中国史上最も多くの君主に仕え、最も数奇な運命をたどった馮道(ふうどう)という人物について

有名な三国志においても、その生涯において複数の君主に仕えた人物は珍しくない。

名称と名高い張遼は4人、名軍師と名高い賈詡は5人に仕えた。

戦乱に世にあってはこのようなこともよくあるのだが、中国の歴史、いや、世界の歴史においても馮道(ふうどう)ほど多くの人物に仕えた人物はいないであろう。

馮道は五代十国時代に活躍した人物で、5つの王朝をまたいだ11人の君主に仕えた。

その人生がまさに五代十国時代の歴史と言っても良い馮道という人物についてくわしく見て行こう。

 5つの王朝に仕える

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統一王朝であった唐が滅ぶと、各地に群雄が割拠し、五代十国時代と言われる戦乱の時代が始まった。

幽州(現在の北京のあたり)に生まれた馮道はその中の燕という国の劉守光という人物に仕えていた。

劉守光は唐の節度使であった人物で、、父親の妾と恋仲になったのが発覚して追放となり、その仕返しとして節度使であった父を捕え、兄を殺害し幽州の覇権を握った野蛮が服を着ているような人物で、唐を滅ぼした朱全忠の建てた後梁より燕王に任じられていたが、後に勝手に皇帝を名乗り燕という国を建国した。

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しかし朱全忠の最大のライバルで、鴉軍と言われる騎兵隊を率いていた李活用の息子李存勗によってあっさり敗北。燕はわずか2年で滅んでしまう。というより誰もこの国を認めていないので、中国の歴史においてこの国はなかったことにさえなっている。

馮道はそのまま李存勗に仕え、そこで張承業という人物に気に入られる。この人物は宦官であったが、非常に有能な人物で、李存勗も何かと頼りにしていた。

宦官と言うと悪辣なイメージがあるが、歴史上有能な宦官もいて、史記を書いた司馬遷や紙を発明した蔡倫なども宦官であった。

李存勗のもとで馮道は出世する。李存勗はトルコ系民族突厥の出身で、朱全忠が唐の優秀な官吏を根絶してしまったため文字の読み書きができた馮道は厚遇され、河東節度掌書記という、いわば官房長官に近い地位に就任することに成功した。

やがて李存勗は勝手に皇帝に就任し、国号を唐とした。特に理論的な根拠もなく唐の復興を果たしたと自称した訳である。中国史ではこの国を「後唐」とし、五代十国のうちの1つに数えている。馮道はここで翰林学士という極めて重要な地位に就いている。

李存勗は朱全忠の建てた後梁を滅ぼし、都を洛陽に移した。馮道はこの頃に父を亡くし、官職を辞して喪に服した。その間に李存勗は勝手に評判を落としていた。理由はあまりにも唐の文化にかぶれたからである。北魏の皇帝などもそうだが、漢民族を治めるにはその文化を吸収しなければならない訳で、そうなるとそれまでの自分の支持者層からの支持を失うようになる。

李存勗の治世期には反乱が相次ぎ、李存勗自体は部下に殺害された。いかにも乱世の君主らしい最後である。

代わりに台頭したのが李活用の養子の李嗣源で、馮道は今度はその人物に仕えた。いきなりの宰相職である。彼は文字が読めなかったので、文書は馮道が読んでいたという。しかし李嗣源はすぐに死んでしまった。在位はたったの8年。享年は68歳であった。

その後の後継者問題は例によって揉めた。最終的には李嗣源の養子であった李従珂という人物が後唐を継ぐ。

先ほどからやたら養子が目立つが、突厥においては実の息子以外にも養子をとるのが一般的であり、それがために実子と養子の間で後継者争いが頻繁に起こっていた。この時も、李嗣源の実子であった李従栄という人物と李従珂の間で争いがあり、最終的には養子が勝利した訳である。

しかし後継者候補はまだ一人いた。石敬瑭という人物である。彼は李嗣源の娘婿であり、自分こそ後を継ぐのにふさわしいと考えていたのである。

もはや誰が誰だかわからない状態だが、五代十国時代が中国史でもずば抜けて人気がないのもこの辺りに理由があるだろう。

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石敬瑭は政権を握るために北の大勢力契丹族と手を結ぶ。

契丹族とトルコ系民族突厥が手を結んで中国に王朝を建てようとしている話である。石敬瑭自体にはそれほど力はなかったが、契丹族の力は絶大であった。遼にまるで太刀打ちできなかった後唐軍は李従珂は早々に自死を選び、後唐は建国からわずか14年で滅びた。そして石敬瑭は後晋を建国史、皇帝となった。

