オクタヴィアヌスの生涯とローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが世界史上最高の名君である理由について

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世界の歴史を考えた時に、名前が挙がる日本人は残念ながらほとんどいない。高名な日本の歴史作家司馬遼太郎は「日本はついに英雄を持ちえなかった」と言っているが、あえて言うなら世界でも名が知られているのは東郷平八郎ぐらいであろうか。

日本には優秀な人物がかなり多い。徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、この辺りは能力だけを考えるならば世界史レベルであろう。

だが、世界史に与えた影響度を考えるとやはり非常に小さい。

では、世界の歴史に最も影響を与えた人物は誰か?

この問には幾人もの名前が挙がる。

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスはまず真っ先に名前の挙がる人物の1人であろう。

 わずか18歳でカエサルの後継者に

古代ローマが世界史に与えた影響は計り知れない。

14世紀イタリアで花開いたルネサンスはギリシャ・ローマ文化の再興であったし、現在でも上院を表す単語として元老院を表す「セナトゥス」を使っている国は多い。

世界言語と言っても過言ではない英語の単語は約40%が古代ローマの言葉であるラテン語由来であるし、ローマ史の研究家は多く、その代表格であるテオドール・モムゼンはノーベル文学賞を実際に受賞した。

その他にも多大な影響を与えている訳だが、それらを書くとそれだけで物凄い分量になってしまうのでその辺りは折に触れて書きたいと思う。

さて、そんなローマの中でもモムゼンをして「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と言われたのがユリウス・カエサルで、彼は内乱状態だったローマをあと一歩統一するところまで来ていた。

彼は終身独裁官となり、各種の改革を断行したが、独裁制を恐れる元老院議員たちによって殺された。

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自らの暗殺を予期していたのかいないのか、カエサルは生前遺言状を遺していた。

その内容はローマ中に激震を走らせた。

カエサルはその遺言状の中でオクタヴィアヌスという青年を自らの養子にし、カエサルの名を継がせるとしたのである。

未来を知る我々はオクタヴィアヌスという青年がどのような人物になるのかを知っている。だが、当時のローマ人は誰一人オクタヴィアヌスが誰だかわかっていなかった。

カエサルの副官を務めたアントニウスやレピドゥスはこの決定に憤慨し、カエサルの遺言状を無き物にしようとした。

「オクタヴィアヌス?WHO?」

これはカエサルの副官たちだけではなくローマ市民及び元老院に共通した思いだったのだ。

何の実績もない病弱な青年

共和政ローマにおいては、クルスス・ホノルムと言われる出世コースが存在していた。

クワエストルやアディリスと言った要職に当選し、やがてはプラエトルやコンスルになってその後は属州の総督になる。

現代日本で言ったら開成や灘から東大に行って国家一種試験を受けた後官僚になって天下りをするといった感じだろうか。

日本に例えると邪悪で夢のない感じになるが、日本とローマは違う。要職に当選することは非常に名誉なことであったのだ。

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これらの要職には貴族でも平民でもエクイテス階級でも選挙で選ばれれば就任することができるが、そのための年齢制限があった。過去のローマにおいても若き天才であったスキピオやポンペイウスもこの年齢制限にひっかかりコンスルやプラエトルと言った指揮官にはなれないままそれぞれの戦闘に参加せざるを得なかったほどだ。

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カエサルの遺言状が公開された時、オクタヴィアヌスはまだ18歳であった。

しかも彼は病弱で青白く、戦闘に参加しようとして体調を崩し寝込んでしまうほどであり、要職と言えば神祇官ぐらいしか経験のない人物であった。

プラエトルの経験者もコンスルの経験者も豊富だったローマにおいて、だがカエサルはオクタヴィアヌスを後継者にした。

カエサルは世界史上でも功績の多い人間であるが、最大の功績は何の実績もないオクタヴィアヌスを後継者にしたことだと言えるだろう。

確かにオクタヴィアヌスはカエサルの姉の孫なので血縁関係は一応あった。だが、それだけでは当然なかったであろう。超一流は超一流を見抜く。カエサルはオクタヴィアヌスの才能を正確に見抜いていた。

世界史で最高の政治能力をもった人間は誰か?

