「神宗」というのは中々の廟号である。
北宋の第6代目の皇帝である神宗の本名は趙頊と言い、彼の名前よりも宰相であった王安石の名前の方が有名であろう。
断固たる改革
神宗が即位したのは大変な時代であった。
北方には契丹族の遼やチベット系民族の西夏と言った異民族が強大な力を持っており、宋はそれらの国に莫大な歳費を支払っている一方内側では特権階級と化した官僚や宦官、後宮に諸侯などが跋扈しており、宋の財政は巨額の赤字となっていた。
今の日本がそうだが、貧富の差が大きくなると税収は基本的に下がる。
原因は、富裕層が税収逃れに躍起になるからである。例えばかつてタレントの長者番付においてビッグ3と言われるタレントがランクインしていなかったことを考えればその理由は分かるであろう。
歳費は増え続けるのに収入が減り続けるという現代日本のようなことが、1000年前の中国でも起こっていたのである。
宋の時代は特に官僚に対する歳費が歴代王朝でも最大であったと言われるほどで、その分優秀な官吏も多かったのだが、その有能な官吏の意見が食い違ってしまったのが神宗の時代ともいえる。
内側も外側も敵だらけと言って良い神宗は、事態の打開を求めて王安石を宰相の地位に就ける。
王安石の改革は司馬光など多くの反対派を産んだが、神宗はそれらの声を抑え、改革に異を唱えるものには容赦なく罰を与えた。
王安石の新法と呼ばれる改革によって、宋の財政は健全化した。有力者たちを抑えながら国家の歳入を増やす見事な政策の数々によって宋は息を吹き返すように見えた。が、反対派の攻撃は止むことがなく、しかもその攻撃は王安石への個人攻撃に集中した。
神宗は一端王安石を江東に左遷し、新法の改革は別のものに任せることにする。
そしてそれが大きな誤りとなった。
王安石の後継として新法を推進していた呂恵卿という人物が大変な俗物であったのだ。
彼は権謀術数によってライバルを蹴落として行き、自分の親族を要職につけるなど私腹を肥やす方向に政治を行うようになっていったのだ。そのため、呂恵卿は王安石の復帰を阻害し、後の宋の歴史書には「姦臣伝」の項に載せられたほどであった。
神宗は王安石を呼び戻し、再び新法による改革を実行しようとするが、そのころにちょうど息子を失った王安石にかつての勢いはなく、復帰の翌年には王安石自ら官職を辞する事態になってしまう。
王安石が去った後も神宗は意欲的に改革を行い、それは後に「元豊の改革」と呼ばれるようになるもので、人事制度の改革などに成功する。
神宗は改革成功の余波に乗って西夏への侵攻を開始するもののこれに失敗。このことにショックを受けたのか、それとも働き過ぎだったのか、神宗はこの直後に38歳の若さでこの世を去ってしまう。
神宗が崩御すると守旧派を支持する皇后が政権を握り、新法派を一掃、守旧派の代表ともいえる司馬光を宰相に据え保守的な反動政治を行うようになる。
宋はこの後も新法派と守旧派が相争うようになり、急速に国力を衰退させていき、神宗の死から約40年後の1126年には北方民族女真族による「靖康の変」が起き、宋の王族は連れ去られ、北宋は滅亡してしまうことになる。
個人的な神宗(趙頊)の評価
神宗個人を見れば中国の長い歴史の中でもトップクラスの名君だと言えるだろう。
決して名門の出とは言えなかった王安石を抜擢したのは慧眼であったし、改革を断固たる意思で行ったその決断力と実行力は称賛に値すると言って良い。
が、儒教的な価値観においては神宗や王安石よりも司馬光を始めとした守旧派の方が評価が高かったりする。
王安石の改革は国家の分裂を招いたというのがその理由であるらしい。
神宗においては軍事的な失敗をした面も大きなマイナス材料となったようだ。
ただ、当時の状況を考えても、宋に北方民族を御する力はなかった。
それが故に澶淵の盟を結ばざるを得なかった背景があるし、そういった情勢を見極められなかったことや、敗北そのものも失政であると言えるだろう。
歴史をあとから見ればの話しであるが、遼はさらに強大な国家である金に敗れ、宋に勝った西夏はさらに強大なモンゴル軍に敗北、そのままモンゴル軍は金をも滅ぼしてしまい、更には宋の後継国であった南宋をも滅ぼしてしまう。
モンゴル軍に関しては、アッバース朝やロシア、ポーランド、ホラズム朝などの当時の最強国家たちがまるで歯が立たなかった強大な敵であり、仮に宋がどのような政治を行っていたとしてもその滅亡は免れなかったであろう。
それでも、宋が勢力を保持したままであればあるいはモンゴル軍の侵攻を止められた可能性はあったと思われる。
金、西夏、宋、遼などがお互いに争うことで国力を疲弊させた結果重りの無くなったモンゴルが増大したという見方も出来るからだ。
もちろん歴史にifはない。
結果は神宗亡き後宋は急速にその力を失っていき、遼も西夏も金もそして宋も全てモンゴル軍によって滅ぼされた歴史があるだけだ。
古来より、官僚組織の肥大化を解決できた国家は存在しない。
古代ローマもそれで滅んだし、現代日本においてもまるで解決が見られない問題と言える。
神宗ほどの名君と、王安石ほどの名宰相がその命を懸けた改革でさえもそれは不可能だったのである。
それらを解決するためには、一度国は滅びねばならないのかも知れない。
作っては壊し、壊してはまた作る。
人類の歴史とはこれを繰り返しているだけの話なのだろうか。