俺はこのブログを始める際、併設するツイッターのアカウント名を何にするか迷った。
どうせなら世界史上の人物がいいなとは思ったけれども、候補となる人物が多すぎた。
ちょっと考えてすぐにカエサルしかいないと思った。
おかげでネット上で俺は「カエサルさん」と言われることも多くなった。
カエサルは世界史上に光り輝く英雄の名前だ。
一体人は何をして英雄たらしめるのか?
戦闘に強いだけでもダメ、政治力があるだけでもダメ、頭がいいだけでもダメ。
それら全てを兼ね備え、かつ運がよく、魅力に溢れ、カリスマ性に満ち、時代に光をもたらした存在、それが英雄、それがユリウス・カエサルである。
今回はそんなカエサルの生涯について書きたいと思う。
長い記事になりそうだが、俺の好きなカエサルについて読んでもらえると嬉しい。
古くからの名門ユリウス家に生まれる
ユリウス家の歴史は長い。
どれくらい長いかというと、その起源が紀元前7世紀頃の王制ローマ時代までさかのぼれるほど長い。
ただし伝統の名家の割にユリウス氏族がローマ最高職であるコンスル(執政官)を出した回数は非常に少ない。
カエサルが誕生した紀元前100年ごろまでの約550年近くの歴史の中でコンスルになった人物は、叔父のルキウス・ユリウスともう1人ぐらいのもので、ユリウス家の歴史は長いけれども、その実態は名門とは呼べないぐらいかも知れない。
とはいえ先祖の中には第二次ポエニ戦争で活躍した人物もいたようで、その時の戦いぶりからカルタゴ語で象を意味するカエサルという綽名が付き、それがそのままファミリーネームになった。
叔父のルキウス・ユリウスは同盟市戦争を終結させた「ユリウス市民権法」の提案者で、当時権力者だったマリウスと良好な関係を築いていた。
マリウス自体がルキウス・ユリウスの姉と結婚していることもあって、マリウスはカエサルの義理の叔父にあたることになる。
カエサルの父は歴史にほとんど名前が残っておらず、プエトリア(法務官)の経験者であることしかわかっていない。そこそこの出世はしたが出世しきれなかった人物とでも言おうか。特に功績はないので凡庸な人物だったのかも知れない。一方の母はアウレリウス家という学者の一族の出身で、アウレリアという名の非常に教養深い女性であった。
戦略家、政治家としても有能なカエサルだったが、文筆家の素養は母から受け継いだと言っても良いかもしれない。
教育はおそらく母が施したのだろうと言われている。
当時のローマではギリシャ人家庭教師をつけるのが主流でありブランドであったが、ユリウス一門にそこまでの経済力はなかったようで、カエサルの家庭教師はエジプトのアレクサンドリア出身のガリア人であったという。
この経験が後のガリア遠征に役立ったと言えるかも知れない。
マリウスとスッラの血塗られた争い
カエサルが青年期にさしかかろうとした頃、マリウス率いる平民派とスッラ率いる閥族派の対立でローマは二分されていた。
マリウスは一度失脚して北アフリカに逃げるのだが、スッラがギリシャに遠征している隙をついてローマを占領してしまう。
この際にマリウスを手引きした人物がキンナという人物で、カエサルはこのキンナの娘と17歳の時に結婚している。
義理の伯父であるマリウスがローマ領内に粛正の嵐を呼び起こし、叔父であるルキウス・ユリウスを含む元老院議員50名、そのほかの人物にいたっては数えきれないほどのローマ市民を虐殺した挙句自分はすぐに死んでしまうという事件が起こる。
事件を目撃したかどうかは定かではないが、カエサルはこれ以降血を見るのが極度に苦手になったという。良くも悪くもこの事件がカエサルの人格に及ぼした影響は大きい。
やがて東方の問題を解決してきたスッラがローマへと軍を進めてきた。スッラ自体も天才的な軍略家だったが、脇をローマ史上指折りの天才ポンペイウスと後にスパルタクスの乱を鎮圧するクラッススが固めている閥族派軍は非常に強く、マリウス派残党の平民派との激しい戦闘の末スッラがローマの覇権を握る。