その問いに俺はオクタヴィアヌスと答える。

だが、オクタヴィアヌスには軍事的な才能は全くなかった。正直言って弱かった。もちろんカエサルはそれも見抜いていて、傍らにアグリッパという名前の青年を配置しておいた。

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オクタヴィアヌスの才能の一つに、苦手なことは人に任せられる才能というものがあると俺は思っている。そしてそれは天下を取れる才能だ。

会社でも、カリスマ社長がいるよりも分業がしっかりしている会社の方が長続きする。人間1人で行えることには限度がある。

個人の資質だけで考えたらカエサルの方が圧倒的に上であろうと思う。カエサルは一級の政治家であったし、戦闘にも強かった。しかも文字を書けばやはりそれも一級になる。だが残念ながら天下はとれなかった。

第二次三頭政治

アントニウスの最大の失敗は、カエサルの暗殺犯に対してしばらく放置をしていたことであろう。

アントニウスの資質は、軍事面であればオクタヴィアヌスを遥かに凌駕し、アグリッパと大体同程度であるが、政治的な面では全然ダメだった。

アントニウスはオクタヴィアヌスを見て「カエサルの名前を継いだだけの奴」という評かを下し、自らがカエサルの後継者になることを勝手に決めた。

だが、オクタヴィアヌスは名前を継いだだけの男ではない。

留学先のギリシャでカエサル暗殺の報を受けたオクタヴィアヌスはローマに戻る途中、真っ先にキケロに会いに行った。

当時のローマはアントニウスがコンスルとなっており元老院派と結託した挙句にカエサル暗殺犯には恩赦を与えるという有様であったので、有力者であるキケロは呆れて自宅にこもっていたのだ。

オクタヴィアヌスはキケロの心をつかむのに成功した。そしてともにアントニウスを批判し、カエサルの元部下たちに自ら借金を負ってまで報奨金を渡した。

実はカエサルの遺言には自らの財産をオクタヴィアヌスに渡すようにと記されていたが、アントニウスはそれを着服していたのでオクタビアヌスには金がなかったのだが、方々に金策に走り報奨金を実現させたのだ。

この辺り、オクタヴィアヌスがいかに優れた人物であるかが出ていると思う一方アントニウスがいかに小物であるかというエピソードでもあると思う。自らカエサルの後継者を名乗りながらその実なにも遺言を執行しようとしない態度に、ローマ中が失望した。キケロは弁護士としてはローマ一の実力をもっていて、その弁論は後世の参考にされたほどである。アントニウスはその辺りの政治的感覚がなかったとも言えるし、キケロを味方につけたオクタヴィアヌスの作戦勝ちともいえる。

有力者をいかに味方につけるかは古今東西重要なことで、現在のウェブサイト運営でもいかにインフルエンサーを味方につけるかというインフルエンサービジネスが重要だが、オクタヴィアヌスはまさにキケロと言う名のインフルエンサーを味方につけたと言える。

本来、元老院に入るためには上で上げたような要職を経験しなければならない。しかしこれまた先述したようにオクタヴィアヌスはまだその年齢には達していなかった。

にも拘わらずオクタヴィアヌスが元老院議員の地位を得られたのは、カエサル派の人間であるヒルティウスとパンサという2名がアントニウスの後のコンスルに就任したというだけではなくキケロが味方についていたからであろう。

