遼の太祖!耶律阿保機(やりつあぼき)

遼を建国したのは二代目の太宗(耶律堯骨)であるが、ほとんどの世界史の教科書にはその基礎を作った耶律阿保機の名がのっている。

五代十国時代にできた強国遼の基礎を築いた太祖、耶律阿保機について見て行こう!

遊牧民族と中国王朝

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中国の歴史というのは、一定のリズムとでもいうべきか、同様の流れを何度か繰り返している。

1つは農村の荒廃と都市への集中であり、不作により農村から人がいなくなって都市に流れ込み、農業生産量の低下と都市の治安の悪化が同時に起こり、それが王朝交代のきっかえのの一つとなる流れで、これは日本でも同様のことがなんどか起きている。

もう一つは統一王朝と北方の遊牧民族の戦いであり、これは秦が中華を統一した時まず万里の長城を作ったことからわかるように、紀元前から近代まで幾度となく繰り返してきた歴史だ。

古くは周王朝が西戎と言われる遊牧民族に滅ぼされたこともあり、歴代中華王朝を常に悩ませ続けた。

遊牧民族と中国王朝には大きな違いがいくつかあるが、最も大きな違いは都市の形成と官僚機構であろう。

中華王朝は洛陽や長安、開封などの都市を中心に王朝を形成し、各都市を治めるのに官僚機構を整備する。有名な科挙や郷挙里選、九品官人制などは全て国家運営に必要な官僚登用試験であり、基本は文官と武官を分け、その広大な土地を治めることに特徴がある。

遊牧民族は全く逆である。

「市民ケーン」というハリウッド映画があり、その中で「ザナドゥ」という言葉が何度も出てくる。

これはモンゴル帝国の幻の都のことであり、その場所はもちろんそれが存在したかどうかさえ分かっていない。多分そのような都はない。

遊牧民族は文字通り遊牧するので特定の都市もなければ都もないのだ。基本的には文字もないし歴史も残さないので、遊牧民族の歴史は中国の歴史書からしかうかがい知れない。これは聖徳太子以前の日本の歴史が中国の歴史書からしか基本わからないことに似ているだろう。

そして官僚機構は整備されておらず、各部族に分かれて行動しており、時折強大な力を持った指導者が現れてはそのもとに集い強大な勢力となる。

年を持たないが故に中国の歴代王朝はもちろん時としてロシアを抜けヨーロッパに侵攻したこともある。有名なアッティラ大王は匈奴と同族であり、オスマン帝国の創始者オスマン一世は大元を辿ればモンゴル高原の遊牧民族に祖先をもつと言われている。

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このような強大な指導者の中で最も有名なのがチンギスハーンと今回の主役である耶律阿保機であろう。

契丹族の天皇帝

遊牧民族の長の名称は時代によって、部族によって大きく異なる。漢を大いに苦しめた匈奴は単于であったし、モンゴル帝国ではカーン(可汗)であった。

契丹族はより中国王朝に近かったということもあり、天皇帝という名称を使っていた。極東の倭の国が天皇という名称を用いているが、中国の周辺国家においてはこのような名称を用いることが多かったのだ。

正確な年代はわからないが、耶律阿保機は契丹族の天皇帝の称号を得ていた。907年にはカーン(可汗)に即位しており、周辺の諸部族を次々に従えていき、いつしか強大な勢力を築いていた。

ちょうど同じころに唐が朱全忠によって滅び、華北には後梁という国が建国された。朱全忠はトルコ系民族の突厥出身の李活用およびその息子の李存勗との闘争に明け暮れる。これを機と見た耶律阿保機も華北に攻め入るが、李存勗率いる鴉軍と言われる騎馬隊の前に華北進出を阻まれ、李存勗は後梁を滅ぼし後唐という国を建国する。

ただ、この李存勗という人物、戦は強いが政治は全くだめで、派手な暮らしや残虐な政策をとり行い過ぎてこの部下の信任を失い、最後には部下に殺害されるという末路を迎えた。

一方李存勗と正面をきって戦う不利を感じた耶律阿保機は当時遼東半島あたりの広大な土地を支配していた渤海という国を攻め、これを滅ぼすことに成功していた。

そうこうしているうちに後唐の国内で大きな内部紛争が発生する。

李存勗の一族である李従珂と石敬瑭という人物が覇権争いをしていたのである。武力的に不利であった石敬瑭は契丹族の耶律阿保機に助けを求める。

契丹族は河北に軍を迎えるが、この途中に耶律阿保機は病死してしまう。

耶律阿保機亡き後の契丹族

耶律阿保機が亡くなると、すぐにその皇后であった月里朶(ユリド)が政権を握る。彼女はウイグル族の出身と言われ、その聡明さで耶律阿保機を陰から支えていた人物であり、耶律阿保機が死ぬと自らの右腕を切り落とし夫の棺に入れ、全部族に号令するようになった。

時代が時代とは言えすさまじい女性だ…

彼女の一存により後継者は長男ではなく次男となった。遼の太宗と呼ばれるようになる耶律堯骨である。

彼のもとで契丹族は遼という国を建国し、後唐を滅ぼした石敬瑭が建てた後晋より燕雲十六州を割譲される。

その後も遼は繁栄を享受し、1004年には統一王朝宋から毎年贈り物を受け取るという旨の澶淵の盟を結び、1125年に金の滅ぼされるまで約200年もの間国は存続することになる。

*西遼も入れれば約300年。

遊牧民族が建てた国の中でも、特に長期間国が続いた例であろう。なにせ、日本の鎌倉幕府よりも長く続いたのである。

この秘訣は耶律阿保機が考え出した二重統治システムにあると言われ、遊牧民族と漢民族で別々の統治方法を採用したと言われている。これは、遊牧民族でありながら定住用の都市を建設したり、漢民族にはそのままの暮らしをさせたため、反発が少なく内乱があまり起こらなかった。

更に遊牧民族には珍しく契丹文字と言われる独自の文字を作っており、これは現在に至るまで完全に解読には至っていないが、その文化レベルの高さをうかがわせるに十分であろう。

なお、遼に関しては20世紀のドイツ人歴史学者ウィットフォーゲルの考案した「征服王朝」という名称が長年つけられてきたが、近年ではあまりこの名称は使わない。「大航海時代」や「インディンアン」という名称が使われなくなったのと同様で、中国を中心にみる歴史観を現在では是としないことに理由がある。

個人的な耶律阿保機の評価

耶律阿保機自体は歴史的な英雄という訳ではないのだが、長期間続いた政権の建国者であることは確かである。

度々戦には負けているし、そこまで強烈なカリスマ性のある人物ではないものの、二重統治性や契丹文字の整備などをみるにつけても、また華北の王朝とのやりとりにつけてもバランス感覚に優れた君主で、高い政治力を持っていた人物であると言える。

耶律阿保機自体は皇帝とはならなかったが、その基礎を作った人物であり、三国時代の魏の初代皇帝曹丕の父親曹操やアレクサンダー大王の父親フィリッポス2世にその立場は近いと言えるかも知れない。