スッラの平民派への弾圧はすさまじく、再びローマに血の雨が降り、さらに平民派の人物リストを作り密告制度を徹底させ、報告者には報奨金を出すことまでした。
当初カエサルもそのリストに入っていたが、周りの人間がカエサルの名を削除するようにスッラに言ったという。そもそもこの頃カエサルはまだ何もできない年な訳でさ。
その際スッラはため息をつきながら周りの人間にこう言ったという。
「君たちにはあの男のなかに100人のマリウスがいるのが分からないのかね?」
卓越した才能を持ったスッラはカエサルの才能を見抜いていた。とはいえカエサルはマリウスには協力していなかったし、マリウスに叔父を殺されてもいる。さすがに処刑はやりすぎとスッラも思ったのか、カエサルにキンナの娘との離婚を条件に恩赦を出すことにした。
しかしカエサルはこれを拒否し、国外に逃亡することにした。
流石カエサルだと思う。
凡百の人間ならまず助命の嘆願は出てこない。次に並の人間であればここで離婚する。
しかしカエサルはそうではなかった。カエサルはこのために広大なローマ領内を逃げ回ることになり、時には洞穴の中で風邪をひき熱を出して寝込んだこともあるという。泥水だってすすったことだろう。
それでも、命の危険を冒してでも時の権力者に逆らうその姿勢はやはり英雄だと思う。
よくスッラのライバルがカエサルだったら?あるいはカエサルのライバルがスッラだったら?という話が出てくるが、そんなものはカエサルが勝つに決まっている。
スッラは間違いなくローマ1000年の歴史の中でも片手で数えられるぐらいの能力の持ち主だ。だがカエサルは、ローマはもちろん数千年の世界の歴史の中でも確実に5本の指に入る逸材だ。レベルではなく次元が違う。
カエサルなら、無意味な粛正などせずに平民派を味方としてしまうことだろう。無駄な血を流したスッラとカエサルでは器の大きさが違い過ぎる。
スッラの死とローマへの帰還、そしてロードス島へ
屈辱的な逃亡生活をしていたカエサルだったが、スッラの死と共にローマに帰ることが出来た。カエサルの一族のほとんどが粛正されてしまっていたが、母のアウレリアや妻と娘は健在で、母の側の実家のアウレリウス家も存続していたのもカエサルには幸いだった。
スッラの死と共に反スッラ派と言ってもよい人物たちが攻勢をかけるが、カエサルはこの動きには同調していない。カエサルは機を見る天才であるとともに人を見る天才でもあったのだろう。この時期反撃を開始した人間たちは結局のところ全員失敗した。カエサルには失敗が見えていた節がある。
当のカエサルはローマで弁護士を開業するが、弁護士としての腕はイマイチだったようで連戦連敗している。ライヴァルのキケロが当代一の弁護士で連戦連勝であったのとは対照的だ。人には向き不向きがある。カエサルが向いていないのは弁護士ぐらいだろう。
功を焦ったとでもいうべきか、この時期カエサルは執政官経験者でもあったドラベッラという人物を告発し、失敗している。再び有力者ににらまれたため、カエサルはエーゲ海に浮かぶロードス島への留学を開始、運の悪いことに道中海賊に捕まってしまう。
この時期のギリシャには海賊が頻繁に出没するようになり、特にローマ市民は狙われやすかった。なにせ裏ではポントス王のミトリダデスが資金援助をしていて、積極的にローマの勢力をそぎ落とそうと画策していたのだから。
ロードス島への留学に向かう途中、カエサルを乗せた船が海賊に拿捕されてしまう。
海賊はカエサルの身代金を20タレントと決めたが、カエサルはこれに激怒して言った。
「この私を誰だと思っている!その程度の身代金でバカにしているのか?」
そういってカエサルは身代金を50タレントに値上げしたのである。人質の側が身代金を増額するなんて聞いたことがない!