誰に味方をして誰と敵対するか、そしてそれをいつするかということをオクタヴィアヌスはよく知っていた。

もちろん、多くの元老院議員が元々カエサルの許におり、今ではオクタヴィアヌスの配下となった兵士たちの存在を恐れたのもある。

オクタヴィアヌスはそのまま最高軍事権ともいえるインペリウムを元老院に認めさせ、そして打倒カエサル暗殺犯を旗印を掲げる。

立場が不利になったアントニウスやレピドゥスはこれを機にオクタヴィアヌスと手を結ぶことにした。

第二次三頭政治の開始である。

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VSカエサル暗殺犯

ようやく一致団結した形になった形になったカエサルの後継者たちは、カシウス・ロンギヌスや2人のブルータスと言ったカエサル暗殺犯達との戦闘を開始する。

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昨日の敵は今日の友という言葉があるが、オクタヴィアヌスとアントニウスはそうはいかなかったようで、まるで連携が取れない状態となった。しかしそれは敵方にとっても同様であったらしく、カシウスとブルータスの連携もうまくいかなかったようで、結果的にはオクタヴィアヌスとブルータスが、アントニウスとカシウスがフィリッピの土地戦うこととなった。

先述した通りオクタヴィアヌスは戦闘は全然ダメである。またアグリッパも軍事上の天才ではない上に経験も浅かったため、ブルータスに敗北してしまう。

幸いアントニウスがカシウスに勝利したため戦いそのものはカエサルの後継者たちの勝利となったが、これがためにアントニウスはオクタヴィアヌスをさらに軽視するようになる。

ローマ国内統一

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共通の敵がいなくなると今度は内輪で揉め始める。

これは世界の、人類のあらゆる歴史や文化の中で繰り返されてきたことであり、カエサル暗殺犯達を倒したカエサルの後継者たちはともに争い始めた。

始めはオクタヴィアヌスとレピドゥスの間でそれは起こる。

 フィリッピの戦いの後、東はアントニウス、ローマを含めた西はオクタヴィアヌス、北アフリカはレピドゥスのものとなり、それぞれの土地で反対勢力を次々に鎮圧していったが、ポンペイウスの息子とオクタヴィアヌスが戦っている際レピドゥスはオクタヴィアヌスを強襲した。

しかし覚醒したアグリッパの前にレピドゥスは敵ではなく、これを機にレピドゥスは失脚。

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残るアントニウスとの仲も、アントニウスがオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアと離婚しクレオパトラと結婚した時点で崩壊、ギリシャのアクティウムによる海戦へと駒へ進めることとなる。

クレオパトラに篭絡され、アントニウスはローマ領を勝手にエジプトに割譲するなどしてしまっていたため、アントニウス側の将兵は彼を見限り次々とオクタヴィアヌスに味方をしていく。

さらにオクタヴィアヌスは闘いをカエサルの後継者争いではなく、ローマ対エジプトの戦いとすることに成功。これにより戦いはローマの内戦ではなく、ローマを脅かす外敵プトレマイオス朝エジプトとの闘いへとすり替えたのである。

ローマの敵となってしまったことに愕然とした将兵たちはアントニウスの許を次々と去っていく。

エジプトにため込んであった財宝を使い傭兵を大量に集めるも、金で雇われた将兵の質は悪く、もはやアントニウスは敵ではなかった。

実際にアクティウム海戦が始まるとクレオパトラは戦場から逃げ出し、それを見たアントニウスも指揮官としての立場を放棄して戦場から立ち去る始末。

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アントニウスもクレオパトラも自害して果て、ここに内乱の一世紀と言われた時代は終わりを迎え、パクスロマーナと言われる時代が幕を開けたのである。

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プリンキパトゥス

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長く続いたローマの内乱を治めたオクタヴィアヌスは、盛大な凱旋式を行い、元老院からはアウグストゥスの尊称を与えられた。

アウグストゥスはカエサルの轍を踏まなかった。

カエサルはディクタトル(独裁官)となり共和政ローマの敵となってしまった。なのでアングストゥスは元老院を尊重するために自らをプリンケプス・キヴィタテス、つまりローマの第一市民と名乗り、独裁の意図はないことを示した。

しかしその実態はカエサル以上の独裁制であり、それは巧妙に行われることになる。

くわしくは別の記事に記載するが、一事が万事と言うがごとくアウグストゥスは慎重に、1つずつ、着実に足場を固めて行った。

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ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法と家族の不祥事

