荀彧は三国志に出てくるキャラクターの中でも特に人気が高い人物で、特に三国志に注をつけた裴松之からは絶賛されている。
ちなみに裴松之とか注とか何のことかと思う人もいるかも知れないので少し触れると、三国志というのは晋の時代を生きた陳寿という人が書いたものだが、そこに注を付けた人がいて、それが東晋末期を生きた裴松之という人物である。
この辺りはまた別の記事で触れるとして、今回は王佐の才と言われた荀彧について見て行こう。
名門荀一族
荀一族で一番有名なのはあるいは荀彧なのかも知れないが、荀彧の一族は漢帝国においては名門中の名門で、曹操よりも遥かに家柄が良いと言える。
なにせ一族の始祖は世界史の教科書にも出てくる「性悪説」で有名な荀子だ。
漢帝国には3役と呼ばれる重要な役職があって、それぞれ丞相、司空、大尉となっているのだが、荀彧の一族は3役を輩出しており、袁紹の一族である袁家と並んで名門の出身なのだ。
ただ、このことが荀彧の人生を大きく左右していくことになるのだが…
中でも祖父の荀淑は評判の高い名士で、その門下には3役を務めた人物もいるわけだから漢王朝内の荀氏の影響力は計り知れない。
荀淑の8人の子供たちも全員評判がよく、8龍なんて呼ばれていた訳だから将来安泰なはずだったんだろうが、時は乱世、そもそもの後漢自体が滅びそうになっていた。
王佐の才を持ち曹操に「わが張子房」と言われる
漢では人相見が大変盛んだった。後漢という国家は官僚社会だった訳だが、その官僚を登用するには推薦制度をとっていた。その際大きく影響するのが人相見の連中だ。
曹操に対して乱世の奸雄と評した許子将などは有名だが、何顒という人物も有名だった。彼は三役を決める時にはいつも名前が挙がっていたほどの人物で、その彼をして荀彧は「王佐の才がある」と言わしめていた。
王佐というのは王の補佐をするという意味で、この時の王は多分漢王朝の皇帝を指していたのだろうが、結果から見れば曹操が王になるのを補佐したようにも見える。
董卓が権力を握ると荀彧はさっさと故郷に帰ってしまう。ただ、荀彧は故郷が火の海になるのを見越していたようで、避難する意味も含めて一時期群雄の1人である韓馥のもとへ身を寄せている。
結果として荀彧の見立ては正しく董卓の配下である李傕によって故郷はメチャクチャにされてしまう。
また、韓馥も袁紹に吸収され、荀彧の一族も多くは袁紹についたが、荀彧は袁紹の器を見抜いており袁紹の士官の話を断っている。袁紹側はかなりの好待遇で接したようだが、荀彧は首を縦には振らなかった。
荀彧が曹操の配下になった経緯はあまり詳しくは書かれていないが、どうやら自らの意思で曹操のもとを訪ねたらしい。
曹操は荀彧に会うと「わが張子房!」と言って大喜びをしたという。
張子房というのは前漢の三傑の1人でもある張良子房のことで、中国歴代軍師の中でもトップの実績と知力を誇る人物である。
人材コレクターの異名を持つ曹操だから、荀彧が自分の配下になると聞いた時は嬉しかっただろうなぁ。
曹操軍の軍師として
荀彧が曹操の配下になった時、都ではまだ董卓が暴れまくっている頃で、曹操はどのようにすればよいのかを荀彧に尋ねた。荀彧は董卓の暴虐はやがて自らを滅ぼすと言ったところ、本当にその通りになった。
曹操が徐州へ陶謙討伐に行ったときには荀彧は夏侯惇と一緒に留守を守っており、三国志最強の武将である呂布の攻撃からよく守っただけでなくいくつかの城を確保するなどの功績を挙げている。この際荀彧は自らの功績を誇る訳でもなく程昱をひたすら褒めたというからこの人物というものが見えてくるようだ。
大体大人物ほど自分の功績を誇らないものだ。
その後も荀彧は的確な助言を曹操に与え、軍を勝利へと導いた。
曹操も荀彧の言うことをよく聞き、呂布を撃破し、献帝を迎え入れ、確実に力をつけていき、ついには三国志の関ケ原とも言える官渡の戦いへと駒を進めることになる。
なお荀彧は政策の助言だけではなく、様々な人材をも早々に紹介した。
荀攸や鍾繇、戯志才と言った人物を次々に紹介し、戯志才が死ぬと郭嘉を紹介することになる。
人材コレクター曹操もこれにはニッコリだっただろう。
荀彧の人を見る目は確かで、彼の紹介した人間はほとんどが出世し、かつ公明正大な性格であったようで身内でも出来が良くなければ官職に推薦したりはしなかったという。こういう部分が裴松之から気に入られた部分なんだろうな。