20タレントは4000人の兵士を雇えるほどらしいので、50タレントとなると10000人以上の兵士を雇える計算になる。現代の価値で言ったら億単位になるだろう。
普通海賊に捕まったら震えて何もできないと思うが、こういう部分がカエサルが英雄たる理由だと言える。カエサルは海賊に捕まっている間海賊たちと遊び惚けていたというから豪胆だというべきだろう。
カエサルはこのようにどんな逆境でもそれをものともしない精神の持ち主であった。身代金は無事払われ、カエサルは近くの港に降ろされた。降ろされてすぐに人を雇うと即座に兵団を組織し、自分を捕えた海賊たちを一網打尽にしてしまう。
ローマにおける知識人階級はみなラテン語とギリシャ語のバイリンガルで、ローマ文化そのものがギリシャ文化の影響を強く受けており、中でもロードス島はアテネと並んでローマ人の主要な留学先となっていた。
カエサルは大人しく勉学に励むタイプではなかったようで、しばしば私兵を率いて海賊やローマの敵対勢力との闘いを勝手にやっていたようだ。
そうこうするうちに母方の伯父であるアウレリウス・コッタが小アジア(現在のトルコ)にあるビティニア属州の総督になったので、カエサルもそちらに向かうことにした。
元々このビティニアは王国だったのだが、ニコメデスという王様が死後ローマに統治を任せたという経緯があり、しかも隣はミトリダテス率いるポントスであった。
伯父のアウレリウス・コッタは法学者としては優秀でも軍事の才能はからっきしであったようで、ポントス軍の侵攻を前に逃げ出した挙句勝手に病死する始末。まぁ、学者なんだから仕方がないわな。
アウレリウス・コッタは神祇官の地位にもあったため、カエサルは代わりにその地位に任命されることになり、再びローマにもどることになった。
長い雌伏の時
大器晩成という言葉はまるでカエサルの為にあるような言葉だ。
最大のライヴァルであるポンペイウスがミトリダテスを大いに破り、もう1人のライヴァルであるクラッススがスパルタカスの乱を平定していたころ、カエサルは未だに何も為していなかった。
カエサルは30歳にしてようやくクワエストル(会計検査官)に選ばれ元老院入りするが、スッラの改革により20名に増員されていたためそこまでの権力はなかった。
ちょうどこの頃伯母であるユリアと妻であるコルネリアが亡くなっている。
ユリアの夫はマリウスだった。スッラによってマリウス派は根絶やしにされていたが、カエサルは大胆不敵にもユリアの葬式の際にマリウスの像を作らせて飾らせている。自らを平民派の後継者とする宣言であったと言って良いだろう。
この豪胆さが英雄の英雄たる由縁だと思う。ともすれば追放や死罪すらあり得る行動を、平然ととってしまえるのがカエサルなのである。
それでもカエサルにも焦りの気持ちはあったようで、任地スペインのガデスにある神殿にてアレクサンダー大王の像を前にした際「アレクサンドロスが世界を制覇した年になった。なのに私は未だに何もなしえていない」と口にしたという。
一方この頃のポンペイウスは数々の戦功を挙げ凱旋式を二度行っており、最高位であるコンスル(ローマ執政官)も経験していた。ギリシャ世界やセレウコス朝シリアをも制し、ローマ市民からは英雄ともてはやされていた。この時期の2人の間には天と地ほどの差もあったのである。
スペインからローマに帰るとカエサルはポンペイアという女性との再婚を果たす。
その後はエディリスと言われる要職に就き、37歳にして最高神祇官の地位に就くことなり、そこでようやく芽が出始めるのである。次の年にはプエラトル(法務官)に就任し、その次の年にはプロプエラトルとしてスペインの属州総督に任命されている。
40にして立つという言葉を残したのは中国春秋時代を生きた孔子の言葉だが、まさにカエサルは40にして立ったのである。
三頭政治(トリウンヴィラートス)とコンスル就任
20代で既に英雄になっていたポンペイウスと違い、カエサルが世界史に登場するのは40になってからである。そして40になった瞬間に世界史でも有数の人物にまで一気に駆け上がるのであった。その様はまるで竜門の滝を登る鯉のようだ。
カエサルが40になった当時、ローマには4人の有力者がいた。1人はスペインにいたマリウス派を一掃し、ミトリダテス戦争を終結させ、海賊を地中海から一層した英雄ポンペイウス、もう1人は騎士階級を代表し当時のローマの国家予算の半分ほどの資産を持ったクラッスス、さらに大カトーの血を引く元老院派小カトー、最後にローマ最高の弁護士にしてローマ史上最高の哲学者と評価されたキケロ、この時期になってようやくカエサルもそこに加わる訳である。
