中華史上ワースト暗君!徽宗皇帝の風雅なる人生と愚かなる増税、そして靖康の変における亡国について

中国の歴史には実に300人にも上る皇帝が登場する。

その中の大半は暗君か暴君か傀儡と言った感じだが、その中でも際立った暗君が2人存在する。

秦の二代目皇帝胡亥と北宋の徽宗皇帝だ。

前者は「馬鹿」や「アホ」の語源にもなった人物で、宦官の言いなりになって賢臣を次々と殺害していき国を滅ぼした。

後者についてはこれから見て行くことにしよう。

 偶然皇帝になってしまった人物

徽宗は北宋の第六代目皇帝神宗の次男として生まれてしまった。

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神宗と言えば王安石を宰相に任用し改革を断行した人物であったが、崩御してその跡は息子の哲宗が継いだ。

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哲宗に関して言えば必ずしも良い君主だったとは言えないが、それでも徽宗に比べるとかなりマシな皇帝だったと言えるだろう。

哲宗の時代には母である宣仁太后による垂簾政治と新法派と守旧派の争いが続くなど政治的には衰退がはじまっていた時期であり、さらに哲宗は24歳という若さで崩御してしまう。

哲宗に子供がなかったため、弟の徽宗が皇帝になった訳である。

歴史的暗君徽宗

思えば徽宗も気の毒な人物であったかも知れない。元々は皇帝位など継ぐ立場になかった人物であり、政治的に無関心であっても本来ならば責められる必要などなかったはずなのだ。

私見だが、暴君と暗君は異なると思っている。

前者は積極的に政治に介入するが後者は基本的に政治には無関心である。例えば劉備玄徳の息子劉禅は誰がどう見ても暗君だが、暴君ではない。始皇帝や漢の武帝などは暴君だが暗君ではない。

暗君の特徴は個人的に以下のようなものだと思っている。

  • 政治に関心がない
  • 佞臣の言うことばかり聞く
  • 賢臣を退ける
  • 民に多大なる負担をかける

もちろん暴君と暗君を兼ねる場合もあれば暴君と名君を兼ねる場合もある。ただ、暗君と名君を兼ねることはない。

徽宗はこれらの条件を全て完璧に満たすパーフェクト暗君である。

花石鋼

徽宗が行った政策の中でも最悪なのが「花石鋼」であろう。

かなりの世界史マニアでも聞いたことがない用語かも知れないが、国の命運を左右するほどの悪政の象徴で、水滸伝が好きな人なら楊志という人物が転落するきっかけとしてご存知かも知れない。

現代でもそうだが、石というのは大変な価値を持つ。「宝石」が高値で取引されているのがよい例であろう。

北宋時代、庭作りのために中国各地から多数の珍しい石や花、植物などが首都開封に集められた。特に太湖石と言われる石は貴重で、徽宗はこれを大変気に入り江南地域から多数取り寄せた。

上海の豫園と呼ばれる観光地に行った人なら太湖石を実際に見たことがあるかも知れない。

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たかだか石ぐらいと思うかも知れないが、この石の運搬方法がメチャクチャで、石を運ぶために邪魔な民家は取り壊す、輸送する際に橋が邪魔になれば壊す、形を損なわないために梱包は慎重に行われ、もし少しでも欠けたら厳罰が下されるという有様であった。

 楊志の例にも見られるように、運搬に失敗したら即転落であり、この負担のせいで徽宗皇帝末期には水滸伝にも登場する1120年には方臘の乱が勃発するようになる。

歴史に残る佞臣たち

末期的な会社になると、社長や会長たちのご機嫌取りばかりする人間ばかりが出世するようになる。あ、日本の会社なんてそんな奴ばっかか。

王朝も末期になってくると露骨に皇帝の機嫌ばかり取る人物が目立つようになる。

徽宗皇帝の時代は世界史でもほぼ最悪レベルでそれが起こった時期で、宰相の蔡京や宦官の童貫など、酷すぎてそのまま創作である水滸伝に登場してしまうような佞臣たちを重用するようになっていく。

最初はマシだったらしい

悪政で知られる徽宗時代であるが、当初はまだマシな政策をとっていたらしい。

徽宗が即位した時期はまだ19歳と幼く、当初は皇太后向氏が垂簾政治を行い、兄哲宗の時代から引き続き章惇などの急進的な新法派を遠ざけ守旧派・新法派からバランスよく人材を採用して両派閥を抑えていた。

