中国の歴史で最も嫌われている男!南宋の宰相「秦檜」は果たして本当に売国奴だったのか?

人格形成ということを考えた時、幼年期から青年期にかけて出会った人間の影響は非常に大きい。

高校時代の世界史教師が声を荒げて秦檜の弁護をしていたのを、まるで昨日のことように思い出す。

今回は4000年を超す中国の歴史において最も嫌われている人物秦檜についてくわしく見て行きたいと思う。

靖康の変において金に連れ去られる

1090年に現在の南京に生まれた秦檜は1115年26歳の時に管理登用試験である科挙に合格した。

科挙の合格平均年齢が40歳前後であったことを考えるとかなり早く合格したと言えるだろう。

世界史上でも稀に見る混乱期であった徽宗皇帝の時代において、秦檜は順調に出世を重ねていき、御史中丞というかなりの地位に就くも、屋台骨と言ってもいい宋王朝が滅びてしまった。

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1126年に起こった靖康の変において秦檜は徽宗一族と共に金に連れ去られてしまう。

秦檜は対金強硬派としてしられており、常々金に対して戦うべきだと主張していた。金が首都開封を占領してからもその態度は変わらず、金が和平派のリーダー張邦昌を傀儡とする政権を打ち立てようとしたときも秦檜は金に対して毅然と反論、これによって金の機嫌を損ない北方へ拉致されることになった。

和平派となった秦檜

一方徽宗皇帝の次男はたまたまこの難を逃れ江南に逃げ延びると南宋を建国し、高宗として即位する。

高宗のもとには各地から有力者や義勇兵を引き連れた人物などが集まり、金に対しての抵抗運動を始めていた。

そんな折、秦檜が南宋の高宗のもとに現れた。

 曰く隙を見て金の捕縛を逃れ、妻や臣下たちを連れてたどり着いたという。

高宗はこれを聞いて喜び、秦檜をただちに宰相に任命したが、他の高官たちは秦檜の言うことに違和感を抱いていた。

というのもあれだけ金に対して強硬派だった秦檜がまるで人が変わったかのように金に対しての和平を求めたのである。

「天下の平穏を考えるならば北は北、南は南とするべきです」

それでも皆の信任厚い范宗尹という人物が秦檜をかばうので皆文句は言わなかったが、それでもその豹変ぶりから秦檜は金のスパイなのではないかという疑いを皆が向けていた。

一説には秦檜は金に捕まった後、金の有力者と結んで金に有利な条件を引き出すことを条件に釈放されたという。

ことの真偽は不明だが、それほど領土復興に熱心ではなかった高宗は秦檜を重用し、一度は失脚するもののすぐに復帰、1138年に宰相になってからは1155年の死まで実に19年間も宰相の地位にあったのだからその権力保持能力は評価するべきなのかも知れない。

紹興の和約

南宋の国防は皇帝直属の禁軍よりも民間の義勇兵が担っていた部分が大きかった。

中でも張俊、韓世忠、劉光世、そして岳飛の4人は奮戦し金の侵攻を食い止めていた。これらの人物がいなければ南宋はこの時に滅んでいたことだろう。

やがて金の太宗が重病になると一時撤退、南宋はその間に4人を官職につけることにした。

4人の中でも岳飛の活躍は目覚ましく、節度使に任命されると徐々に北上、襄陽を拠点として金軍の侵攻を食い止めながら徐々に戦局を変えていった。

もしかしたら金に勝てるかも知れない。

人々は岳飛の存在に希望を抱いた。

しかし秦檜にとって岳飛の存在は邪魔以外の何者でもなかった。

1138年、金の使者が南宋にやってきて、徽宗皇帝の死去および韋太后の無事が知らされた。金との戦いに心動いていた高宗の心は一気に和平に向けて動きだす。

秦檜はこれを幸いと思い主戦派の官僚たちを次々に弾圧し、抗金に功のある将軍たちを粛正していった。

そして1139年、開封や長安を含む一部の地域を南宋に返還する代わりに毎年銀25万両と絹25万匹を支払うという内容の和議が結ばれる。

これは南宋側にかなりより条件だったと言えるが、金の皇帝である太宗が死ぬと激しい後継者争いが起きると金は和議の内容を破棄、再び南宋に攻め込み始める。これによって南宋はふたたび首都開封を失い、更になんかしてくるも岳飛を始めとした将軍たちの活躍でなんとか南宋は国としての地位を保っていた。

