三国志人気投票があったらきっと上位には来ないであろう三国志屈指の名軍師「賈詡(かく)」
彼の不人気の理由はいくつかあるが、1番はやはり主君を5回も変えたことだろう。
俺の知っている限り賈詡ほど主君を変えた人間もいないし、その主君達がそろいもそろって不人気だったり暴君だったり悪役だったりするのだから仕方がないのかもしれない。
今回はそんな賈詡について見て行こう!
若いころから頭がよく回る
賈詡というと「賢い」イメージがあると思う。その賢さで言ったら三国志全体でも指折りの存在で、若いころにはこんなエピソードがある。
彼は推挙されて役人になったわけであるが、病気のため故郷へ帰ることになった。その際に北方異民族である氐族の集団に遭遇し捕えられてしまう。
絶体絶命のピンチであったが賈詡は顔色一つも変えずにこう言い放った。
「私は段熲の外孫だから殺すのは構わないが皆とは別に特別な埋葬をした方がそなたらのためだぞ。さすれば家の者がそなたらに特別の礼をするだろう」
段熲というのは当時の国務長官的な地位になる太尉という役職についていた者で、異民族討伐に功績のある人物で、当時北方民族達の中ではとても恐れられていた人物だったので、氐族は賈詡のことだけは解放したという。他のおつきの人たちは皆殺しにされているので賈詡の機転が利かなかったら同じようにころされていたのだろう。彼の人生は万事このように紙一重なのであった。
もちろん、賈詡が段熲の外孫というのは真っ赤なウソである。
董卓・李傕・段煨
賈詡がどのように董卓の部下になったかは分かっていない。董卓の娘婿である牛輔という人物の配下として討虜校尉になったという記述があるぐらいである。
まぁ多分、董卓軍において悪いことは沢山やっただろうことは想像に難くない。董卓と言えば人間の考えつく残虐な行為は全てやりつくしたような人物だからなぁ。
董卓が呂布に殺害されると賈詡は呂布にはつかずに李傕の側についた。賈詡が歴史の表舞台に立つのはこの辺りからである。
李傕は董卓が倒れたのを見てビビって故郷涼州に帰ろうとしたのだが、賈詡は「今帰ったら殺されますよ。それより天子様を擁して長安に攻め入る方が良いでしょう」と言って李傕に長安を攻めさせた。
正史三国志に注をつけた裴松之という歴史家はこの点を大いに批判している。
「背悪の中心(董卓)はすでにごく問題にさらされ、世界がようやく明るくなろうとしていたのに、災いの糸口を重ねて結び害毒をさかんにまき散らして、国家を衰微の憂き目にあわせ、人民に周末期と同じ過酷さを味わわせることになったのは、賈詡の片言のせいではなかろうか。賈詡の犯罪のなんと大きいことよ。昔から動乱の端緒となったものでこれほどひどいのは、いまだかつてあったためしがない」
裴松之はかなり賈詡を嫌っていたようではあるが、賈詡自体は官職や出世には興味がなかったようで、李傕から官職を与えられるもかたくなに固辞したという。また李傕が郭汜らともめている時は賈詡がその仲裁に入ったようだ。
ただし李傕は段々と賈詡のことを煙たがるようになる。
原因はいろいろあるようだが、裴松之によれば李傕が北方民族である羌族に対し天子のご用品や女官などを与えるから郭汜を攻撃するように言ったことがあり、羌族はたびたび宮廷の門まで来ては李傕に約束を守るように言っていた。これに頭を悩ませていたのが献帝で、賈詡にどうにかできないかと相談したところ、賈詡は羌族を招いて酒宴を行い約束は果たすと言って羌族達を納得させたが、李傕はこれが原因で衰退したのだという。
賈詡はやがて李傕のもとを去り同郷の段煨のもとへ身を寄せる。段煨という人物もまた小人物であったようで、賈詡の名声を恐れて常に権力を奪われることを警戒していたという。
張繍の配下として曹操と戦う
賈詡の危機察知能力は優れたもので、早々に立ち去り張繍のもとへ下っている。
ある人が段煨はあなたに良くしているのにどうして張繍のもとへ行くのかと尋ねたところ「段煨は猜疑心が強く自分を警戒しており、将来自分の命を狙うことだろう。自分が立ち去れば喜ぶに違いない」と答えたという。
こうして張繍の配下となったわけだが、やがて乱世の奸雄と呼ばれた曹操軍との戦いになる。
張繍は賈詡の勧めで荊州に勢力を持つ劉表と同盟を結んだが、賈詡の言うことを聞かずに大敗したが、次に賈詡の進言通りにしたところ今度は大勝した。
どうしてそのように戦況が読めたのかを張繍が聞いたところ賈詡はこともなげに「それはあなたが曹操にははるかに及ばないからだ」と答えたという。張繍はそれを聞いて感心したというからそれ以前の主君よりははるかにマシだったのかも知れない。
