中国の戦国時代には「諸子百家」と呼ばれるほど様々な考え方が次から次へと湧き出てきていた。
今回はそんな「諸子百家」の1つ縦横家と呼ばれる思想家の代表「蘇秦」について見て行こう!
就職がうまく行かず家族にも笑われてしまう
中国の戦国時代というのは様々な国が相争う時代で、人々は自分を売り込むことに必死だった。
鬼谷という人のもとで張儀と共に縦横の術を学んだ蘇秦は当時最強の国だった秦に行って自分を売り込んでいた。
10回ほど自分を売り込んだが全く相手にされなかったらしい。
ちなみに蘇秦自体は周の国の洛陽の生まれであったらしく、鬼谷は斉の人であったらしいので、かなり長い距離を移動していたことになる。
やがて金も無くなり故郷に帰った彼に家族は冷たかった。
折角帰ってきたのに妻は機織りを辞めもせず、兄夫婦がゴハンをくれないし両親は国を利こうともしてくれない。
蘇秦はこれを自分が至らないせいだと思い猛勉強を始める。
その様たるやすさまじくて、眠くなると自分の手に錐を刺していたというのだからかなりのものだ。
そういえば昔代々木ゼミナールで教えていて今は東進ハイスクールの講師になった吉野啓介氏にも同じエピソードがある。実は俺もそれをまねしたことがある・・・
蘇秦は古来より伝わる太公望の六韜を読みふけり揣摩の術という相手の心を動かす術を身に着けたらしい。
思想自体は良くても相手に伝わらないと意味がないと思ったのだろう。
1年間ぐらい必死で勉強した結果揣摩の術を身に着けた蘇秦は趙王のもとへ再び就職活動に出かけた。
趙王は喜んで蘇秦を迎え入れ一気に宰相にまで抜擢する。
無職から宰相って出世しすぎだろ!!
しかもそのまま蘇秦は各国を渡り歩き、韓・魏・楚・斉・燕の6か国を同盟させ全ての国の宰相になったという。
そんな馬鹿な!
カルロス・ゴーンじゃあるまいし!
蘇秦が出世して故郷に帰ると家の前の道路はきれいになっていて、楽隊まで出る始末。父母はごちそうを用意し兄夫婦は手もみをしながらにじり寄ってくるし妻は頬を赤らめながら寄ってくる。
その様子を見た蘇秦は「貧窮なれば、父母も子とせず」という言葉を残したという。
戦国策と史記で食い違う記述
蘇秦に関しては戦国策と史記で記述が矛盾している。
戦国策によれば蘇秦は趙王に迎えられ宰相となり、秦以外の国と同盟を組んだことで秦の動きを封じたことになっている。
史記によれば燕の文公に仕え、秦以外の各国と同盟を促し秦に対抗したことになっている。
この際、韓の王を口説くときに有名な「鶏口となるも牛後となるなかれ」という故事を残している。
どういう訳かそれらの同盟は解かれ、蘇秦は斉に仕えることになる訳だが、王の側近に殺害されてその生涯を終える。斉に仕えたのは燕を勝たせるためのスパイであり見破られてしまっての結果であるらしい。
これが紀元前317年のことだったようだが、紀元前286年にも生きていたという記述もあるようだ。
このように蘇秦に関しては記述が矛盾する場面が多く、どうやら複数の人物の功績が混ざってしまっているような気配がある。
『戦国縦横家書』という書物に拠れば蘇秦は張儀よりも後の人物で、燕の昭王に仕えて韓・魏・斉・趙とともに秦を攻めたが敗北し、その後は韓・魏・楚・趙とともに斉を攻めて大いに打ち負かしたという。
これが本当だとすると蘇秦は楽毅と同じ時代の同じ国の同僚ということになる。
楽毅の記録によれば 韓・魏・秦・趙・燕が連合して斉の国に攻め入ったことになっているが、こうなると一体どれが真実なのかわからないな。
どうやら始皇帝による焚書坑儒により貴重な資料は散逸してしまって、春秋戦国時代のことは正確にはわかっていないようだ。それゆえに色々と矛盾するところが出てくる結果になってしまった。
でも卑弥呼様の生まれる500年以上前のことなんだしそういった事情があるから仕方がないような気もする。なにせ邪馬台国がどこにあったか未だにわかってない訳だしな。
やっぱりちゃんとこの頃の記録が残っているローマはやっぱすげぇなぁ。
結局のところ蘇秦がどんな活躍をしたのかよくわからないというお粗末な記事になってしまった(><)