が国王であったのに対し、フランスにおける修道会はカトリックでありローマ教皇の影響力があった。

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とはいえその影響力は絶対的なものではなく、アナーニ事件における教皇のバビロン捕囚やガリカニスム思想に見られるようにフランス国内においては国王の権力は教皇に優先すると考えられていた。

ではなぜフランス革命が起きたのか?

それはルイ16世が革新的なフランス国王であったからに他ならない。

フランス革命の火ぶたは、実は国王自身が開いていたのだった。

歳出が歳入の9倍

ルイ16世が三部会を開かざるを得なかった背景には巨額の財政赤字があった。

当時のフランスの歳入は5億リーブルであったのに対し歳出は45億リーブルにも上っていたという。

まるで現代の日本のようなとんでもない財政状況であるが、この歳出はルイ14世による大規模な戦争やヴェルサイユ宮殿建設に代表される工事費によるものであった。

現代日本の財政状況が悪いのは前の世代がツケを後の世代に押し付けて自分たちが借金をしまくったことにあるが、ルイ16世時代の赤字はルイ14世とルイ15世による国家の放蕩経営によるものである。

ルイ16世自身もアメリカ独立戦争に支援したことで財政赤字を増やした面もあるが、それでもなんとか財政改革を行おうとした。

改革派と言われフランス市民に絶大な人気を誇るネッケルを財務大臣に任命し、財政の再建に着手した。

しかし所謂第三身分への課税はもはや限界であった。そこで第二身分と言われる貴族およびカトリック勢力への課税が必要となった訳だが、それらの特権階級がはいそうですかと課税を認める訳もなく、強い反発心からネッケルは失脚させられ、続く財務大臣に就任したカロンヌ、そしてブリエンヌも結局失脚させられることになった。

業を煮やしたルイ16世は再びネッケルを財務大臣に任命し、三部会を開くことにする。

国王、貴族・司祭、市民の3勢力の代表における議会を開くことで第二身分への税を課そうとしたわけだ。

三部会の開催に際して選挙が行われた。第3身分における議員は600人を越える数存在していた訳だが、3部会はそれぞれの身分が1票づつ持っている方式になっており、第二身分はもちろん王族の第一身分も課税には反対であった。

ルイ16世自体が課税したくても、王弟を始めとした王族や何よりマリー・アントワネットはそのような政策には大反対であった。

フランス革命がかくも混乱したのは王妃マリー・アントワネットに原因があったと言え、その意向にいちいちルイ16世が考え方を変えたことが原因であったことだろう。

第3身分は議員の数に応じた議決権を主張したが、それを特権身分達は退けた。

球戯場の誓いと国民議会の成立

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第三身分は三部会に愛想をつかし、自分たちで議会を作ることを決意する。

国民議会の議員達はヴェルサイユ宮殿の球戯場に集まり、国民議会を結成、国民議会が正式な議会と認められるまでは解散しないことを誓う。

世に名高い「球戯場の誓い」である。

このように当初の国民議会の目的は所謂封建的特権身分に対する課税であったのだが、事態はこの後急変する。

第一身分・第二身分は国民議会の存在を認めず、国王に対し軍の招集をかけることを要請。事態は一側触発となった。

ヴァスティーユ牢獄襲撃事件~フランス革命の開始~

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フランス革命の開始は1789年7月14日ヴァスティーユ牢獄襲撃事件であると考えられている。

この事件は国民議会が武装を目指してヴァスティーユ牢獄にあった武器を武力で奪った事件であり、議会側は国民衛兵隊を組織して襲撃を成功させ、武装化した軍隊となった。

ことの発端は2度目のネッケル罷免であった。

もはや改革は武力によってしかなされない。そう判断した民衆は暴徒化し、襲撃事件を受けて各地の民衆は暴徒化、いたるところで革命の火が付き始めた。

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ヴァステーユ牢獄を守っていたローネーはパリ市街で処刑され、パリ市長であったジャック・ド・フレッセルも事件の余波を受けて処刑、もはやイギリスで起きた名誉革命のような血の流れない革命は不可能となってしまった。

