三国志最強のスーパー軍師!郭嘉奉公の活躍をご覧ください

三国志最強の軍師は誰か?

この問に答えるのは難しい。

光栄のゲームなどでは諸葛亮孔明だけが知力100となっているが、曹操に仕えた郭嘉もまた同等の能力を持つ軍師の1人だと言えるだろう。

郭嘉は曹操陣営には珍しく、演義でも正史でもほぼ差のない活躍をしていて、このブログだと演義での活躍を描いた後正史での活躍を見てガッカリするということが多いのだが、今回は演義も正史も一緒に記述することにする。

 我が覇道はこの者によってなる

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郭嘉の細かい出自は実はよく分かっていない。潁川郡の出身であるということは分かっているが、彼が初めて登場した時には袁紹の元にいた。

この時は仕えていたというよりも食客として居候していたというべきであろう。春秋戦国時代から有力者が食客を養うことは伝統となっている。

袁紹は袁家の当主として天下に最も近い男であったが、郭嘉は袁紹の器が小さく天下を統べる人物ではないと見抜いており、郭図や辛評に向かってそれを忠告した後自らはさっさと隠遁生活に入ってしまった。

 それにしても袁紹の器が小さいのは確かだが、郭図も辛評も他人に自分の失敗を擦り付けて袁家の滅亡を速めた人物だよなぁ。郭図にいたっては出ると負け軍師とまで言われていて、三国志最低軍師とさえ言われているぐらいで…

さて、一方三国志最強君主たる曹操は、腹心である戯志才を病気で亡くしてしまい意気消沈していた。

この戯志才と言う人物、演義は一切出てこないせいで一般的な知名度は0だが、荀彧が曹操に推挙した人物で、あの曹操が気に入っていたのだから相当優秀な人物であったのだろう。

曹操は代わりとなるような人物はいないかと荀彧に相談をした。

荀彧は家柄で言ったら曹操より全然上で、袁家と互角かそれ以上、その中でも特に優れた人物で、人脈も非常に広かった。

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 2人の間にどのようなつながりがあったかは不明だが、荀彧は郭嘉を曹操に推薦した。

曹操は郭嘉に会うと非常に気に入り「我が覇業はこの者によってなる!」と大喜び、郭嘉の方も「この方こそ私が真に仕えるべきお方だ!」と言って大喜びしたという。

スーパー軍師郭嘉

ある時、呂布に敗れた劉備が曹操を頼って亡命してきた。

荀彧を始め多くの人物が劉備を早急に滅すべしと主張したのだが、郭嘉はただ一人劉備を保護することを進言した。別に劉備のことを気に入っていた訳ではない。劉備の名声は広く轟いており、もし劉備をここで殺せば有能な人材が曹操のもとにやって来なくなるだろうと言うのだ。

曹操は郭嘉の言う通り劉備を保護した。

果たしてこれが正しかったのかどうかはよく分からない。ここで劉備を生かしたせいで曹操は天下を取れなかったともいえるし、ここで劉備を殺さなかったからこの後にも多くの人材に恵まれたとも言える。

もっとも、この部分は歴史書によって記述が異なっており、郭嘉が劉備の危険性を見抜いてさっさと始末するように進言したという記述もある。こっちの方が郭嘉っぽいけどね。

やがて曹操が呂布を攻めた時、連戦に次ぐ連勝であったが、どうしても最終的に攻めきれなかった。兵士も疲れてきたし撤退しようかどうか迷っている曹操は、例によって臣下の意見を聞いて見ることに。こういうところで独断に走らないで冷静になれるところが曹操の英雄の器たるゆえんだよなぁと思う訳だが、それはさておき郭嘉は荀攸と共に断固戦を継続すべしと主張、水攻めによって呂布討伐に成功させる。

呂布がいなくなった後は袁紹の戦いとなる訳だが、曹操は当初劉備を派遣して袁紹と戦わせようとしていた。郭嘉と程昱はこれに大反対したのだが、曹操は劉備を気に入っていたのか劉備に兵を率いさせて袁紹にあたらせた。

この時郭嘉は「一日敵を放たば万世の患あり。虎を世に放ったようなものです」と言った。

かくして劉備は曹操を裏切って勝手に独立してしまう。この時曹操は郭嘉の言う通りにしていればと後悔したという。

独立した劉備をどうするかについては曹操陣営でも議論が重ねられた。劉備を放置することはできないが、この隙を袁紹につかれたらお終いだ。

ここで郭嘉はこう言い放つ。

「袁紹は疑り深いので内部はバラバラです。すぐには行動ができないでしょう」

今度は曹操、郭嘉の言う通り行動し、劉備を見事打ち破ることに成功、お気に入りの関羽も手に入れてこれには大喜びだった。

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やがて曹操と袁紹の間に天下分け目の決戦である官途の戦いがはじまった。