これら有力者のうち、ポンペイウスとクラッススは大変仲が悪かった。ポンペイウスは金貸しで成り上がったクラッススを馬鹿にしていたし、クラッススはポンペイウスに対し激しく嫉妬していた。なので誰もこの2人が手を組むとは思っていなかった。
また、カエサルがこの2人と手を組むとも誰も思っていなかった。
なにせカエサルはポンペイウスの妻ともクラッススの妻とも浮気していて、三角関係どころか四角関係であったのだ。カエサルは兎角スケベな男で、しかも剥げていて、街中でよく「禿のスケベ!」と声をかけられては嬉しそうにしていたという逸話が残っている。
ポンペイウスからしたら自分が必死に戦っている最中カエサルは人の奥さんとよろしくやっている訳だから仲良くなるなんて思う訳がない。ポンペイウスはそれがもとで奥さんと離婚しているぐらいだったし、まさかカエサルとポンペイウスが手を組むとは誰も思わない訳である。。
だが、誰も思いつかないことをやるのが英雄である。
いつのまにかローマが生んだ2人の英雄は手を結んでいた。カエサルは1人娘のユリアをポンペイウスと結婚させ、ポンペイウスも心の底からユリアを溺愛していたようで、2人は義理の親子の関係にまでになっていった。
カエサルとクラッススの関係もまた摩訶不思議な関係だった。カエサルはクラッススに多額の借金があった。どれぐらいかは知られていないが、数万人規模の兵団が組織できるほどの額であったらしい。10億とかそんなぐらいの額だったんだろうなぁ。
カエサルの凄いところは、借りた分を自分で使わずに庶民にばら撒いていた点であろう。庶民が楽しむ見世物だったり庶民が食べるパンだったり、カエサルは借財を己の為には使わなかったらしい。
現代日本でもビートたけしと長嶋茂雄は何をやっても許されると言われていて、この人たちだったらしょうがねぇなぁという部分があるが、カエサルもそんな感じの何をやっても憎めない人物何だと思う。
秀吉もそうだが、時代を変える英雄には他の人物にはない魅力がある。
普通は金を借りている方が立場が弱いはずなのだが、カエサルとクラッススに関してはなぜかカエサルが立場が上だったようだ。カエサルが借金とりに家を囲まれた時もクラッススはなぜかカエサルの借金を肩代わりしている。きっと不思議な魅力があったのだろう。
カエサルは後に将官クラスの人間たちから借財をして兵士たちにばら撒くということをして、これが大いに効果があったとして喜んでいる。兵士たちのやる気は出たし、将軍たちは死なれてはたまらんと思ってやはり必死になって戦ってくれるので最高だと。
カエサルという男は非常に楽観的で、悲観的になることやネガティブになることを知らない人物であるようだ。
そんなカエサルが間に立ち、三頭政治は形成された。
三頭政治は当初完全に秘匿されていて、一説には半年ほども秘密にされていたという。
時は紀元前60年、第一回三頭政治はこのようにして始まったのだった。
カエサルは40代で共和政ローマにおける最高の地位コンスルに就任している。
そもそもコンスルの地位は40をすぎないと就けないため決して遅くはないし、むしろかなり若くして就任している。ポンペイウスが決まりを破って30代でコンスルに就いているのでカエサルが遅く感じてしまうのだ。後代では19歳でコンスルの地位についたマルクス・アウレリウス・アントニヌスなどの礼もあるが、それは時期皇帝を約束された存在であり、まさに例外中の例外である。
コンスルに就任したカエサルは三頭政治を背景にグラックス兄弟が制定しようとして粛正されてしまう原因となった「農地法」を反対派を抑えながら制定し、自らはプロコンスルとしてガリア属州に向かうことにした。
ガリア戦記~ヨーロッパはカエサルが作った~
イギリス史上最も有名な首相であるウィンストン・チャーチルは「大英帝国の歴史はカエサルのブリアタニア遠征から始まった」という言葉を残している。
ユリウス・カエサルが来るまでヨーロッパは未開の地であったと言える。当時ヨーロッパはガリア人(ケルト人)とゲルマン人という2つの大きな民族がすんでおり、たびたびローマを荒らしていた。これはちょうど中国の漢王朝を北方民族である匈奴が荒らしていたのと同じ構造だと言える。
カエサルが征服した土地は現代で言うところのベルギー・オランダ・ルクセンブルク・スイス・フランス・イギリスのイングランド・ドイツの西4分の1という広大な地域に及ぶ。中国を作ったのが秦の始皇帝ならヨーロッパを作ったのはカエサルだと言えるだろう。
カエサルはガリア人達をただ倒しただけではない。農業を教え、ローマ化し、自らの名前まで与えたのだった。後にガリアはローマ化の手本と言われるほどとなり、最も成功した属州となる。
カエサルはこの広大な地域を支配するのにたったの8年でそれを完了していて、その速さたるやアレクサンダー大王の東方遠征に匹敵すると言っても良いだろう。