憲法の制定を目指す国民議会は8月4日に封建的身分特権の廃止を宣言、8月27日にはかの有名なフランス人権宣言を採択した。

しかしルイ16世はこれを法制化することを拒否、その後ろにはやはりマリー・アントワネットがいた。

10月になると物価の高騰などに耐えられなくなった女性たちが宮殿のあるヴェルサイユに向けて行進を始めるという事件が起き(ヴェルサイユ行進)、そのまま民衆は国王一家の住むヴェルサイユ宮殿になだれ込み、その圧力でルイ16世は人権宣言を認め、住居はテュイリー宮殿に移されることになる。

ヴァレンヌ逃亡事件~フランス革命の転機~

フランス革命自体が世界史の転機だが、ヴァレンヌ逃亡事件はそのフランス革命の中でも転機となった事件である。

この時点で国民議会は憲法の制定をし、立憲君主制を目指すつもりであった。海を隔てた隣国イギリスが名誉革命によって立憲君主制に移行したようにフランスもそれを目指そうということでこの時期はまだ一致していた。

その流れが変わったのは1791年6月に国王一家がオランダへの逃亡を企てたヴァレンヌ逃亡事件が発覚した時からである。

これもまたやはりマリー・アントワネットが画策したものであった。彼女の母親はかのマリア・テレジアであり、オーストリアを始めとしたヨーロッパ各国を支配する最強貴族ハプスブルク家の出身であった。当時ハプスブルク家はオランダをも支配しており、マリー・アントワネットは愛人であるフェルセンと共に逃亡計画を練り、オランダへと逃亡しようとしたのだ。

しかしマリー・アントワネットが関わっているだけあって計画は杜撰でお粗末であった。逃亡しようとしているにも関わらず馬車は豪華で、どこから見ても国王一家のものとわかるようなものであった。案の定国王一家はヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻される。

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フランス国王国外脱出失敗の報はヨーロッパ中に広まった。革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンは共にピルニッツ宣言を出し国王一家の身柄の安全が確保されなければ戦争を仕掛けると脅す。

しかしこれが革命に燃えるフランス市民の感情を逆なでした。

1791年の9月には正式に憲法が出来(1791年憲法)、国民議会は立法議会と名を変え、フランスは立憲君主制国家となる。

しかし立法議会の内実は不安定で、立憲君主制を維持したいフイヤン派と、共和政を推進したいジロンド派の派閥争いが激しかった。

ヴァレンヌの逃亡事件は立憲君主制を支持するフイヤン派に大きなダメージを与えた。もはやフランス市民は国王の必要性を感じなくなっており、共和政フランスの誕生を願っていたからだ。

革命戦争の開始

完全に立法議会を握ったジロンド派は、亡命貴族たちと結びついたオーストリアやプロイセンに対し宣戦布告、革命戦争が始まる。

この際にマルセイユから進軍した義勇兵たちが革命歌を歌いながらパリにやってきた。その時に歌っていたのが「ラ・マルセイエーズ」であり、その歌は現在のフランス国歌である。

フランス軍は革命戦争において連戦連敗であった。オーストリアやプロイセン軍は近代的な兵器をもち訓練された兵であったのだから当たり前なのだが、フランス人たちはそうは思わなかった。ペルシャ戦争の時のギリシャのように愛国心に溢れた自分たちが負けるわけがない。自分たちが負けるのはマリー・アントワネットが敵国に情報を漏らしているからに違いない。実際にマリー・アントワネットは情報を敵国に流しており、8月10日怒ったフランス民衆はテュイルリー宮殿を襲い、国王一家をタンプル塔へ押し込めることになった。

この際、ルイ16世は自身の身を守るスイス衛兵に対しフランス国民への発砲を許さなかったことから衛兵たちは殺されることになったという。結局のところルイ16世は最後までフランス市民に銃口を向けることはなかった。

