天下統一の基礎を作った男!連衡策で有名な張儀について

中国春秋戦国時代に起こった「諸子百家」の中には合従連衡をその主とする縦横家と言われる派閥があった。

今回紹介する張儀は蘇秦とともに縦横家を代表する存在で、秦による史上初の中国統一に一役買った存在である。

 蘇秦と共に学び不遇の時を過ごす

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張儀が生まれた年はわかっていないが、魏の国で生まれたということはわかっている。亡くなったのが紀元前309年ということなので、その40から50年前ぐらいに生まれたと考えるのが妥当かも知れない。

これまたどういう経緯でそうなったかは誰も知らないが、張儀は蘇秦と共に斉の国で鬼谷という人物から合従連衡について学ぶ。

2人はその後別々に士官の道を探り、そして両者ともに全く相手にされなかった。

ある時楚の国に遊説に行った張儀は全然相手にされず、挙句に楚の宰相の宝を盗んだという濡れ衣を着せられてしまう。

滅多打ちになった張儀はそのまま家に帰り、奥さんに自分の舌はまだあるか?と聞いたという。弁舌家にとって舌はなによりも重要だというエピソードであろう。

後に天下統一の一助を担うとは思えないほど誰にも相手にされない張儀だったが、ある人からどうして蘇秦を頼らないのか?と聞かれ蘇秦のもとを訪れる。

蘇秦もまた張儀のように全く相手にされない日々が続いたが、猛勉強の末揣摩の術という怪しげな術を習得した結果趙の国の宰相になっていた。

その後蘇秦は張儀に秦に行くように助言するのだが、この辺りのエピソードは歴史書によって異なる。

蘇秦が張儀を侮辱した後部下にそっとお金を持たせ張儀に持たせたパターンと蘇秦が張儀に頼んで秦が攻めてこないようにしたパターンだ。

そもそも蘇秦に関する記述も史書によってかなり記述が違って、蘇秦が仕えたのが燕の文公であるとする場合や趙とする場合があってどちらが正しいのかもわからない。

分かっているのは蘇秦が秦以外の国同士で同盟を結ばせる合従策を採用したのに対し張儀は同盟国の足並みを崩し秦と個別に同盟を結ばせることで各個撃破を狙う連衡策を採用したことだ。

戦国時代は基本斉と秦の2強で、楽毅の活躍によって斉が没落した後は急激に秦が強くなることになる。

楽毅は蘇秦や張儀よりは後の人物で、ある意味秦の強大化を一番助けたと言えるかも知れない。

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蘇秦と張儀の間にどのようなやり取りがあったかはわからないが、張儀は秦に認められ宰相の地位に就くことに成功する。

司馬遷の史記によれば張儀は一度魏の宰相になり秦との同盟を結ばせてから再び秦の宰相になったとある。

それが真実であるかはわからないが、蘇秦が死んだ後は張儀の時代となり、合従策は崩れ連衡策が功を奏し秦は次々に味方を増やし、同盟を結んでいくことになる。

史記に関しては中国最高の歴史書であるが、春秋戦国時代に関しては資料が散逸してしまったようで、特にこの辺りの記述には矛盾が多いためあまり信用できないというのが通説である。

どちらにしても秦は強くなった。商鞅の改革が功を奏したのもあるが、張儀の政策がうまく行ったということもある。優秀な将軍も多数いた。天下を取るようになったのは必然であろう。

ちなみに張儀は個人的に楚で受けた恨みを忘れていなかったようで、楚に復讐する形で挑発し、張儀属する秦軍は藍田の戦いにおいて大いに楚を打ち負かしたという。

 その後秦王が亡くなると次代の王とはそりあいが悪く、魏の国に逃れ宰相となって1年後に没したという。

春秋戦国時代に活躍した人たち全般に言えるのは、ものすごく優秀で能力があるのに、なぜか君主が亡くなってしまって跡継ぎとの仲が悪くなってしまうパターンが多いということだ。

今回の張儀しかり、楽毅しかり。

どれだけ部下が優秀でも、君主が優秀でなければ国は発展しませんわね!