開元の治の功労者!張説(ちょうえつ)に見る政治の難しさについて

「上品に寒門なく下品に勢族無し」という言葉が表すように、中華文明は長らく少数の貴族が政治を支配してきた。

その流れに待ったをかけたのが中華史上唯一の女帝であった則天武后である。

彼女は門閥貴族を廃し、科挙によって実力のある者を採用し、地位に就けた。

今回は庶民階級から科挙の合格を経て出世し、玄宗皇帝の右腕となった張説という人物について見て行こう。

 22歳で科挙試験に首席合格

張説が17歳の時、唐の皇帝である高宗が死んだ。

則天武后の息子である中宗が即位したものの、皇后である韋后が自らの一族を要職につけ始めたため則天武后の怒りを買い、中宗は廃位、代わりに弟の睿宗を即位させ、則天武后はこれを傀儡として政治を行った。

則天武后は自分に否定的な門閥貴族を廃し、科挙による官吏登用試験の合格者を重用する政策を打ち出し、天下にその人材を求めた。

唐が建国されて数十年、仮に二世三世が政治を行えば国が衰亡したことであっただろう。それは現代日本の政治を見ればよく分かる。

張説はわずか22歳で科挙試験に首席で合格した。現代で例えるなら国家総合職試験をトップで合格し、かつ医師国家試験と司法試験にも合格するぐらいのことであろうか。張説はそのレベルの天才中の天才なのである。

ただ、張説が名門ではなく寒門(平民生まれ)であったことは彼の人生に生涯付きまとっていくことになる。

左遷

張説はさっそく則天武后によって重用されることになるが、さっそく事件が起こる。

英明で知られる則天武后も、寄る年波には勝てなかったのか、張易之・張昌宗という佞臣を寵愛しており、これらの人物は則天武后の死を極度に恐れていた。

当時の唐では張易之・張昌宗兄弟とその他の宰相が敵対しており、魏元忠を始めとした宰相がこれを弾劾している時期であった。

兄弟は先手を打って魏元忠に謀反のたくらみありとして則天武后に讒言をした。

その際、兄弟は張説に証言させた。兄弟からすれば後ろ盾のない張説は自分たちに有利な証言をすると踏んでいたのかも知れない。

しかし科挙試験という儒教の理解を問う試験に合格した人物を見誤っていた。張説は魏元忠に謀反の意志はなく、無実が妥当であるという主張を展開したのだ。

結果はどうなったか?

張説は魏元忠と共に流刑になってしまった。

則天武后を手放しで名君と言えない事情がこの辺りにある。

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張説が首都長安に帰れたのは二年後のことで、この間に宰相の張柬之がクーデターを起こし、兄弟を切って捨て、則天武后に退位を迫ったのだ。そのすぐあとに則天武后は亡くなり、中宗が再び大唐帝国の皇帝に即位した。705年の年末のことであった。

玄宗皇帝の右腕

707年、張説の母が死んだ。則天武后により母の喪が3年と決められていたので、張説はそれを守り、素直に喪に服していた。3年が過ぎ、彼は兵部侍郎という国防に関する要職に復帰した。

この間の宮廷の騒動には大変なものがあった。

政治は中宗の皇后である韋后が実権を握り、邪魔になった夫を毒殺し、幼帝を即位させ自らの傀儡にしようとしていたのである。しかし計画はうまく行かなかった。英明で知られる中宗の甥(睿宗の三男)李隆基が韋后に対してクーデターを起こしたのだ。

李隆基は韋后とその妹を切って捨て、その父である睿宗が再び皇帝になった。

この功により李隆基は三男ではあったが皇太子となり、張説は侍読として李隆基の傍らに仕えることになる。

さて、睿宗が再び皇帝になった訳だが、彼はもとより政治には興味がなく、長年則天武后の傀儡に甘んじていた人物である。今度は則天武后の代わりに妹の太平公主が政権を握ることになった。