しかし怒れる民衆は理性を失い、ジャコバン派のダントンの演説がきっかけで暴徒と化し、反革命派を虐殺する9月事件が起きている。この際の犠牲者は10000人を越えると言われており、フランスの牢獄から囚人が全て消えたと言われるほどであったという。

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ヴァルミーの戦いと共和政フランスの誕生

1792年9月20日、ヴァルミーの戦いにおいてついにフランス軍はオーストリア軍に対し勝利を得た。

このことはフランスの今後を大きく決めることになった。

意気を高めた立法議会は次の日王権の停止を宣言、1791年憲法に基づく立法議会は解散となり、新たに国民公会が誕生することになる。

これにより長く続いたフランス王国は滅び、フランス共和国(第一共和政)が誕生することになる。

こうなると一体国王はどうなるのか?

ルイ16世は革命裁判にかけられた。そしてわずか1票差で死刑が決まった。この時後にルイ18世となる王弟も投票に参加していたが、彼は死刑賛成に投票していたという。

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フランスは熱狂に包まれた。

人は血を見ると興奮するのかもしれない。

既にフランス国民は理性を失っていた。さらなる熱狂を求めてさらなる血を求めて、フランス革命は暴走していく。

ロベスピエールによる恐怖政治

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ルイ16世処刑のニュースは全ヨーロッパの反感を買った。

今迄静観を決めていたイギリスさえも動く事態になり、イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、サルデーニャ王国(イタリア)などがフランス打倒を宣言し、対フランス大同盟が結成されることになる。

フランス国内においても王党派の残党が放棄し、ヴァンデ反乱と呼ばれる大規模な攻撃と散発的な攻撃を繰り返し受けることになる。

情勢が定まらぬ中、業突商人たちの暗躍により物品の価格は上がり、国内的にはインフレーションが起こり、国民公会の中心であったジロンド派は急速に支持を失っていく。

その一方で最高価格令などを出して物資の安定供給などを約束したジャコバン派の人気が高まっていく。

当初ジャコバン派はジロンド派と手を組むことを考えていたが、ジロンド派の陰の代表であったロラン夫人とダントンの交渉が決裂すると両者の対立は激化。

1793年6月にパリ民衆がジロンド派に対し放棄したのを機にジャコバン派は政権を握り、ジロンド派を議会から追放、国民公会は国家公安委員会の主導する機関となった。

この時期、国王が処刑されたために行政権は国民公会に移っており、さらに司法権たる革命裁判所も同様であった。

つまりこの時期、モンテスキューの主張したような三権分立はなされておらず、すべての権力が一極に集中していたのである。

しかも恐ろしいことにジャコバン派は事実上ロベスピエールの独裁政党であった。そしてロベスピエールは狂っていた。

腐敗し得ぬ男

元来的な意味での確信犯であったロベスピエールは、己の正しさに絶対の自信をもっていた。敬虔なクリスチャンである彼は目の前にある幸運を神の意思であると感じていた。自らには神に課された使命があると固く信じていた。

そして恐怖政治が始まった。

まずはマリー・アントワネットを処刑した。

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彼は正義を為した。少なくともロベスピエールの中では。

ロベスピエールは自らに不利益になりそうな人物は次々に処刑していった。はじめは敵対するジロンド派の議員達を処刑していった。それが終わると反革命派を処刑していった。しかし反対派を処刑し終えてもロベスピエールの処刑は止まらなかった。もはや処刑する理由などどうでもよかった。

「疑わしい者たちに関する法令」

ジャコバン派の支配する議会はこの狂気に彩られた法律を通過させた。中身はロベスピエールが疑わしいと思えば処刑できるという法律である。世界史上でもここまでの悪法は珍しい。

王妹エリザベートなどは処刑される理由もなく処刑された。

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彼女は朝起きると農場でとれた牛乳を民衆に分け、全員が飲んでから自分が食事をするという女性だったという。

彼女の裁判では裁判前に既に処刑執行書にサインがされていたという。

もはや誰もロベスピエールを止められなかった。止めようとした者は殺された。ジャコバン派であっても殺された。エベール派やダントン派と言ったジャコバン派の有力者たちも容赦なく処刑された。