しかし自分の実権が失われることを恐れた秦檜は岳飛ら4人の将軍を中央の禁軍に編入することを画策し、自らのコントール下に置こうとした。

秦檜は張俊とは既に裏で手を組んでおり、韓世忠もこれに従う。既に劉光世はこの世を去っており、残ったのは岳飛だけであった。

岳飛はあくまでも抗戦を主張し、されど南宋の命令に背くこともできなかったために軍を引き上げざるを得なかった。

岳飛が邪魔で邪魔で仕方のない秦檜は大した理由もなく岳飛とその息子を処刑してしまった。

こうして秦檜は金との間に屈辱的な紹興の和約(1141年)を結ぶことに成功する。

その内容は南宋が一方的に毎年銀25万両と絹25万匹を支払うというものであった。両国の国境は淮河となり、南宋は事実上華北の支配権を放棄した形となる。

これによって南宋が得たものは皇帝の母の身柄と徽宗の棺だけであった。

北宋最後の皇帝であり、現皇帝の兄である欽宗は未だ存命中であったが、その身柄の返還を南宋が要求することはなかったという。欽宗は二度と故郷の地に足を踏み入れることなくこの20年後に静かに息を引き取った。

晩年の秦檜

秦檜は死ぬまで宰相の地位にあり続けた。その一方で息子や孫を歴史編纂の責任者に任命させた。

全ては自己に不利な記録を抹消するためである。

また秦檜は「文字の獄」を施行し、少しでも自分に対して批判的な表現を行った人物を容赦なく弾圧した。

やがて秦檜が死ぬと、高宗は「これで枕元に匕首を忍ばせておく必要もなくなった」と言って秦檜と親しかった者たちを次々と罷免、その数は100人以上に上ったという。

個人的な秦檜の評価と後世の評価

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秦檜の評価は実はものすごく難しい。

高校時代の世界史の教師が言ったように、秦檜は金と宋との力の差を身をもって体験していた。それゆえに、もし和約をしなければ南宋はその時点で金に滅ぼされていた可能性は高い。

事実南宋はこの後、金よりも長い期間存続することになる。

両国ともにモンゴル帝国に滅ぼされたのは皮肉ともいえるが、そのような観点で見ると秦檜の和平政策は必ずしも失策とは言えなかったであろう。

それでも秦檜は中国では「売国奴」として最も嫌われている存在である。

「秦檜は、和議を唱導して国を誤らせ、夷秋の力を頼んで天子を眩ませ、ついには人の守るべき道を踏みにじって、親を忘れ、君をあとまわしにした。これは、秦檜の大罪である。」

これは朱子学の創始者である朱熹の言葉だが、後代はもちろんほぼ同時代の人物からも秦檜が忌み嫌われていた様が見て取れる。

明代になると岳飛像がつくられ、その前に秦檜像も作られる訳だが、ここを通る人は皆秦檜の像に唾を吐きかけたという。

秦檜がここまで嫌われるのはいくつかの理由があるが、元代にできた「元曲」や明代にできた小説の中には岳飛を主人公とする物語が多く、その中で秦檜は大悪役になっている訳である。

特に元の時代と清の時代にそれらは流行ったと言われ、秦檜は異民族政権に対する不満をぶつけるスケープゴートのような役割を果たしていたとも言えるだろう。

実際に秦檜と金が通じていたかどうかは分からない。

しかし岳飛殺害に見られるように、そうとられても仕方がない面が多々あり、いずれにしても保身のために多数の人物を弾圧し、国家的英雄を殺害したのは確かであろう。

古来より人は、負けて生き残るより負けても戦い死ぬことに美学を感じてきた。

日本で新選組が人気なのも同様の理由であろう。

岳飛は英雄として人々に愛されてきた。そして岳飛が愛されれば愛されるほど秦檜は嫌われてきた。

実際問題秦檜が国を売ったとは南宋の方が長く続いたことから見てもとうてい言えないであろう。

本当の売国奴とは呉三桂のような人間であり、秦檜はたしかに責められるべき不義を多数行ったが、売国奴とまではとうてい言えない。

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ただ、個人的に秦檜が好きかどうか問われたら、虫唾が走るほど嫌いである。