時代が違うとは言えナポレオンのフランス第一帝政の版図よりも広く、そして速い。
カエサルのガリアでの活躍はローマ史上最高の名文と言われる「ガリア戦記」に任せるとして、この時期ローマ本国では三頭政治派と元老院派で激しい内部対立が起きていた。
元老院派の筆頭はキケロと小カトーで、カエサルがいない間の8年間で大きくパワーバランスが崩れた。
カエサル側にとって誤算だったのが娘ユリアの死で、これによってポンペイウスが完全にやる気を失ってしまい、最終的には元老院側についてしまったことと、クラッススが東方の大国パルティアとの戦闘で亡くなってしまったことであろう。
カエサルがガリアでケルト人達と戦っている頃、首都ローマでは元老院派の議員たちがポンペイウスの取り込みを謀っていた。
かつての英雄ポンペイウスも、愛する妻を失ったためか、カエサルへの敵対を決意する。
ガリア遠征開始から8年目の冬、元老院はついにカエサルに対して「元老院最終勧告」を出した。
当時護民官だったアントニウスはカエサル派の人間で、元老院が決議をしては拒否権を発動させるといういたちごっこを繰り返していたが、元老院側は強行ともいえる手段でこれを採決、カエサルは国家の敵となったのだった。
賽は投げられた
カエサルの眼前にはルビコン川の流れがあった。
この川を渡ればもう引き返せない。
だがカエサルに選べる手段などはなかった。兵士たちに向かってカエサルは、その特有の短くとも意味の分かる言葉遣いを見せた。
「河を渡ればそこには人間世界の悲惨。渡らなければ身の破滅。進もう、神々の待つところへ、我々の敵の許へ、賽は投げられた!」
カエサルとその軍勢はローマに向かって進軍して行った。
ローマの市民たちは皆カエサルの味方だった。道行く町はカエサルに対して門を開け、喜んで食料を提供した。
怒涛の勢いで進撃を繰り返すカエサルとその兵士に怖気づき、元老院議員達は尻尾を巻いて逃げ出した。
ポンペイウスはローマでの戦いは不利と見て、自らの地盤であったギリシャに向かった。
生まれてからこの方、敗北を知らぬ名将には勝算があった。
しかしその勝算が仇となることを、まだこの天才は知らなかった。
両雄並び立つがカエサル敗北す
カエサルは、決して無敗の将軍ではない。
ガリア遠征においてもしばしば敗北を味わっている。
一方のポンペイウスは敗北を知らない。若き日よりスペインにて平民派の生き残りを殲滅し、海賊たちを成敗し、アンティゴノス朝シリアを属州化し、ミトリダテス戦争を終了へと導いた。まさにローマの英雄であり、人々はポンペイウスマーニュ(ポンペイウス大王)と言って称賛を惜しまなかった。
ローマ人は500年かかってイタリア半島を統一したが、ポンペイウスはわずか10年ほどでギリシャやシリアなどのオリエント地方を制圧してしまったのである。
現代のヨーロッパの大半を制圧したカエサルとオリエントの支配者となったポンペイウス。ローマの長い歴史でも最高の才能をもった両雄が、ついに激突することになった。
カエサルの進軍を知りポンペイウスは自らの勢力圏内であるギリシャへと向かう。
ポンペイウスはかつてギリシャに巣食う海賊たちを征伐した過去を持ち、ギリシャでは大変人気が高かった。実際に兵力の差は歴然であった。ポンペイウス側の兵力はカエサル側の倍以上、勝敗を分ける騎兵の数は7倍以上。勝負は見えていた。
さかのぼること100年前、カンネの戦いとザマの戦いでは騎兵の数が勝敗を分けた。
どちらの戦いも騎兵を多く擁した勢力が勝利を手にしている。
ローマの人間なら誰でも知っている事実であった。
カエサルはポンペイウスに講和を申し入れる。
カエサルが敗北を知っていたからだろうか?
ポンペイウスはこれを断り、2人の英雄はギリシャのデュッラキウムで激突した。
結果はカエサルの惨敗だった。
軍団の象徴とも呼べる軍旗は奪われ、なすすべもなく敗退し、戦場から撤退するしかなかった。
あまりにも負けっぷりが酷いため、ポンペイウスは伏兵を警戒し追撃をしなかった。カエサルの側にそのような罠など用意する余裕などなかった。
「もしポンペイウスが追撃をしていれば勝利は完全に敵のものだった」
後にカエサルはそう語る。
ローマ史上最高の天才の1人であるポンペイウスを前に、カエサルはまるで歯が立たなかった。
カエサルは無敗の将軍ではない。
だが、それがカエサルの真の強さなのである。
カエサルは、負けるたびに強くなる。逆境であればあるほど強くなる。
カエサルの一番の長所はどこであろうか?
ガリア戦記を書けるような文章力?あらゆる改革を実行してしまう政治力?あらゆる敵を倒す軍事力?
挙げればキリがないほどたくさんあるだろう。
でも俺は思う。
カエサルの真の長所とは追い詰められた時のその恐ろしいほどの強さではないだろうか?
