ローマ最大の哲学者にして弁護士にして敵役!キケロの生涯について

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内乱の1世紀という時代は数々の優秀な人物を輩出した時代でもあった。

中国の3国時代、日本の戦国時代、そしてローマの内乱の1世紀、いずれも同一民族内における内戦であるが、そういう時期に魅力的な人物が出てくるのは世界史の常なのかもしれない。

ローマ内乱の1世紀において、カエサルヤオクタヴィアヌスが主人公側であるとするならば、敵役の筆頭にあげられるのが今回の主役キケロであろう。

ローマ1000年の歴史の中でも最も優れた哲学者として知られるキケロの生涯について見て行こう。

 生まれに恵まれないほど保守的になる

内乱の一世紀に活躍した人物のうち、クラッススやポンペイウスは新興富裕層のエクイテス階級、そしてキケロは家柄の良い生まれとは言えない所謂新興貴族ノビレスであった。

一方ユリウス・カエサルはローマでも指折りの伝統的な貴族の出身なのだが、貴族のカエサルが革新派で庶民出身のキケロが保守派として元老院派を率いていたのは面白いものである。

この現象は世界史でいたるところに見られ、持たなかったものが持つようになると保守的になり、他社の権益を認めないようになる。

キケロは若いころより口癖のように自分の代でキケロの名を名門にしてみせると豪語していたようで、若いころより勉学に励み、弁護士として大成した。

現代海外の法廷シーンでは弁護士が大げさに色々な演出をしながら陪審員に訴えかけるシーンがあるが、ああいう手法を開発したのがキケロだと言われている。

ローマの裁判は陪審員制で、裁判の結果を民衆が決めるという文化があるが、日本では大岡越前の守が未だに人気があるようにお上が何でも決めてくれるしお上が決めたことは正しいしお上が決めたことを単に受け入れるだけ、なので法律もそんな感じで全部を裁判官が決める。

話がそれたが、彼はミトリダテス戦争を逃れてきた亡命ギリシャ人と仲良くなることを通して弁論や哲学の素養を身に着けたと言われ、弟と共にギリシャのアテネに留学しており、その際に生涯の友アッティクスと知り合ったようである。

キケロとアッティクスの書簡集は帝政ローマ時代に出版されており、現在ではローマの当時の状況を示した一次情報として非常に貴重な存在となっている。

余談だが、キケロは一貫して反カエサル、親共和政であったのに帝政ローマで出版が許可されたというのも面白い話であると思う。なにせ、キケロを処刑したのは初代ローマ皇帝アウグストゥスその人なのだから。

アウグストゥスの晩年のエピソードに、孫がキケロの本を読んでいたのを見つかりそうになって隠そうとしたのを見て「その愛国心は本物だった」と言ったエピソードがある。冷酷なアウグストゥスの数少ないクレメンティア(寛容)なエピソードと言える。

 キケロが再びローマにもどった頃には当時権力を握っていたスッラが亡くなった後で、裁判によって上げた名をもって重要役職であるプラエトル(法務官)に当選し紀元前63年にはローマ最高職コンスルに就任することに成功した。

紀元前60年から始まったカエサル達の三頭政治とは真っ向から対立し、特にカエサルが黒と言えば白というぐらいに悉く意見を違えた。

それでも元老院の議場を離れると2人は無二の親友だったというから面白い。

議会制民主主義の基礎は古代ローマ時代に作られたとさえ言われている。岩倉遣欧使節団が議会で激しい討論を繰り広げた人間同士が仲の良い様を見て衝撃を受けたことが日本史には出てくるが、西欧のその感覚はこの頃からあったのだろう。日本に民主主義が根付かないのはそもそもの地盤が違うからだともいえる。

 キケロ暗殺計画

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紀元前63年、ローマを震撼させたカティリーナの陰謀事件が起こる。

この事件は一種の徳政令的な法律をルキウス・セルギウス・カティリーナという人物が通そうとしキケロなどの反対により失敗したことによって起こった事件で、カティリーナとその支持者はキケロの暗殺を含む武力行使に出た。

 キケロのカティリーナ弾劾はかなり辛辣で、ヨーロッパの歴史の教科書には度々登場するぐらいだという。その弾劾によってローマを去らざるを得なくなったカティリーナは元老院最終勧告がだされ、国家の敵とされてしまった。

