中国史上初の相国!秦王の腹心「呂不韋」の幸運と悲運について

「中国」という概念を作ったのは秦の始皇帝である。

もし彼がいなければ、後の歴史は大きくかわっていたことであろう。

バタフライエフェクトという言葉があるように、蝶の羽ばたきが大きな嵐を起こすがごとく、歴史というのも小さな出来事が後に大きなうねりをもたらすことがある。

呂不韋がいなければ秦の始皇帝は誕生しなかった。

 大商人呂不韋

呂不韋は群雄割拠する戦国時代の後期に生まれた人物で、その生まれは定かではないが、商人として諸国を商いして回っていたようだ。

「賤しきに賄い。貴きに売る」という史記の記述の通り、呂不韋は相場を見る目があったようだ。

呂不韋が当時最も栄えていた都市である邯鄲にいた時の話、秦王の孫が趙の国の人質として邯鄲にいるということを聞きつけた。

色々と情報収集してみると、この人物、異人は秦の時期王座からは程遠く、趙の国からも価値のない人質であるとみなされているらしいことがわかった。

それを知った呂不韋は一言「此れ奇貨なり、居くべし」と呟いたという。

安物を買って高く売る、そんな商人としての直感が働いたというべきであろう。

呂不韋に調査によれば、この時秦の後継者たる太子が死去していた。呂不韋の見立てでは次期皇太子は安国君、すなわちこの人質となっている異人の父親であった。そして実際にそのような結果になったのだから呂不韋の情報網は確かなものがあったのだろう。

呂不韋はさっそく異人に会いに行くことにする。

「あなた様の門を広げて差し上げましょう」

呂不韋は開口一番そういったと伝えられている。

「自身の門を広げてから私の門の心配をするのがよろしいでしょう」

異人は自身が王座から遠いことを知っていた。

「あなた様はご存知ではございますまい。私の門はあなた様の門が広がることによって自然におおきくなるのです」

呂不韋には秘策があった。この異人を秦の王座に就けるための秘策が。

呂不韋の権謀術数

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当時安国君には21人の子供がおり、異人の母夏姫は安国君の寵愛からは遠く、このまま皇太子に立てられる可能性は非常に低かった。しかも本国にいないため益々不利な立場であったと言える。

呂不韋はまず金500を異人に渡し、豪奢な馬車を買った。この馬車で有力者を訪問し、贈り物は欠かさない。現在アメリカにおいては商談はその人物が泊っているホテルによって決まるという話がある。泊っているホテルの格が高ければ高いほど商談に有利になるというのだ。この時代は馬車であったと言える。

そのような政策の一方で、呂不韋は大きな賭けにでる。

異人を安国君の正妻である華陽夫人の養子にしようというのだ。

華陽夫人は正妻であったが、子どもがいなかった。21人の子供は皆華陽夫人の子供ではない。

呂不韋はさらに金500を用意し、秦の王都咸陽に赴いた。

呂不韋の巧妙なところは直接華陽夫人を篭絡するのではなく、まずその外堀を埋めたことだ。

 この際誰を篭絡したのかは、史書によって異なる。

後述するが、実は呂不韋に関しては「史記」と「戦国策」においてその記述が大きく異なる。

史記においては華陽夫人の姉を、戦国策においては華陽夫人の弟に対し「今安国君が亡くなれば後継者は華陽夫人を冷遇し、あなた方の零落は避けられないであろう。しかし異人を養子にし、皇太子にすればその繁栄は約束されたようなものだ」と説得した。

どちらを説得したのかはわからないが、見事な説得である。呂不韋は人の欲というものをよく知っている。

一見無理そうなこの荒業を、呂不韋は実現させた。異聞は華陽夫人の養子となり、皇太子となったのだ。

皇子の帰還

異聞は秦に帰還することになったのだが、この部分も史記と戦国策で内容が大きく異なる。

まずは戦国策における記述。

皇太子となった異聞を帰国させるように趙王に要請があった。趙としては人質の価値が飛躍的に上がった訳で、ここで手放す理由がない。

呂不韋はお得意の弁舌を以て趙の王を説得する。曰く秦が本気で趙を滅ぼそうとすれば国益の前に一児を顧みることはなく、もしここで異人を帰国して恩を売ればそれを忘れないだろうが、もしここで返さなくなかったら秦は積極的に趙を攻め、結局人質としての価値はないと。

要は解放した方が趙の為になるよということで異人は秦に帰れることになった。

次に史記における記述だが、戦国策と大きく異なる。

紀元前257年、秦の将軍王騎は趙の都邯鄲を包囲した。趙は人質であった異人の処刑を決定するが、呂不韋は金600をもって役人を買収し、かろうじて脱出できたという話になっている。

いずれにしても異人は秦に戻り、義母である華陽夫人の故郷である楚の字を入れて子楚と名乗るようになる。

やがて安国君が逝去する。皇太子であった子楚は王座につき、秦の荘襄王となる。

呂不韋の絶頂期

荘襄王は即位すると呂不韋を丞相とし、その子の時代では更に上の位である「相国」に就任する。

「相国」という地位は呂不韋のために作られた位であり、代々中国王朝においても使われるようになる。この地位はやがて唐の時代には太政大臣と名称が変わり、日本という国にもそのまま伝わるようになる。

 彼の食客は3000人にも及び、その中には世界史の教科書にも載っている李斯もいた。李斯は「性悪説」で有名な荀子のもとで学び、その才覚を呂不韋に愛された人物の一人であり、後に秦の国の宰相となる。