敗走するカエサル軍を、元老院議員たちは追った。
カエサルと元老院派の戦いは、ファルサロスの地で行われることになった。
ローマの関ケ原!ファルサロスの戦い
日本の世界史の教科書には大いに不満がある。
それはどの教科書にも用語集にも「ファルサロスの戦い」が載っていないことである。
紀元前において4大会戦と呼ばれる闘いがある、アレキサンダー大王のアウベラ・ガウガメラの戦い・カンネの戦い・ザマの戦い、そしてこのファルサロスの戦い。
内乱の1世紀、いや、ローマ史上最大の会戦であるファルサロスの戦いが載っていない教科書など無意味だ。
当時カエサルは圧倒的に不利だった。
両軍の戦力は当時このようになっていたという。
ポンペイウス側(元老院側):約6万、うち騎兵7000騎
カエサル側:約2万3,000、うち騎兵2000弱騎
どう考えたって勝ち目がない。
カンネでハンニバルが勝てたのは、ザマでスキピオが勝てたのは、騎兵の数で勝っていたからである。
ローマの将兵たちはしばしば数の不利を覆してきた。10万の兵を率いたミトリダテスを3万の兵で勝利したスッラ、キンブリ族とテウトニ族10万人をわずか3万人の兵力で破ったマリウス。
だが、今回はそれらとは違う。敵はスッラやマリウスを上回る才能の持ち主無敗の大王ポンペイウスが指揮をとり、ローマの戦術と装備をもったローマ兵である。騎兵の数も負けている。そしてカエサルはポンペイウスに勝ったことがない。そして実は食料もない。持久戦に持ち込めば不利なのはカエサルだった。そしてそれをポンペイウスは知っていた。
絶望と呼ぶに相応しい戦場である。
にもかかわらず、カエサル側の兵士は誰も逃げなかった。
そして、勝利を確信していた。
圧倒的不利を覆すのはいつだって士気の高さだ。
そして国が衰退するのはいつだって同士討ちだ。
元老院の議員たちはもう勝った気でいた。勝手にカエサルを追撃したのは彼らだったが、ポンペイウスは持久戦を主張した。カエサル軍の食糧事情を知っていたポンペイウスは、消耗させれば自滅することを知っていたからだ。それを見越してギリシャの地にカエサルをおびき寄せたのだ。
だが圧倒的な兵力を背景に何を恐れることがあるのかね?と言った具合に元老院はカエサルとの会戦に踏み切った。
もし戦場で自分は負けるかも知れないと思った人物がいるならば、それはポンペイウスただ1人であっただろう。
戦いの詳細を語るとそれだけで1記事になるため別記事にて詳述させてもらうが、歴史が示すように勝ったのはカエサルだった。
元老院側が万を超す死者を出したのに対し、カエサル側の死者は1000人を少し超えるぐらいであったという。
勝負を決めたのは兵の質と士気、そして騎兵の封じ込めにあった。
ポンペイウスがカエサルを追撃しなかったのは、罠があると思ったからだけではなく、兵士の経験が不足していたからでもあった。ポンペイウスはローマを離れ、ギリシャに来た訳だが、兵の質で言えば負けていることをよく知っていたのである。
カエサルの軍団はガリアからのベテラン兵であり、実戦経験も豊富だった。一方ポンペイウス側の兵はもう10年近く戦闘を経験していなかった。海賊もオリエントの王も敵と呼べるような存在はポンペイウスが倒しつくしてしまったからだ。
カエサルの作戦は騎兵を倒すというシンプルなものだった。
将を射んとする者はまず馬を射よとは東洋の諺であるが、カエサルはこれをやった。カエサルの作戦は人間が馬の前に突っ込んでいくという単純極まりない方法だった。そうすると馬は止まる。止まった隙に騎兵を槍で刺す。
今迄は騎兵に対して距離を取り投げ槍で対抗していたのだが、この単純な手法で7,000騎の馬を止める。そして背後から自軍の騎兵で攻撃する。
これで敵の騎兵を殲滅したのであった。
土壇場で、命のかかったこの戦場でこれを思いつく。カエサルがローマ最大の英雄と言われる所以である。
カエサルに絶望はない。常にそれをどう突破するかという思考しかないのである。
最大のライヴァルの死とクレメンティア
カエサルはなぜこうも後世の人々、そして当時のローマの人々に愛されたのであろうか?