ついでに言うと荀彧はおしゃれな上にイケメンだったらしい。毒舌で知られる禰衡ですら彼を「その顔を拝借して弔問に行かせるのが良い」と容姿がいいだけだとけなしているんだか褒めているんだかなことを言っている。
家柄良し、性格良し、イケメン、仕事できると婚活市場に出たら一瞬でいなくなるんだろうな!な人材である。
ちなみに荀彧は宦官の娘と結婚させられて周りから非難されたという過去もある。
覇業の補佐
荀彧は一貫して曹操を評価している。兵力や経済力で見れば当時は袁紹の方が圧倒的に有利であった。袁紹軍の邦画10倍有利だったという話もあるぐらいだ。
あらゆる面が不利で、曹操側が有利だったのはせいぜい人材ぐらいだっただろう。
だが最終的に人材が明暗を分けた。
袁紹側も人材は豊富だったのだが、君主である袁紹が優秀な人物の言うことは聞かず、讒言などを信じてしまったがために負けてしまうのだった。もし袁紹が田豊や沮授などの意見を聞いていれば負けていたのは曹操だったことだろう。
そういった面まで荀彧は見抜いていたのだろうからさすがと言える。家柄や勢力だけで考えたら袁紹につくだろうに。
現在で言ったら名のある大企業よりも優秀な人材のいるベンチャーに入るっていった感じだろうか。
曹操は袁紹との闘いに躊躇していた。特に怖かったのが涼州閥だったが、荀彧は彼らの連帯の悪さを見抜いていて、鍾繇を関中方面に派遣することを提案する。曹操はその通りにし、鍾繇はそれらの勢力をくぎ付けにすることに成功しているから荀彧の人を見る目は確かだと言えるだろう。
荀彧自体は官渡の戦いには参加していない。その代わり留守を守っていた。彼は袁紹軍が瓦解するのを知っていたような口ぶりでその崩壊を予言していたという。実際に荀彧の言ったことは当たっており、袁紹軍は無意味につぶしあいをして結局は曹操軍が勝つことになる。
袁紹と戦う前はあの曹操ですら弱気になっていたというが、荀彧は絶対に曹操が勝つと思い曹操を励ましたという。
曹操は荀彧のことを大層気に入っており、自分の娘を荀彧の息子の嫁にしている。
亀裂
曹操と荀彧の仲に亀裂が走ったのは赤壁の戦い(あったかどうかは実はわかっておらず魏書には孫権討伐と記載してある)のあたりであった。
董昭と言う人物が曹操は「王公になるべきだ」と言ったところ荀彧はそれに猛反対した。
「曹操が兵を起こしたのは朝廷を助け国を安定させ、忠義を尽くすためであって爵位を求めるためにしたことではない」
このことを聞いた曹操は次第に荀彧を遠ざけるようになったという。
曹操と荀彧は協力して戦乱を潜り抜けてきたが、その目的は違った。
曹操は天下の覇権を握ることを目的として大義名分として漢王室を利用していたに過ぎなかった。
一方荀彧は心の底から漢王室に忠誠を誓っていて、今までの戦いは全て漢王室を助け国を安定させるためであったのだ。
荀彧の死の謎
三国志最大の謎とされるのが荀彧の死である。
魏書においては「荀彧は病気になって憂悶のうちに逝去した」という記述があるだけであるが、魏氏春秋という本には曹操が荀彧に食物を送り、中を見てみると空っぽの器だったので荀彧は毒薬を飲んで自殺したと書いてある。
この点は古くから色々な論議を呼んでいる点で、荀彧は空の箱=用済みという意図を察して自殺したのだというのが通説である。
事の真相はわからないが、実際に後年曹操が亡くなると荀攸や鍾繇が曹操の廟に祭られたのに対し、荀彧は祀られておらず、その功績を考えれば曹操の意思を尊重したものとするのが妥当であろう。やはり曹操が死を賜ったと考えるのが良さそうである。
魏建国の礎を築き、荀攸や鍾繇、陳羣に司馬懿までもが荀彧の紹介であったことを考えると実に寂しい最後だよなぁ。
荀彧の評価は一様に高くあの司馬懿でさえ「100年にわたって荀彧に匹敵する才の者はいない」と言い、鍾繇をして孔子の弟子で最もできの良かった顔回に匹敵すると言わしめるほどで、裴松之からも絶賛されているほどである。
三国志全体でもここまで評価の高い人物は他におらず、当時の名士社会を代表する存在だと言えるだろう。
ちなみに荀彧の子孫たちは三国が統一された後の晋の時代に活躍した者が多く、大尉などの官職に就いたものも多かった。
魏書における荀彧の伝や荀攸や賈詡などと同じ列に並べられているのであるが、裴松之はこのことに激怒していて同列に並べるなんてありえない!ぐらいの勢いで、荀彧を張良に匹敵する人物だとしている。