呂不韋は賢人を集め、それぞれの見聞を著述させ、「ハ覧」「六論」「十二記」などにまとめ、現在ではこれらをまとめて「呂氏春秋」と呼ぶ。これらの書かれた木簡を咸陽の中心地に並べて一文字でも付け加えることが出来たら金を与えるとしたほどで、その権力は絶頂に達していた。

この世に敵はいないかのような春を謳歌していた呂不韋であったが、その零落は思わぬ方向からやってきた。

秦王政出生の秘密

 荘襄王がまだ異人だったころ、呂不韋には愛人がいた。その愛人を一目見た異人は大変に気に入り、自分の妃になるように頼んだ。呂不韋はお気に入りの姫であったのでしぶったが、ここで仲たがいしては今までの投資がパーになる。呂不韋はしぶしぶその姫を異人に譲った。

さて、ここまでのエピソードは史記と戦国策に大差はないが、ここから大きく異なっている。

史記においては「姫自ら孕めあるを隠す。子政産む。子楚ついに姫を立てて夫人となす」と記載されている。つまり呂不韋の子供を宿している状態で嫁ぎ、子どもを産んで秦王の夫人となったという記述である。

政とは、後に秦王となり、史上初の中国統一を実現した秦の始皇帝の本名である。

この記述が本当ならば始皇帝は呂不韋の息子ということになる。

古来より始皇帝出生については中国史上最大のミステリーの一つであった。

この記述は戦国策にはなく、史記においても始皇帝に関する箇所には記載がない。真実は分からないが、個人的にはこの記載には恣意的なものを感じる。

新しい王朝が旧王朝を悪く言うのは中国の歴史書の伝統である。そもそもなぜ歴史書を歴代王朝は残したか?それは自国の正当性を主張するためである。

史記は司馬遷という人物が漢の武帝の時代に書いた歴史書だ。漢はご存知のように秦を滅ぼして建てられた国だ。さらに秦は焚書坑儒を行って儒教を徹底的に弾圧した国であったが、漢は儒教を優遇した。漢にとって秦は悪玉であり、意図的に貶められていた節がある。

始皇帝出生に関してはそのような秦に対する貶めの一つである可能性が高い。

それゆえに史記より前の戦国策においてはそのような記載はなく、個人的には信憑性は低いと思われる。

もっとも、呂不韋とその姫の関係はその後も続いており、始皇帝の生物学上の父親が呂不韋である可能性も捨てきれない。今のようにDNA鑑定がある訳ではないので、残念ながら永遠の謎のままであろうが、本当のところは始皇帝の生母のみが知っていたのだろう。

呂不韋の没落

秦の荘襄王が死に、わずか13歳の政が秦王となった。

先述した通り、政の時代に呂不韋は相国の地位に就き、幼帝のもとで絶頂を極めた。その足元を崩したのは政の母親であった。

政の母親と呂不韋の関係はずっと続いていたが、さすがにそれが明るみに出るのはまずい。そう思った呂不韋は彼女に別の男を紹介するという行動に出た。結果から見ればこれが呂不韋没落の契機となった。

政の母親は恐らくニンフォマニア(性的依存症)であったのだろう。呂不韋は嫪毐(ろうあい)という技術に長けた人物を探し出し、疑似宦官として彼女のそばにおいた。実際には宦官ではなかったので、二人の間には二人の子供が生まれたという。

太后は嫪毐を大変気に入り、豪邸をたてさせ、家には数千人の使用人がいたという。嫪毐は次第に増長し、やがて政を廃して自ら王になろうという欲望をあらわにする。しかし政はとっくにそのような企みは見抜いていた。嫪毐が皇后の印を使って兵を集めたところを一網打尽にし、嫪毐と太后の間に生まれた兄弟たちと一緒にこれを廃した。

このことの責任をとらされ、呂不韋も相国を罷免となった。政この時21歳。

呂不韋は政を甘く見ていた。罷免となった呂不韋は有力諸侯との関係を強化し、その勢力を回復させようとした。呂不韋の中に、政は自分なしでは政治などできないだろうという想いもあったのかも知れない。

だが呂不韋は甘かったと言わざるを得ない。

相手は中国の歴史、いや、世界の歴史において最強の名君にして最強の暴君、あらゆる制度の生みの親である始皇帝その人である。

政は呂不韋に手紙を送った。

「君、秦に何の功あって十万戸を食ましむるや。君、秦に何の親あって号して仲父と称するや。それ家族と共に蜀に拠れ」

一体お前は秦に何の功績があるのか?秦にどのような血縁を持っているのか?それなのに何の権限があって政治をおこなっているのか?早々に都から去るが良い、というような内容である。

 呂不韋は全てを悟った。自分にこの先まっているのは処刑であると。

紀元前235年、呂不韋は自ら死を選んだ。

その14年後の紀元前221年、政は史上初めて中国を統一し、史上初の皇帝に就任した。人は彼を始皇帝と呼ぶ。

個人的な呂不韋の評価

呂不韋がいなければ秦の始皇帝は誕生しなかったであろう。それは生物学的な話ではなく、秦の異聞が子楚、および荘襄王になることもなく、戦国の世はまだまだ続いていたことであろう。まぎれもなく世界の歴史を大きく変えた人物である。

歴史上でも稀なほどの才覚を誇り、その権力の絶頂を極めたが、あっと言う間に没落し、そして最後は自ら死を選ぶ結果となった。

司馬遷によれば、呂不韋は優れた人物であったが、仁の心がなかったという。商人として機微に優れていたが、為政者の器ではなかったということだ。

呂不韋の成功は投資したからであるが、呂不韋の失敗はもとを取ろうとしたからである。

呂不韋は徹頭徹尾、商人であったということであろう。

彼は非常に運のよい人物であったが、非常に運の悪い人物でもあった。人生の運・不運は意外と一定の量に決まっているのかも知れない。