強い人間は好まれる。
これは単純な真理だが、カエサルはスキピオよりもハンニバルよりも人気があった。
それはきっと彼のクレメンティアに遭ったのだと思う。
クレメンティアは日本語では寛容さと訳される。
カエサルは寛容であった。自分に敵対したポンペイウス派の人間を、戦闘以外では誰1人殺さなかった。
兵士たちも、将兵達も含めて。
これがスッラやマリウス達とは違うカエサルの魅力であった。
カエサルはガリアの人々に自分の名前を与え、敵対した人間達を常に、そしていつでも許していた。
カエサルは優しさと愛情に満ちた男だったのだ。
「強くなければ優しくなれない 優しくなければ生きている意味はない」という言葉はレイモンド・チャンドラーの生み出した探偵フィリップ・マーロウの言葉だが、カエサルほどこの言葉が似合う男もいないだろう。
ポンペイウスはエジプトに逃げ込み、そして殺された。首はカエサルのもとへ送られ、カエサルはそれを見て涙したという。
最大のライヴァルであり、かつては娘の夫であり、そして友でもあったポンペイウスの死に、自分を裏切り命を狙った相手の死に涙したのである。
来た、見た、勝った(veni, vidi, vici, )
カエサルはエジプトに上陸した。
プトレマイオス朝エジプト。
そこはアレクサンダー大王によって支配され、そしてディアドコイ(後継者戦争)によってギリシャ人であるプトレマイオスが建てた王朝である。
歴代の男の王はプトレマイオスを名乗り、女王はクレオパトラを名乗っていた。
当時は女王クレオパトラ7世と弟王プトレマイオス13世が共同統治をするはずが内紛の結果弟が姉を追放するという状態だった。
禿でスケベなカエサルは当然クレオパトラに味方し、ナイルの戦いにてプトレマイオス13世を撃破、クレオパトラを女王に据えることに成功する。
クレオパトラはカエサルの愛人となり、2人はこの頃ナイル川のクルージングなどを楽しんでいた訳だが、そうこうするうちにミトリダテスの息子であるポントス王ファルケナス2世がローマ軍を破ったという知らせが届き、カエサルは自ら赴き一瞬にしてポントス王に勝利をおさめる。その時に有名な「来た、見た、勝った」という手紙をローマに送っている。簡潔な文章を好むカエサルの性格がよく出ている文である。
にしてもこのポントス王親子は…
スッラ、ポンペイウス、カエサルの3人をよく相手にする気になったよなぁ。
アフリカ戦役・スペイン戦役
元老院派、もといポンペイウス派の残党狩りは続く。北アフリカ、スペインと転戦し、勝利し、そしてローマにもどった。
ローマでは4日間にわたり凱旋式を行い、そこにはクレオパトラや息子のカエサリオンの姿もあったという。
カエサルは元老院派として戦いに参加したものを、誰一人処罰することなく許したという。
共和政の崩壊~終身独裁官就任と行政改革~
いつの世も行政改革は進まない。日本の腐りきった行政を改革できる者など今の日本にはいない。
改革は常に利益を享受している人間の手によって潰される。
カエサルを潰せる者はもういなかった。
カエサルはまず元老院の定員を600人から900人に変えた。この100年で元老院の議員の数は3倍になった計算になる。
プラエトルやクワエストルの定員も増やした。
そして本来なら任期半年の間で認められる終身独裁官の地位についた。
共和政の崩壊である。
もし今の日本の腐った現状を改革できるとしたら、それは独裁者が鉈を振り下ろすしかないであろう。ローマでも同じだった。
グラックス兄弟による改革の失敗の礼でもわかるように、ローマの元老院は腐敗していた。
兄弟の定めた農地法を成立させたのはカエサルである。
100年近い時を経て、ようやく改革は完成したのだ。
しかし、同時に彼らが守ろうとしていた共和政も終わりの時を迎えた。
カエサルは実に多くの改革をした。
・国立造幣所の開設
・属州制度の区画割の整理
・宗教の自由
・司法改革
・福祉政策
・失業者対策
・治安対策
・ローマ再開発
・各種公共事業
などなど、ここには書ききれないぐらい多種多様な改革をし、後のローマの基礎を作ったのがカエサルなのである。日本の政治がほぼ全ての改革に失敗するのに対してカエサルの改革はほとんど成功した。
特に有名なのがユリウス暦の制定とユダヤ人への宗教の自由で、ユリウス暦は紀元前700年代のヌマの時代からの暦の改定で、ユダヤ人には信仰の自由を認めた。
医師や教師になるものは出自を問わずローマ市民権を与えるとしたため、各地から優秀な人物が集まり、教育と医療が発展して行った。
軍事に政治に文学に、カエサルの活躍はとどまることを知らない。
だが、急激な改革は反対派を形成する。この場合の反対派とは元元老院派の面々である。
彼らはカエサルによって許され、以前と変わらぬ権利を与えられ、相も変わらず元老院議員であった。
悲しいかな、カエサルの美点ともいうべきクレメンティアこそが、カエサルの最大の欠点であり、その優しさが彼の命を奪ってしまったのだった。
寛容は果たして罪なのか否か。
英雄暗殺!ブルータスよ、お前もか・・・
