世の中には、どうしても器用に要領よく生きられない人間がいる。
若くして科挙に首席合格し、滅びゆく王朝とその運命を共にした文天祥はその世界代表であると言えるだろう。
不世出の天才
中国の歴史において、唐代以降は科挙試験の合格が何よりも人々の成功であった。
バブル期の国家一種試験よろしく、その合格はイコール成功であり、生涯にわたりその人物はもちろん一族までその恩恵にあずかれるまさに一発逆転の試験であった。
混乱期にさえも断続的にではあったけれども続き、結局20世紀まで続いた試験はだが、非常に難しい試験としても知られていた。
平均合格年齢は40歳であったと言われ、3度の試験を経てようやく国家官僚になれるその試験において、文天祥はわずか21歳でしかもトップ合格をしてしまったのである。
1236年に現在の江西省で生まれた文天祥は字を履善といい、比較的裕福な家に生まれた。彼は幼き頃より勉学に励み、科挙の一次試験である解試(地方試験)に19歳の時に合格、翌年に省試(中央試験)に合格するとさらに翌年には殿試(皇帝直属の試験)にトップ合格する。
ここまで若い合格者は稀で、22歳で首席合格した唐の張説と並んで中国史上最高の天才の一人と言って良いだろう。
文天祥に関して言えば、頭脳的な面はもちろん人格的にも高潔な性格で、官僚になって初めにしたことが佞臣であった宦官の董宋臣を弾劾する上奏分を提出したことであったが、これは完全に無視された。
そこで文天祥は抗議のために官職を辞し故郷に帰ってしまう。
その二年後、朝廷からの要請を受けて再び官界に復帰するも再び董宋臣を弾劾しこれまた無視されると今度も辞職をしようとした。
賈似道
文天祥が董宋臣を弾劾している頃、南宋はモンゴル軍との戦いに明け暮れていた。
北宋が滅んで既に100年、北宋を圧迫した遼も北宋を滅ぼした金も既に滅んでいた。金の代わりに華北を支配したのがチンギスハーンの四男トゥルイの長男モンケであった。
モンケは大軍をして南宋に攻め入ったが、南宋軍はモンゴルの騎馬隊が苦手とする水上戦に持ち込み、なんとか持ちこたえていた。
一方モンケの弟フビライも同じく南宋を攻めており、これを迎撃していたのが賈似道という人物であった。
フビライは賈似道の守る現在の武昌市を包囲しており、もう少しで攻め落とせるというところでモンケが死亡、その後継者問題のため一時撤退をした。
賈似道は完全なラッキーで助かった訳だが、賈似道の演出でモンゴル軍を撃退したのは自分の活躍によるのだと吹聴、その功で南宋の宰相となっていた。
この賈似道が文天祥を官界に留めたのだ。
賈似道は文天祥を瑞州(現在の江西省)の長官に任命し、文天祥は現在の江西省のあたりで4年ほど勤務をすることになった。この時期に欧陽脩の一族の娘と結婚し、別荘も作り、子宝にも恵まれ、まさに人がうらやむような生活を送る。
襄陽の戦い
世界の歴史を変えてしまう戦いというものがある。
フビライハン率いる元の軍隊と南宋が戦った襄陽の戦いはまさにそのような戦いの一つであろう。
日本でも元寇が大きな騒ぎになり、その政治制度さえも変えてしまうほどのインパクトがあったが、日本に来た軍隊は本隊では決してなかった。あえて言うなら4軍ぐらいのもので、モンゴル民族はほとんど参加しておらず、その内容は高麗軍がほとんどであった。
しかしこちらは本軍である。
モンゴル軍の圧倒的な強さはユーラシア大陸を飲み込んでしまったほどで、ヨーロッパ最強と名高いポーランド騎兵をもってしてもまるで歯が立たないレベルで、まさしく世界最強の軍隊であった。
そのモンゴル軍が迫っているにも関わらず、南宋は権力争いに明け暮れ、包囲されている襄陽に十分な援軍を送らないという有様であった。
亡国の危機に文天祥は賈似道を批判、激怒した賈似道は文天祥を罷免する。
とはいえ優秀な文天祥は再び士官を乞われ、再び地方の長官を歴任、そうこうしている間に元の宰相バヤン率いるモンゴル軍によって建康(現在の南京)などの主要都市が次々と攻略されていく。この事態に南宋の皇帝度宗が死去、わずか四歳の恭宗がその後継者となる。政治の実験は皇后の謝太后が摂政となり担当、そうこうしているうちに賈似道が元に敗北、その責任を取らされ失脚する。
亡国の忠臣
もはやこれまでと思った文武百官は次々と逃げ出して行き、残った数少ない高官は各地に檄を飛ばし義勇軍を募る。
文天祥も私財を投げうって義勇軍を組織し、2万もの軍勢を率いて首都の杭州に向かう。
文天祥は自ら組織した軍を率いて元軍との戦いに臨む。元々が文官の文天祥ではモンゴル軍には抗しきれない面もあったが、それでも善戦、しかし太后から呼び出しを受け、元軍の司令官バヤンとの直接交渉の席につくよう命令を受ける。