全然馮道の話が出てこないのだが、石敬瑭は李従珂の部下を一切の罪に問わずに自らの臣としたので馮道もそのまま仕えることにしたようだ。

後晋が建国されると契丹族も国号を遼とした。後晋は建国の恩に報いるべく燕雲十六州を遼に割譲している。馮道の故郷は遼の領地となってしまった訳だ。

馮道は後晋において遼への使者となり、しばらく逗留してから国に帰るのだが、この時遼の君主に大変気に入られる。

やがて石敬瑭が死ぬと幼帝が後を継いだ。そしてすぐに石敬瑭の甥がそれを簒奪した。この後晋三代目の出帝は反遼強硬派で、後晋と遼は決裂、遼は大軍を以て首都開封に攻め込み、略奪の限りを尽くしながら後晋を滅ぼした。建国からわずか十一年での滅亡であった。

馮道は遼のもとで宰相となるが、皇帝である耶律徳光は開封でゲリラ的な攻勢にさらされ遼の本拠地に帰ろうとする帰途に病死してしまう。彼に従うつもりであった馮道は開封に帰ることにした。

契丹族の帰った後の洛陽を治めたのは劉知遠という人物であった。

誰やねん!という感じだと思うが、話は石敬瑭亡くなった頃の話に戻る。彼は自分が亡くなった後は臣下に幼帝の補佐をするように頼んだ。劉知遠もそのようなことを頼まれた人間の一人だったが、そのような遺言書が景延広という人物に握りつぶされてしまい、出帝によって簒奪されたのは先ほど述べたとおりである。

劉知遠は当時河東節度使として後晋の中でも最大の軍事力を保持しており、後晋がいとも簡単に遼に滅ぼされたのは劉知遠が軍を動かさなかったからだというのが最大の理由である。

遼がいなくなったころ合いを見計らって劉知遠は洛陽に入り、後漢という国を建国する。そして劉知遠も即位1年で崩御する。馮道は当然この人たちにも仕えている。後を継いだのは劉承裕という人物で、この人物は隠帝として即位。非常に猜疑心の強い人物で、有能な人物を次々と粛正していく。その毒牙は遼を追い返した英雄郭威にも向けられ、彼の家族を根絶やしにしてしまう。

郭威は悪帝を廃し劉知遠の甥を帝位とすることを決意し、馮道に迎えに行かせた。しかし馮道がその甥っ子を迎えに行ったときには郭威は部下に擁立され既に皇帝となっていた。後漢は建国からわずか4年で滅びた訳であった。

馮道はそのまま郭威に仕え、そして70年の長い生涯を終えた。

馮道が息を引き取ったまさにその年、ある英雄が誕生している。

その者の名は柴栄。後に後周の世宗と言われる人物である。

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朱全忠に始まり柴栄に終わる五代十国時代の歴史は、そのまま馮道という男の歴史であったと言っても良いかも知れない。まるでバトンを渡したかのような人生であった。

個人的な馮道の評価

馮道の人となりが分かるようなエピソードがいくつかある。

まだ李存勗に仕えていた時、彼が食事に招く人間の数が増えたことを部下が諫めた。李存勗は激怒して引退すると言い出し、それを馮道に文書にして布告するように命令したのだが、馮道は「諫めが大きな過ちとは言えません。もし引退が敵に知られれば我が国の君臣不和と思われその隙をつかれます」と泰然自若とし答えたという。

また、遼が開封を支配した際には耶律徳光の前に進み出て「百姓は仏再び出ずるも救いえず、ただ皇帝のみ救いえる」と言って略奪を諫めた。それを聞いた遼の皇帝は略奪を辞めた。

かなり長く複雑な人生であったが、ご覧いただいた通り馮道はただの一度も主君を裏切ってはいないのである。

しかし「忠義」を尊しとなす儒教史観では馮道は叩かれた。不忠、恥知らずとさえ言われた訳である。

しかしこんな時代に生まれて馮道に何ができたであろうか?

めまぐるしく変わる国家情勢において、馮道はその責務を果たしたに過ぎないであろう。彼のせいで国が乱れた訳でもない。同僚を陥れた訳でもない。

「人命を視ること草芥の如し」

五代十国時代を評した言葉であるが、その激動の時代を生き抜き天寿を全うするのは容易ならざることであった。

馮道は名宰相でも名将でも名君でもないが、中国史にその名を残すべき人物であるだろう。