やがて皇太后向氏を退けて自ら親政をするなど当初はやる気に満ち溢れていたのだが、急進新法派であった蔡京が権力を握ると状況が一転、徽宗は政治に意欲を無くし、全てを蔡京に任せるようになったという。

一説には蔡京はかなり芸術に造詣が深く、徽宗の芸術家としての才能を大変に評価しており、徽宗はそれが気に入って蔡京に政治を任せるようになったという。

風流天子

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これらの絵画は徽宗自身の作である。

歴代300人を越える皇帝のうち、徽宗の政治力はワースト1,2を争うが、芸術家としては間違いなくトップである。天才であると言ってもよいであろう。

徽宗は皇帝になる際、芸術家としての自分を封印して臨んだと言われる。あるいはその本質を評価してくれる人物はあまりいなかったのかもしれない。そこに趣味嗜好の似ている蔡京という人物が現れたらそれを重用するのも分かるような気がする。

ただ、問題はその風流のために庶民に重税を課したことである。

おりしも神宗、哲宗の時代において新法派によって在籍的に比較的余裕があったことも災いしたのだろう。

徽宗には豪華な庭園などを建設するだけの資金があった。

芸術には金がかかる。

ルネッサンスが花開いたのもそれを庇護するパトロンたち、すなわち芸術を愛する大貴族たちがいたからだ。

ゴッホのような人物もいるが、芸術には基本的に金がかかる。

元来、皇帝とは民を守る者である。ルソーやロックの社会契約論ではないが、民衆は自らの保護と引き換えに権力を容認しているという面があるだろう。

しかるに徽宗はその義務を放棄し、自らの芸術のために民に多大なる負担を与えた。

悪政に次ぐ悪政

徽宗の悪政は佞臣たちによる物以上に徽宗自身によるところが大きい。

水滸伝などでは徽宗は何も知らない善人として書かれているが、「御筆手詔」と言われる詔を何度もだしていて、これによって幾度となく臨時の増税をしていたと言われる。

佞臣として知られる蔡京だが、これには困り果てていたらしく、幾度となくそれを阻止しようとするも功を為さなかったようだ。「御筆手詔」は皇帝の強権であり、それを阻むことは誰も出来ない仕組みであったのだ。

それが今まで乱発されなかったのは、ひとえに北宋の歴代皇帝が比較的優秀だったからに他ならない。

口うるさい蔡京を徽宗は段々と疎ましく思うようになり、童貫を始めとした宦官を重用するようになっていく。

この辺りは趙弘を重用した秦の二代目胡亥と共通するところと言える。

方臘の乱と宋江の乱

民衆の怒りはついに頂点に達した。

華北では宋江という人物が、江南では方臘という人物が徽宗に対して反乱を起こした。

ご存知水滸伝はこの宋江の乱をモデルにして明代に成立した小説である。

水滸伝では宋江が梁山泊にこもり108人の豪傑を率いて方臘の乱を制圧するが、実際には両方とも宋の禁軍が制圧している。

実は宋江と言う人物は同時期に二人いたようで、一人は華北で反乱を、もう一人は方臘の乱制圧で活躍したようである。水滸伝はこの二人の宋江を一人の人物として描写したようだ。

なおこれらの反乱を鎮圧したのは宦官である童貫であった。童貫は軍事的な才能には比較的恵まれており、この時期は宋の実験を握っていたと言っても良い。

海上の盟

徽宗皇帝の時代は中国でも有数の激動期であった。普通ここまでで十分な気もするが、徽宗の人生はここからである。

中国の歴史はこれ異民族との戦いの歴史でもあるが、宋王朝においてはその建国以前から北方のモンゴル系民族契丹族の建てた遼に頭を悩ませていた。現在では中華人民共和国の首都となっている北京などはこの時遼の支配領域にあったほどだ。

そこにツングース系の女真族完顔阿骨打が金という国を建てる。金は遼を圧迫していたため、宋は金と結んで遼を挟撃しようという作戦を立てた。

徽宗は馬政という人物を派遣して金との間に「海上の盟」と呼ばれる同盟を結ぶことに成功する。

金と共に遼を打つ手はずを整えていた宋であったが、前述の通り方臘乱が起こる。くしくも対遼のために組織した禁軍を反乱の平定に差し向けることで反乱自体は鎮圧できるが、遼に向けるタイミングが遅れたため、遼は反撃の準備が整ってしまう。