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テルミドール9日のクーデター

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ロベスピエールは自分の行動がフランス革命を成就させるためのものであり、自分が神の加護を受けている、自分の行動は神の意思であると信じていた。それゆえ不正や腐敗などはもってのほかで、私腹を肥やすなど論外であった。

しかしフランス革命に参加している者のほとんどは俗物であった。その代表はバラスで、彼は夜な夜な舞踏会を開くのが好きだったし、金銀財宝異性に目がなかった。そのようなバラスにとってロベスピエールはさぞつまらない人物に思えたことだろう。

バラスは仲間たちと共に画策してロベスピエールを処刑した。

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総裁政府

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バラス、タリアン、フーシェと言ったテルミドール9日のクーデーターを主導した人物たちは新たに5人の総裁で以て国家を運営する総裁政府を作ることに成功した。

ここから段々とフランスは民主制と離れていくことになる。

バラスにはある懐刀がいた。その男の名はナポレオン・ボナパルトと言う。

バラスはナポレオンに命じてオーストリアとの戦争のためにイタリアに派遣した。ナポレオンは強かった。連戦して連勝、あれほど勝てなかったフランス軍が嘘のように勝てるようになった。

ナポレオンの名声は高まり、総裁政府の威光も高まった。

しかし総裁政府の内情は不正と腐敗と失政に満ち溢れていた。

ジャコバン派の出した最高価格令を廃止するとフランス国内は強烈なインフレが襲うようになり、総裁政府への不満は日々溜まっていくことになる。

この時代には、政教の分離や1795年憲法の制定など重要事項があったが、基本的に民衆の支持を得られず、総裁政府の人気が下がるのとナポレオン人気が高まるのが連動して起きていた。

もはやナポレオンをコントロールできるものはおらず、当のナポレオンは次第にその野望を露わにする。

ブリューメル18日のクーデターと統領政府

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マスコミとは常に操作されるものである。

ナポレオンのエジプト遠征は本来失敗であった。しかし新聞は日々ナポレオン勝利の記事を書き続けた。そしてナポレオンは帰ってきた。

もはや総裁政府に威信はなく、1799年11月9日革命暦ブリューメル18日にナポレオンは総裁政府に対しクーデターを起こし、成功させる。

これによってナポレオン、シェイエス、デュコの3人を主体とした統領政府が出来上がることになる。

ここに至って市民革命の陰はなく、時代は諸外国とのナポレオン戦争に突入していくことになる。

やがて統領政府は廃止され、ナポレオンを皇帝とする帝政時代へと移行していくことになるであった。

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革命は、失敗したのである。

フランス革命の意義とは何であったのか?

「フランス革命によってアンシャン・レジーム(旧体制)が打倒され、市民革命の成功により共和政が成立した」

ということはない。フランスが共和政になるのは1848年に起きた2月革命の時であり、諸外国の民主化は進まず、第一次世界大戦時あるいはその後に各国は民主制に移行することになる。

ドイツ、オーストリア、ロシアなどの列強はまさに1次大戦において民主化し、トルコもどうようであった。

ではフランス革命の意義とは何なのか?

それは主権が国王を離れた点にあるだろう。一時期とはいえ主権は国民に移った。現代の日本国憲法の根本理念である「国民主権」がここで確立された訳だ。そして日本国憲法3大理念のもう1つ「基本的人権の尊重」もまたここで認められている。

「フランス革命は現代史の起点である」と言っても過言ではないであろう。

さらに制度以外にも「メートル法」などはフランス革命において採用された度量衡であり、我々は普段意識しないレベルで革命の結果を享受していると言える。

現代社会の起源であり原点と言ってもよいかも知れない。

古代ギリシャの学者ボリビオスは政体循環史論を唱えた。文明は君主制から貴族政に移行し、民主制にいたるも再び君主制にいたると。フランス革命はわずか10年に満たない時代においてこの順序を1回りさせてしまったのである。

フランス革命は人類の歴史の縮図であるとも言え、民主主義のもろさもまた教えてくれる出来事であるのだ。