ミトリダテス戦争とミトリダテス6世の生涯について語るぜ!

f:id:myworldhistoryblog:20190301183921j:plain山川の教科書や用語集などには「ミトリダテスの反乱」という記載がされているのだが、ミトリダテスはそもそもローマに隷属していた訳でもないのでやはりミトリダテス戦争とした方がいいだろう。

今回はギリシャ世界とローマ世界が直接的にぶつかったミトリダテス戦争について見て行こう。

 ミトリダテスマーニュの半生

「アレクサンダー大王」という名称には違和感がないと思うが、例えばジョン大王という呼称には違和感があると思う。

大王を表す言葉はキングではなくマーニュなので、後に出てくるカールなんかもカール大帝もしくはシャルル・マーニュという呼称で呼ばれるようになる。

ミトリダテスも自らアレクサンダー大王に倣ってミトリダテスマーニュを名乗っていたようだ。

ギリシャ世界におけるミトリダテスの影響力はすさまじく、紀元前1世紀におけるギリシャ世界の覇者はこのミトリダテスと言っても良いだろう。

母から命を狙われた幼年期

ミトリダテス6世はポントスの地にてミトリダテス5世の子供として生まれた、いわば生まれついての王であった。

ポントス王国は黒海に面した小アジアにある国で、アレクサンダー以来のギリシャ文化を色濃く受け継いだ土地と言え、文化レベルで言えばローマよりも上だったと言ってよいだろう。

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ミトリダテス6世の母親であるラオディケは教養のある女性で、ミトリダテス6世も幼いころより英名だったという。

6世が12歳の頃父親であるミトリダテス5世が亡くなり、6世が跡を継ぐことになる訳だが、幼かったためか母であるラオディケが王国の政治を執り行うようになる。

ここまではよくある話であるが、伝承によれば母親に命を狙われ数年間荒野をさまよった後母を打倒し名実ともに国王になったという。

個人的には本当かよと思ってしまうエピソードがある。

古今東西子供に殺される親は大量にいても母親に殺された息子というのは世界史にも思いつく限り例はない。ネロみたいに母親を殺してしまう息子はいるけれども。

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とにもかくにも王位についたミオリダテスはその野心を露わにする。

周辺諸国への侵攻を開始すると瞬く間にそれらを制圧していき、ローマの同盟国であったビュティニアとの争いが起こったところからミトリダテス戦争は始まる。

第一次ミトリダテス戦争

ローマ側としては同盟国であるビュティニアが攻撃を受けたためギリシャに兵を派遣したということになるが、これはそもそもローマが挑発するように仕向けたという意見もある。

ローマ側によればミトリダテス6世は小アジアに住むローマ市民8万人を惨殺したということになっているがどうなんだろう。

どちらの信憑性が高いかはわからないが、ローマとミトリダテスの間で戦争をしたことは事実である。

これはローマとギリシャとの闘いとも言え、小アジアやギリシャ世界の覇権をかけた戦いという風にも見られるであろう。

結論から言えばローマの圧勝だった。

まるで相手にならないほどの差での圧勝だった。

まぁ、相手も悪かった。ミトリダテス6世が戦ったのはローマ歴代でも5本の指に入るほどの名指揮官スッラであったのだから。

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それでも圧倒的な差で、ギリシャ側は万単位の被害があったのに対しローマはほとんど無傷と言っても良いほどであった。

これはローマ世界がギリシャ世界を軍事的に圧倒することを表しており、ポエニ戦争においてハンニバルの考案した戦法を吸収したローマの強さであったと言えよう。

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兵力で言えばミトリダテス側は10万近く、ローマ側は3万ほどであったと言い、これだけの数の差をひっくり返した戦いも他に例はないだろうというぐらいのボロ負けである。

しかもスッラはこの時ライヴァルのマリウスがローマを占拠し賊軍となっており、満足な補給も受けられなかった状態にも関わらずである。

戦争はダルダノスの和約によって終結し、ミトリダテスもここで大人しくしておけばよかったものを・・・

第二次ミトリダテス戦争

スッラは和約を結ぶとギリシャ地域をムレナに任せて自らはローマに進軍していった。

ミトリダテスはスッラがいないなら勝てると思ったのか、ムレナとの戦争を始める。そして実際にスッラがいなければ勝てた。

この戦争の結果カッパドキアを手に入れることに成功したのだが・・・

第三次ミトリダテス戦争

スッラは死んだ。

あれほどの指揮官が出てくるのは100年に1人ぐらいの割合に過ぎない。

そう思ったかどうかは分からないが、ポントス王ミトリダテス6世はギリシャ世界の覇者たるべくローマ領ビュティニアに侵攻を開始した。

ローマ側の指揮官はスッラの腹心でもあるルクッルスで、最初はルクッルスの有利に進んでいたが、やがてミトリダテスに有利な戦況となり、戦は長引いた。

業を煮やした元老院はルクッスルを解任し、代わりにスペインを平定したばかりの若き天才指揮官ポンペイウスをギリシャに派遣した。

スッラさえいなければなんとでもなるだろうと思っていたであろうミトリダテス6世を待っていたのは、スッラさえも上回る才能の持ち主であった。

ポンペイウスは実は1度しか敗北していない。その1度も相手は世界史的英雄カエサルである。

ミトリダテスも不運だがポンペイウスも不運である。内乱の1世紀と呼ばれる時代にはスッラ、ポンペイウス、カエサルと世界史でも指折りの強い指揮官たちが次々に登場する時代だったと言える。

そんな天才にミトリダテスが勝てる訳もなく、挙句に息子の裏切りもあり、最後は自ら命を絶つこととなった。

負けてばかりの印象のあるミトリダテス6世だが、周辺諸国に対しては無双をしていたし、ローマの並の指揮官であれば撃破しているので本来は相当強かった。

彼の不運はスッラやポンペイウスと言った優秀なんてレベルじゃない指揮官たちと同じ時代に生まれてきてしまったことであろう。

母を殺した人間が最後は息子に裏切られる。

これも因果応報というべきものなのかも知れない。