追い詰められたカティリーナはローマの正規軍によって打ち取られ、一方のキケロは「国家の父」の称号を与えられて元老院内における地位を確固たるものにしていた。

しかし一方で裁判によらずローマ市民の命を破ったとしてキケロを追及した者もおり、一時的にキケロは逃亡を余儀なくされている。

それでも親キケロ派の議員に助けられて本国に帰ってくると、今度はカエサルを激しく糾弾し、最終的にはカエサルに対し「元老院最終勧告」を出し、カエサルをローマの敵とする決定を出す。

カエサルがそれをものともせずにルビコン川を渡ると、他の元老院議員がクモの子を散らすように逃げた一方でキケロはイタリア半島に残った。キケロは反カエサル派の小カトーとも対立し、政治的信念のないポンペイウスのことも評価していなかった。

この頃カエサルはキケロに向けて手紙をしたためている。

内容はキケロに会ってロ―マで会いたいというものであった。

カエサルはキケロを直接訪ねたが、キケロはローマへは行かないの一点張りであった。

カエサルはクレメンティア(寛容)の男である。自分に敵対視、刃を向けた者が相手でも平然と赦してきた男だ。カエサルはそのままポンペイウス達の待つギリシャへと旅立っていった。キケロはポンペイウスに味方しない。カエサルにはそれで十分だったのかも知れない。

その後カエサルはファルサロスの戦いでポンペイウス率いる元老院派を打ち破る快挙を成し遂げた。

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 カエサルは誰1人自分に敵対した者を処分しなかったが、ポンペイウスは亡命先のエジプトで殺され、小カトーは自ら命を絶った。

キケロはカトーを称え、「カトー」を出版、カエサルはこれに対抗して「アンチカトー」を出版し、ローマに激論を巻き起こす。共に現存しないため内容をうかがい知ることはできないが、カエサルが派遣を握った状態でこのような刊行物を出版するあたりやはりキケロも一級の人物だなと思ってしまう。

カエサル暗殺とキケロの死

カシウス・ロンギヌスや2人のブルータスたちによってカエサルは暗殺された。

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キケロはそのことに大いに喜んだという。

ライヴァルのポンペイウスが死んで静かに泣いたカエサルとは大違いだ。

キケロは能力は一流だったが人間としては二流であったので仕方がない。いつの時代にもそういう人間はいる。

しかしキケロは自らがカエサルのクレメンティアによって生き延びていたことをまるで理解していなかったのであろう。

キケロはカエサルの暗殺者とは密だったようで、最初はアントニウスと敵対していた。そのためなのか、カエサルが自らの後継者としていたオクタヴィアヌスに接近していたぐらいである。

オクタヴィアヌスのことは「少年」と呼んで侮っていたが、これがキケロの最大の誤算であった。

無理もない。カエサルの後継者とはいえ、オクタヴィアヌスには何の実績もなかったし、まだ18の青年だったのだから。

キケロはまさかこの青年が自分の首に賞金をかけるとは思ってもいなかったのだろう。

オクタヴィアヌスはカエサル暗殺に加担した人間のリストを作り、徹底的に粛正した。オクタヴィアヌスはカエサルではない。寛容を与えて殺されたカエサルの轍を踏むこともなく、容赦もなく粛正を行った。対象者を匿おうものなら女性や子供でも容赦なく自白を強いた。

キケロはそのリストの最初に名前が載っていた。逃げられる訳が、なかった。

カエサルの暗殺者はその頭部だけがフォロ・ロマーノに飾られたというが、キケロだけは頭部だけではなくその手もさらされたという。

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哲学者キケロ

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 キケロは世界史の授業ではわき役だが、倫理の授業では主役である。

キケロはその著書「義務について」で以下のように述べている。

「あらゆる人間愛の中でも最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは祖国に対する愛である・~祖国に一命をささげることに迷う市民はいないであろう」

あり方はどうあれ、キケロには愛国心があったのだろう。カエサルとは敵対したが、実はだれよりもカエサルを認め、そして誰よりもカエサルに認められていた男は、最後に一体なにを思ったのだろうか。

カエサルが死に、キケロが死に、ローマは帝政への道を進んでいくことになる。

しかしローマ帝国が滅びた後も、キケロが遺した著作や思想は残され、現在まで残っていおり、君主論のマキャベリや国際平和の父と呼ばれた天才グロチウスにも多大な影響を与えたという。

そういった意味では、カエサルと同様人々の心の中に生き続けている人物なのかも知れない。

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