カウディウムの屈辱!ローマが敗北を味わったサムニウム戦争について解説するぜ!

ローマがイタリア半島を統一するまでには500年という長い期間を必要とした。

中でもローマを苦しめたのがイタリア中部に勢力を持つ山岳民族サムニウム人で、ローマがサムニウム人を制圧するのに40年ほどの歳月が必要だった。

今回はそんなローマとサムニウム人たちとの間に起こった「サムニウム戦争」について見て行こう。

 サムニウム人に大敗する共和政ローマ~カウディウムの屈辱~

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ローマは共和政や帝政を含めて恐ろしく戦争に強い民族である。西ローマ滅亡までの1000年間の間、ローマ側の敗北は指折りで数えられるぐらいで、決定的な敗北というとさらに少ない。

その数少ない敗北がサムニウム人との間に起きた戦いで、後にローマ側で「カウディウムの屈辱」と言われる事件に発展する。

ローマとサムニウム人は40年間に合計3度戦っている。

それぞれ第一次サムニウム戦争、第二次サムニウム戦争のように数字がついていて、最初の戦いは紀元前343年に始まる。

ケルト人にローマの半分をとられた所謂ケルトショックから50年ほどが経とうとしていたころの話だ。

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事の発端はイタリア中部におけるサムニウム人とカンパニア人勢力の小競り合いであった。

ローマは小競り合いを仲介すべくサムニウム人との交渉に乗り出したが一蹴されたため両民族は戦争状態となった。

平地での会戦はローマ側の圧勝。

カンパニア人にはローマ市民権を与え、カンパニア地方もその支配下に置くことができ、イタリア中部の重要都市カプアも手に入った。

このことがローマを図に乗らせサムニウム人に教訓を与えてしまった。

サムニウム人はそもそも山岳民族で平地での会戦には向いていない。そのことを学ばせてしまった。

二回目の戦闘は紀元前326年に始まったとされる。

サムニウム人とカンパニア人が再び小競り合いをし、カンパニア人がローマに助けを求めてきたためだ。

サムニウム人は平地での戦いは避け、山岳部でのゲリラ戦を展開した。ローマは平地で戦うべく待ち伏せを行ったがサムニウム人は山からは出てこない。

ローマ軍の強さはレギオンと呼ばれる重装歩兵による密集戦法にある。これは平地では無類の強さを誇るが、山間の土地では効果は発揮しない。

大部隊を展開したいローマとそれに応じようとしないサムニウム人の間で5年間ほどにらみ合いが続いた。

ある時ローマ側に1つの情報がもたらされた。サムニウム人がプーリア平原に集結しているという情報である。

ローマはすぐさま向かったが、これは罠であった。カウディウムという谷間の地形を行軍中にサムニウム人は強襲をかける。

結果ローマ軍は壊滅、その後行われたラウトゥラエの戦いでも敗北し、もはやサムニウム側へ降伏する以外に手段は残されていなかった。

ローマ側はサムニウム人の要求に従い600人の兵士を人質にされ、中部イタリアからの撤退を余儀なくされる。

後にカウディウムの屈辱と言われた一件である。

最後には勝つローマ

被害は最小限に、速やかに立ち直るのがローマの強さである。

屈辱から6年後、ローマは力を取り戻していた。

ローマはまずサムニウム側に寝返っていたカプアを占領し、指導者達に死罪を命じた。

そして「ローマの道は全てに通ず」ともいわれるローマ式街道の中でも特に有名な「アッピア街道」の敷設を開始。これによってローマは中部イタリアにまで迅速に軍を派遣できるようになる。

一気にサムニウム攻略を成し遂げたいローマだったが、北部で今度はガリア人が暴れ始める。しかも今度はエルトリア人との共同戦線である。

この時期ローマは南はサムニウム人、北はガリア人とエルトリア人、更にはウンブロ族もローマに牙をむきまさに四面楚歌な状態であった。

この時期にコンスルに任命されたのはローマでも指折りの名門ファビウス家のクゥイントゥス・ファビウス。

彼は執政官に任命されるとまずエルトリアの分裂を図った。

その結果紀元前297年、エトルリアはローマに和平を求め、ローマはサムニウムとの闘いを優先させることにした。

アッピア街道を整備しておいたおかげか、ローマ軍の行軍スピードは速い。

サムニウム側はティフェルヌム近くの渓谷でローマを待ち伏せし強襲する作戦を立てる。偽の部隊でおびき寄せる作戦に出たがローマ側はこれを見破り今回は罠にかかることもなかった。

この時の兵力はサムニウム人の方が有利。そのことが気を大きくしてしまったのかサムニウム人はローマと平野での会戦をしかけてしまう(ティフェルヌムの戦い)。

結果はローマの勝利。

続くセンティヌムの戦いでは、サムニウム人もガリア、エルトリア、ウンブロの3民族と共にローマと戦ったが、圧倒的な損害を出したのはサムニウムの側だった。

ローマは勝った。

 

戦闘の結果エルトリア人ウンブロ人もローマの同盟国となり、サムニウム人もローマとの講和を求めて同盟国となった。

ローマをローマたらしめるのは制圧した民族や国への寛大な政策とその同一性であると言われる。

ローマはあれほど激しく戦ったサムニウム人に対し何のペナルティもなく同盟国の一部として迎え入れている。ロムルスの時代にサビニ人を受け入れて以降のローマと何も変わらず、他民族を同化させ、次第に大きくなっていくのがローマであった。

サムニウムも組み込んだローマにとって、イタリア半島に残る敵はただ1つ、イタリア南部に建てられたギリシャ人都市国家だけとなった。

そしてそこでローマは再び敗北を味わうことになるのである。

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