交渉の席において文天祥は毅然とした態度を崩さず、バヤンに軍を引くように求めた。国家に仇なす存在。そう思ったバヤンは文天祥を留めたまま杭州に降伏の使者を送り、謝太后はこれを受け入れた。
これによって南宋は150年の歴史に幕を閉じる。
なお、この時期に張世傑を始めとした主戦派は杭州を脱出、南宋の王族二王を奉じて現在の福建省に軍団を組織する。
文天祥はその後に南宋の降伏を知り、元の首都大都(現在の北京)に移送されることになる。しかし元に臣従するつもりのない文天祥は決死の脱出作戦を結構、命からがら逃げだすことに成功、張世傑に向けて福建省に向けて進んでいった。
やがて張世傑や陸秀夫と合流するもうまく連携がとれず、文天祥は独力で抵抗軍を組織し、元軍を相手に散発的なゲリラ戦を展開していく。
共和政ローマの時代、イタリアの剣と呼ばれたマルケルスは圧倒的な強さを誇るハンニバル相手に同様の戦法をとった。
また、ベトナム戦争においてベトナム軍は無敵を誇るアメリカ軍に対し同様の戦法に出た。
しかし、どちらもバックには整えられた兵站が存在しており、補給が可能であった。
文天祥のゲリラ作戦は理にかなっていた、というよりもそれしかできないというものであったことだろう。しかしそれを維持するのが不可能でもあった。文天祥ほどの人物がその結果を予想できない訳はなかったであろう。
やがて文天祥は元軍に捕縛される。隠し持っていた毒を服毒しようとするもそれは阻止される。
1279年、抵抗軍最後の指導者陸秀夫は最後の皇帝恭宗の弟衛王を背負って入水、ここに南宋の命運は本当に尽きた。
文天祥は失意のうちに元軍の司令官張弘範に捕えられ、元の首都大都に送られた。
正気の歌
幕末の志士吉田松陰は「正気の歌」という歌を残している。これは吉田松陰が尊敬する文天祥に対して敬意をこめて作った歌である。
大都についた文天祥は再び自殺を図るも阻止され、不服従を貫き獄中生活に入る。
この間、南宋からの降将が幾人も説得に来るが耳を貸さず、宰相バヤンが直々に説得に来るもこれを拒否。
この間文天祥は自らの生涯の記録である「指南録」「指南後録」などを執筆した。
吉田松陰の愛した「正気の歌」はここに収められた歌である。
「正気の歌」は諸葛孔明が書いた「出師の表」楽毅の書いた「報遺燕恵王書」と共に中国を代表する名文として知られ、見る者の涙を誘わずにはいられない内容となっている。
文天祥の最期
大元ウルスの皇帝フビライ・ハーンは、どうしても文天祥に仕えて欲しいと自ら直談判に出た。
しかし文天祥はそれでも首を縦に振らない。
1282年、フビライは文天祥に処刑の命令を出すしかなかった。
享年46歳。
バヤンにしてもフビライにしても、人間的には早々に降伏した文武官達よりも文天祥にシンパシーを感じていたことだろう。
しかし文天祥は南宋への忠義を捨てなかった。
文天祥が命をかけてまで守りたかったものとは何だったのだろうか?
「忠義」に順じ、常に間違ったことを許さず、不器用に死んでいった文天祥を、一体誰が笑えるというのだろうか?
フビライは文天祥の最期について「真の男子である」という言葉を遺しており、その死後は文天祥の為に祠を作らせたという。
個人的な文天祥の評価
それにしても、南宋の最期と明の最期は対照的である。
南宋の最期は忠臣たちによって彩られ、皆南宋に殉じたが、明の最期は悲惨だった。明王朝に忠誠を誓う者は皆無で、歴史的な裏切り者呉三桂によってその歴史に幕が降ろされる。
皇帝と共に最期を過ごす者はなく、明朝最後の皇帝は一人寂しく死んでいった。
忠義は欠片も見られず、明王朝の最期は惨めだったと言える。
義を忘れればもはやそれは人ではない。
文天祥は最後まで人として生きた。それは確かなことである。
世界史に数千いる人物のうち、個人的には文天祥が一番好きな人物かも知れない。
夏目漱石は草枕を「智に働けば角が立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という書き出しから始めた。
まるで文天祥の生涯のようであり、文天祥は意地を通して死んだ。まさに漱石の目指した「則天去私」を体現したような人物であり、事実同時代の広瀬武夫も文天祥を敬愛し、自作の「正気の歌」を作っているほどである。
信義に命をかけたその生きざまは、男の子ならなにか突き動かされるものがあるだろう。
それは儒教的精神なんてものではなく、人の生きざまそのものである。
文天祥はあるいは、最も人間として生涯を全うした人間であるかも知れない。