童貫は遼の都燕京(現在の北京)に向けて進軍するも耶律大石率いる遼の軍団の抵抗に遭い敗北、結局燕京攻略を金の完顔阿骨打に依頼することになる。

燕京を陥落させた金は略奪の限りを尽くすと盟約通り宋に燕京を渡し、北宋に多額の協力金を要求することとなった。

靖康の変

中国史における最大の事件はなにだろう?と考えた時に、やはり靖康の変であろうと思う。

宋、というより徽宗は自軍の強さを正しく認識していなかったのだろう。海上の盟以後遼を滅ぼした金はますます力をつけていたが、中華思想というべきか、徽宗は女真族をそれほどの脅威とは思っていなかったのかも知れない。

今度は遼の残党と結んだ宋は無謀にも金に向けて討伐軍を差し向ける。それを事前に察知していた金の二代目皇帝太宗は機先を制して宋の首都開封に向けて進軍してきた。

これに対しビビった徽宗は1125年に皇帝を退位し、その位を息子の欽宗に譲ると自分だけ江南に逃げていく。

この間に宋は莫大な賠償金を払って金を一時期撤退させ、それを知った徽宗は再び開封に戻った。しかし宋はその賠償金を払いきれなかったために翌年にあたる靖康元年(1126年)に再び首都開封に侵攻し、あっさり首都は陥落した。

一説には金の太宗は初めから宋を滅ぼすつもりで、あえて払いきれない賠償金の支払いを要求したという。

宋の王族は悉く捕えられ、徽宗や欽宗を始め宮中にいた数千人は悉く金の領地の北の北、現在の黒竜江省にある五国城という場所に連れていかれた。

開封は女真族によって略奪しつくされ、皇族を含む女性たちは洗衣院と呼ばれる金軍御用達の娼館で働かされたという。

徽宗は靖康の変の8年後に静かに異国の地で崩御した。享年54年。

靖康の変の時にたまたま開封の外にいた徽宗の次男は江南に逃れて高宗として即位。北宋は滅び、南宋が生まれた。

栄枯盛衰、諸行は無常。

金も南宋もやがて台頭する草原の蒼き狼の末裔たちによって滅ぼされることになるのである。

個人的な徽宗の評価

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評価すべき点はその芸術の才能であろうか?

兄の哲宗が早死にしなければ徽宗は風流な皇族としてその生涯を芸術に捧げられたかも知れない。

歴史にifはもちろんないが、徽宗が皇帝でなければここまで早く北宋が滅ぶこともなかったであろう。

因果関係を考えれば、遼、金、宋が相争うことでモンゴル高原に対する頸木が解除されたことでモンゴル系民族の統一が進み、やがてチンギス・ハーンという世界に輝く侵略的英雄を生み出すようになる。

それはやがて西はポーランド、東は朝鮮までを含む広大な帝国を生み出し、「世界史」という概念を生み出すようになった。

徽宗の存在は、歴史というものを大きく変えてしまったと言えるだろう。

徽宗個人について見れば、政治を顧みることはなく、己の遊興の為に罪もない人々を数限りなく苦しめ、佞臣を重用し、そして国を滅ぼした。ここまで最低な君主は世界史上でも稀であり、世界の歴史においても有数の暗君であると言える。

特に国が危機的状況になるや自分だけ逃げだすという行為は皇帝の風上にも置けない行為であり、その責務を完全に放棄した身勝手な行為である。

このような為政者をもった民衆は不幸である。

民衆の怒りは反乱という形で出たが、それでも怨念として残り、「水滸伝」という形で後世まで人々に広く知られるようになった。

失政の原因は結局のところ過度な重税であったと言えるだろう。重税は金以上に宋を滅ぼした原因であると言える。

もし徽宗が政治を行わず、一人で絵をかいていただけならばここまでの事態にはなっていなかった。

「苛政は虎よりも猛なり」というのは孟子の言葉だが、重税をもととした悪政は虎以上に人を殺すそうである。

そういえば、1000兆もの借金を抱えているにもかかわらず毎年公務員のボーナスを上げ続け、財源が無くなると消費税の引き上げを行おうとしている国家があるらしい。

徽宗の例をみるまでもなく、そのような国家は衰退か滅びが待っているのは歴史の常である。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶというが、その国家を運営する者に賢者は存在していないらしい。