張繍は曹操との激しい戦闘の末降伏した。賈詡の策略により曹操側は嫡男である曹昂と懐刀と言っても良い典韋を失った。さしの曹操もこのことには結構参ったらしく陣中であっても2人の祭祀を行ったという。
官渡の闘い
三国志には天下分け目の戦いが2つある。1つは有名な赤壁の戦いで、近年でもレッドクリフのように映画になったりもしている。もう1つは曹操と袁紹が戦った官渡の闘いである。
当時は袁紹の方が圧倒的に有利だった。兵力は10倍ほどであったという試算もあり、誰もが袁紹の勝利を疑わなかった中、張繍の許に袁紹の使いが来た。自陣につくべしと。張繍は袁紹につこうとしたが賈詡はその使者を「兄弟すら受け入れることのできない者がどうして天下を受け入れられましょうぞ」と言って追い返してしまった。
賈詡は曹操が戦に勝つ理由を述べると張繍は納得して曹操のもとへはせ参じた。曹操は喜びのあまり賈詡の手を握り「わしに天下の人々の信頼と尊重を与えてくれるのは君だ!」と言って感激したという。
人材コレクターの呼び名の高い曹操のことだから、また1人コレクションが増えたと思って喜んだに違いない。
曹操が賈詡の策を採用して一気に攻めると袁紹に大勝し華北に安定が訪れたという。
また、曹操が江南の地を攻めようとしたのを賈詡は止めている。曹操は賈詡の言うことを聞かずに攻め、孫権・劉備の連合軍に赤壁の戦いで敗北した訳だから、賈詡の勝敗予測的中率は恐ろしいほど高い訳である。
馬超との闘い
賈詡を一躍有名にしたのは馬超との闘いであろう。馬超は父の盟友でもあり敵でもあった韓遂とともに長安に攻め込んできたわけだが、賈詡は両者の仲の悪さを見抜いていた。賈詡は両者の仲を巧みに裂き、ついには仲たがいするようにした。有名な「離間の計」である。瓦解したところを一気に攻め上り、神威将軍と言われた馬超は敗北し、張魯のもとへと逃げ延びるのである。
魏書においては「曹操が馬超・韓遂に勝てたのは全て賈詡の計略を採用したからだ」とさえ書かれている。
曹操の後継者争い
中国はもちろん日本やローマでさえも大きな問題になるのが後継者問題である。曹操の跡継ぎを曹丕にするか曹植にするかで家臣団は二分されていた。
曹操自体は詩の才能に秀でた曹植を気に入っていたようだったので、曹丕は賈詡にその対策を求めることにした。
「有徳の態度を尊重され無官の人物のごとき行いを実践なされ。子としての正しい道を踏み外されませんように」
曹丕は賈詡のいうことを聞いてそのように務めたという。
曹操はある時後継者問題で賈詡に相談を持ち掛けた。賈詡は黙ってそれに応えようとしない。曹操は不機嫌になってどうして何も言わないのかを問うたが「今ちょうど考え事をしておりまして」と言って言葉を濁す。曹操が「一体何を考えていたのか」を問うたところ「袁紹や劉表のことを考えておりまして」とだけ答えた。
*両方とも後継者問題で大いに国を衰退させた。
曹操はそれを聞くと大笑いし曹丕を後継者にすることを決定した。
曹丕の即位
賈詡のおかげで自分が後継者になることができたので、曹丕は賈詡を厚遇し、三役の1つである太尉に任じた。
かつて太尉の親戚を名乗っていた賈詡が自ら太尉になるというのもなんだかおかしな話である。
賈詡は曹操の元からの家臣ではない上に策略の長じていることから疑惑を持たれることを恐れ門を閉ざしてひっそりと暮らしていたという。私的な交際はせずに息子や娘たちの結婚にも貴族の家柄を相手に選ぶことはなかったという。
賈詡は77歳でのその人生の幕を閉じることになる。三国志の中ではかなりの長寿であろう。
個人的な賈詡の評価
軍師と聞くと真っ先に賈詡の名前が浮かぶ。
賈詡が勝つと言ったら勝ち、負けると言ったら必ず負けた。正史では孔明以上のエスパーぶりを発揮していて、演義と正史でほとんど差がない人物である。
魏の国が安定したのは賈詡によって後継者争いに終止符を早々に討たれたからだという見方もでき、賈詡がいなければあるいは魏志における倭人伝はなく卑弥呼という女王の存在は知られていなかったかも知れない。
賈詡はその時その時に応じた最善手を知っておりそれをすみやかに実行する手腕も持っていた。それゆえに裴松之の言うように国に混乱をもたらしたのも確かではあったかもしれない。
賈詡の子孫は魏や晋において要職に就き、晋王朝においては一族が皆高官についたという記述もある。
魏にとっては申し分のない功臣であり、三国志随一の軍師であったというべきであろう。
個人的には孔明よりも賈詡の方が賢いと思っている。