この時、孫策が江東より襲ってくるという情報が曹操陣営に流れた。袁紹と孫策を同時に相手にするのは不可能。陣営は混乱状態に陥った訳だが、郭嘉は実に冷静だった。

「所詮孫策は匹夫の勇、江東を制圧するのに圧制を以てなしたので恨みを買っており、つまらぬ者の手にかかって命を落とすことでしょう」

郭嘉が言うなら安心と曹操陣営は落ち着きを取り戻した。そして孫策は郭嘉が言った通り名もなき人物に暗殺されてその生涯を閉じることになった。

おいおい、郭嘉は人の生き死にまで予言できるのかよ…

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曹操が袁紹との決戦に勝利するとそのショックもあったのか袁紹はさっさと病死してしまう。その後袁紹の後継者たちを追撃し、曹操軍は大勝。曹操は一気に袁家を叩き潰す気でいたが、郭嘉はこれを諫めて「袁紹は後継者を決めずに死にました。放っておけば後継者争いで滅んでいくことでしょう。ここで攻めればかえって結束を強めてしまいよくありません。ここは一度荊州の劉表を攻めるのが良いでしょう」と言った。

曹操はこの案を採用し、実際に劉表を攻めると、これまた郭嘉の言った通り袁紹の長男である袁譚と袁尚はお互いを攻撃し始めた。こうなると脆いもので、曹操は大した損害もださずに袁家の掃討に成功し、華北の覇権を握ることに成功した。

若すぎる死

中国の歴史は北方の異民族との戦いでもある。実際に中国最後の王朝である清を建国したのは漢民族ではなく北方民族であった女真族であった。

曹操もまた、北方の異民族烏桓との闘いに迫られた。

烏桓は元々匈奴に服属していた民族であったが、鮮卑族とともにここから独立、蹋頓(とうとん)という指導者のもと強大な勢力となっていた。

蹋頓は袁紹と結んでその勢力を増し、袁紹が公孫瓚を倒せたのも蹋頓の協力があったからであったと言われている。

袁紹の息子達の中で唯一生き残った袁尚は蹋頓のもとに亡命をした。

曹操は烏桓討伐軍を組織したが、張遼は「我々が動けば劉表は劉備をしてその背後を狙ってくるのではないでしょうか?」と危惧を示した。

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それを聞いて郭嘉は「劉表は自らが劉備を使いこなせる器だとは思っていないため、重用することはなく、我々は安心して軍を進めることが出来ましょう」と言った。これまた郭嘉が言うのなら安心だという空気が流れ、曹操軍の士気はより一層上がることになる。

当初曹操軍は武装歩兵を中心とした編成であったが、郭嘉はこれを見て「兵は神速を尊ぶもの、軽兵で昼夜兼道で出撃し、奇襲をかけるべきでしょう」と進言、その通り張遼に命じて奇襲をかけると烏桓軍はこれに対処できず、蹋頓はこの白狼山の戦いで捕えられ、曹操軍は大勝利を得ることができたのであった。

しかし当の郭嘉はこの遠征に身体がついていけず、わずか38歳でこの世を去ることになった。

これを聞いた曹操は「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」と言って大いに嘆いたという。

後に曹操は孫権・劉備連合軍に赤壁で敗北した際、「郭嘉が生きていればこの敗戦はなかったであろうに…」と大いに嘆いた。実際に郭嘉がいれば、赤壁での敗北はなかったかも知れない。

個人的な郭嘉の評価

軍師としての能力は、三国志どころか長い中国の歴史の中でもトップクラスであろう。純粋な能力は荀彧や荀攸に並ぶ。

しかし郭嘉の伝は荀攸や荀彧とは並ばず、程昱・董昭・劉曄・蒋済と並んでいる。これは郭嘉は能力には優れていたが、素行があまりよくなったためで、陳羣などはこれをよく注意していたという。

曹操も優等生タイプではなかったので、荀彧よりも郭嘉の方が馬が合ったのであろう。三国志を書いた陳寿も謀略に優れた策士であったが荀攸と違って徳がなかったとしている。

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陳寿には好かれなかったが羅漢中には好かれたようで、郭嘉は曹操陣営としては珍しく演義による改悪がない。曹仁なんか散々だったのとは対照的である。

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これは多分、三国志演義では劉備陣営を善玉とするため曹操を悪役とする必要があった訳だが、元々素行のよくない郭嘉はそのまま悪役として使えるので変更する必要がなかったからではないかと思う。

それはそれで酷い話だが…