オクタヴィアヌスには生涯たった1人の娘しか生まれなかった。

この娘は最初マルケルスという男と結婚していたが、早逝してしまったため片腕であるアグリッパと結婚させる。

この結婚は成功で、3男2女をもうけることとなったが、アグリッパ亡き後はティベリウスと結婚させた。

しかしこの2人の仲が非常に悪かった。あるいは自分を道具としか見ていない父アウグストゥスへの反抗であったかも知れない。ユリアは複数の男との間に情事を楽しむことになる。

 オクタヴィアヌスはこれを罰しない訳にはいかなかった。なにせ、自身が立案した法案の仲に姦通罪。婚外交渉罪法があったからだ。

これはローマに秩序をもたらすための法案であったが、如何に皇帝と言えども法律は順守しなければならないというローマ法の原理は興味深い。

アウグストゥスはユリアを島流しにせざるを得なかった。

また、ユリアの息子達のうち2人はアウグストゥスよりも早く死んだ。残った1人はあまりにも素行が悪くこちらも追放せざるを得なかった。

アウグストゥスの再婚相手であるリヴィアの息子であるティベリウスを養子にし、次の皇帝とした。

アグリッパ亡き後のアウグストゥスの右腕はティベリウスだと言え、一度は反目したものの、やはりローマを任せられるのはティベリウスしかいないという判断であったのだろう。

だがアウグストゥスの中ではティベリウスは中継ぎの皇帝でしかなかった。

ティベリウスの皇位継承の条件として、姉オクタヴィアの孫にあたり同時に最愛の妻リヴィアの孫でもあるゲルマニクスを養子に迎えさせている。

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歴代のローマ皇帝は早死にであった。70を過ぎても皇帝でいられた者は少なかった。

紀元前63年に生まれたアウグストゥスは紀元14年まで生き延びた。

義理の息子であるティベリウスを後継者に迎え、最後には天寿を全うした。

享年76歳。

個人的なアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の評価

初代皇帝アウグストゥスが建てたローマ帝国は、この先400年以上、東ローマ帝国まで含めれば1500年もの長きにわたって存続することになる。

その基礎を作り上げたアウグストゥスの功績は、中華という概念を打ち立てた秦の始皇帝と並ぶであろう。

 始皇帝と違うのは、言論統制もそれほどはせず、基本的には文化振興に努め、ローマ市民たちの負担をかえって軽減させ、100年にわたって続いたローマ人同士の争いを終わらせ、パクス・ロマーナと言われた平和を実現させたことにある。

焚書坑儒を行った始皇帝に対し、アウグストゥスの治世においてはアエネーイスを書いたヴェルギリウスを輩出するなど文化面での発展も大きい。各種のインフラ面を整え、貨幣制度の統一を図り、政治を安定させた。

唯一の失政と言えばトイトブルク森の戦いにおいてゲルマン人に負けたことであるが、それも即座にティベリウスによって鎮圧された。

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パクス・ロマーナと言われた時代はマルクス・アウレリウス・アントニウスが亡くなるまでの間、約200年も続いた。

日本が戦争をしなくなって70年、徳川幕府に至っては260年間平和を維持したが、西はスペイン、東はシリアまで含むローマ帝国の広大さや地理的条件を考えると、島国である日本よりも格段に実現が難しいといえるようなことを成し遂げたというべきである。

総合的に一個人の資質を考えた時に、カエサルの方が優れているであろう。しかし古今東西の人物でアウグストゥス以上の功績を成し遂げた者はいない。

チンギスハーンは広大な帝国を作り上げたが、それを維持することも維持する気もなかった。

アレクサンダー大王も、自らの死後即座に帝国は分裂した。

始皇帝死後、即座に秦は滅亡した。

後世まで通用する政治システムを確立した帝国を作り出したのは、アウグストゥスが初めてである。

世界史においてまず真っ先に名前を挙げられるべき第一級の人物だと言えるだろう。