1人の英雄が死んだ。かつて命を助けた人間達によって殺された。白昼堂々、元老院が開かれる時を見計らっての凶行だった。
カエサルの最期のセリフ「ブルータスよお前もか・・・」があまりにも有名過ぎるせいで主犯がブルータスだと思われがちだが、主犯はカシウス・ロンギヌスという男である。
この男はかつてクラッススがパルティアと戦っていた際騎兵を連れて勝手に逃げ出した男であり、ポンペイウス側についたもののカエサルが勝つとあっさりカエサルに服従を誓ったような芯のない男であった。
平清盛が源頼朝を殺さなかったせいで子孫の繁栄が途絶えてしまったように、寛容さは時に悲劇を起こす。世の中には救いようがない人間というのもいて、カシウスがその例だと言えるだろう。
イエスを裏切ったユダは有名だし、日本だと小早川秀秋が有名だが、この男もそういう意味では有名だ。この3人は世界3大裏切り者と言っても良いだろう。
だがカエサルの暗殺には約40人もの元老院議員が参加していた。カシウスやブルータスのようにカエサルとかつて敵対し、許されたものばかりではなかった。ガリア戦役の時代からカエサルに付き従った将軍なども暗殺に加わっていた。
なぜ彼らがカエサル暗殺に走ったのかはわかっていない。
個人的な恨みかも知れない。共和政を守るためだったかも知れない。あるいは首謀者であるカシウスに弱みでも握られていたのかも知れない。卑怯者なので人質ぐらいとったであろう。
彼らの末路はいずれも悲惨だった。ローマ市民からは石を投げられ、カエサル暗殺から2年後の朝を迎えた者は誰もいなかった。
古今東西の裏切り者で、良い死に方をした者はいない。
カエサルの後継者
カエサルは死ぬ前に遺言状を遺していた。
誰もがカエサルの副官であったアントニウスを後継者だと思っていた。あるいは愛人クレオパトラとの子カエサリオンにするのかも知れないと。
しかしカエサルの遺言状にはカエサリオンの名前もクレオパトラの名前もなかった。それを知ったクレオパトラはカエサリオンを連れ一路エジプトに向かって船を出した。
アントニウスの名はあった。ただし後継者としての名ではなく、遺言の執行人および正妻であるカルプルニアに子供が出来ていた場合の後見人としての名前だった。
ブルータスの名前もあった。もし第一相続人が何らかの理由で相続できなかった場合の第二相続人としての名であった。まさかブルータスが自分を暗殺するとは夢にも思っていたなかったであろう。仮にブルータスが後継者でもそれほど人は驚かなかったであろう。
だがカエサルが広大なローマを担う後継者として指名したのは、誰も知らない、何の実績もない、まだ18でしかない少年だった。
軍事の才能などまるでなさそうな細面な少年は名をオクタヴィアヌスと言った。
カエサルは彼に資産の4分の3を遺し、養子にし、カエサルの名を継がせた。
誰もがこの遺言状の内容に驚いた。
だがカエサルの人を見る目は確かであった。超一流であるがゆえに、超一流を見抜く力があったのだ。
この時はまだ、オクタヴィアヌスのことを世界が知らなかった。
今では世界中の誰もが知っている。2000年を経た現在であってもだ。
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス
やがてオクタヴィアヌスがそう呼ばれることを、予測していた人物がいたであろうか?
きっといない。
ただ1人、カエサルを除いては。
個人的なカエサルの評価
「指導者に求められる資質は次の5つである。知性、説得力、肉体的な強さ、自己制御能力、持続する意志。ただ一人カエサルだけがこの全てを持っていた」
これはイタリアの歴史の教科書に載っている1文であるそうだ。
世界史にはさまざまな英雄や君主が出ては消え、出ては消えしていくが、カエサルだけは決して消えることはなかった。
今でも皇帝を表すのはツァーリ、カイザー、エンペラーと全てカエサルの名前である。
カイザーやツァーリは第一次世界大戦のあたりまで使われた名称で、カエサルを主人公にすえた映画や小説は現代にも多数存在する。
それほどの大きな存在である。
王朝の基礎を作っておきながら自ら王位に就かなかった点や常識を破り様々な制度を考案したことなど、三国志の曹操や日本の織田信長に存在としては似ていると思う。もちろんその影響力はけた違いではあるが。
歴史上最も出版物の多い作家であるウィリアム・シェイクスピアは「ジュリウス・シーザー」を書き、ナポレオンはカエサルの研究を怠らなかった。
世のあらゆる人間を魅了してやまないその人生は、まさに英雄と呼ぶに相応しいと言えるだろう。
このブログのハンドルネームを決める時、自分の中ではカエサルという名前しかなかった。今でもそれ以外浮かばない。
この記事はこのブログ始まって以来最も長くなってしまったが、カエサルの魅力を伝えるには結局この1記事では間に合わなかった。なのであと何記事かカエサルについて書きたいと思う。
最後に、第二回目のノーベル賞を受賞した作家ドイツのテオドール・モムゼンがカエサルを評価した言葉で締めたいと思う。
「ローマが生んだ唯一の創造的天才」
これほどカエサルという男を表した言葉もないんじゃないかと思う。