この人物、則天武后の秘書ともいわれるほど有能であり、一連の事件の裏には必ずこの人物がいると言われるほどであった。

張説はそのような状態の中、睿宗に対し李隆基を摂政にすることを提案し、睿宗はそれを受け入れ、712年、自らは退位すると皇太子に位を譲った。玄宗皇帝の誕生である。

玄宗となった李隆基であったが、政治の実権は叔母である太平公主が握っていた。重臣もほとんどが太平公主の側につき、数少ない味方である張説も長安から洛陽に配置換えをさせられてしまう。

これではいそうですかと引き下がる張説ではなかった。ひそかに玄宗に使者を送り、佩刀を献上した。つまりクーデーターを起こせという意味である。

713年、玄宗皇帝は太平公主派の宰相を誅殺し、太平公主自身も都を逃げ出したが三日後に死亡。この際、太平公主に関する記録は抹消されたらしく、現代でも彼女のことはよく分かっていない。

張説は再び都長安に変えることが出来、中書令に就任することに成功した。中書令とは三省六部のトップであり、現在で言うところの総理大臣に一番近い地位と言えるだろう。

門閥貴族の妬み

中書令となった張説は半年もたたないうちに罷免となり、地方へ左遷となってしまう。この背景には門閥貴族の嫉妬があったと言われており、特に則天武后の時代から宰相を務める姚崇(ようすう)との確執があったという。

事実この姚崇が亡くなった瞬間に張説は長安に戻り宰相に就任しているぐらいだ。

ちなみに左遷された先での張説は主に突厥部族との交渉の任にあたり、「義をその心に幹事て乃ち安んず」と言われるほど突厥部族の信頼を得ることに成功。それでも突厥がタングート族と組んで唐に攻め込んできた時には兵を率いてこれを撃破することに成功している。このことから張説は軍事的にも才能があったと言えるだろう。

都に帰ってきた張説は玄宗に泰山での「封禅の儀」を提案し、実際に儀式を行うのだが、この際名門貴族たちを参加させなかったために恨みを買い、この儀式の後再び失脚してしまう。

張説自身かなり感情を露わにするような人物だったようで、門閥貴族たちからの攻撃が止むことはなかったようだ。彼は貴族たちに対抗するため自分に味方する人物を集め徒党を組んでいたようだが、その中にはあまり良い人物とは言えない人間もいたようで、「術師を招いて祈祷をしている」という告発を受けてしまう。実際に彼の取り巻きの中には賄賂を平然と受け取り、祈祷を行う者もいたようで、その立場はかなり危ういものとなる。

反面張説に反発する勢力は武川鎮軍閥からの流れを組むものが多く、宇文氏や王族である李氏などがいた。これらの仲介役となったのが宦官の高力士という人物で、張説は中書令を罷免されたものの謹慎処分だけですんだ。もしこの宦官がいなければその身は危うかったであろう。

729年には謹慎が解け、再び中書令に復帰しており、翌年の12月に亡くなっている。

享年64歳。

個人的な張説の評価

派手な功績はないが、ある意味歴史を変えた人物である。張説がいなければ玄宗は早々に排除されていた可能性があり、良くも悪くも唐の歴史は大きく変わっていた可能性がある。

また、彼の存在そのものが則天武后の行った改革の結果をあらわしており、保守派と改革派という人類普遍の二派の対立を表していると言えるだろう。

そのためか守旧派の代表であり、保守派であった歴史家司馬光からの評判は悪く、資治通鑑いおいて彼に対しては「才智あれど賄賂を好む」という評価をしているが、張説自身が賄賂をもらっていたというのは事実無根であると言われている。

張説の時代では門閥貴族に屈した形になったが、これ以降は科挙試験合格者が門閥貴族よりも力を持ち、政治の実権を握るようになる。張説は官僚が政治の実権を握ることへの端緒を開いたと言えるだろう。

しかし結局はこのことが党争を激化させ、唐を衰退させたとも言うことができ、官僚組織が肥大化しすぎた唐もまた、ローマ帝国の末期のように硬直化し、結局のところ軍事的に弱体した結果朱全忠や突厥によって滅ぼされることになる。

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ローマ帝国、中国諸王朝、絶対王政、そして現代日本。歴史の流れにおいて、官僚の肥大化を阻止できた国は一つとしてない。