春秋時代一の名君!春秋五覇が一人「晋の文公(重耳)」

斉の桓公亡き後の春秋時代をリードしたのは晋の文公で、この人物も春秋の五覇に必ず入る人物である。

 長い亡命生活

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晋と言う国は歴代にいくつかできているが、春秋時代の晋は周の成王という人物の弟である叔虞が唐という国を建国史、その息子の時代に晋という国になったという。国名は晋水という河から取られており、以降本家と分家の間で激しい後継者争いが状態化することになる。

晋の文公の時代においても激しい後継者争いが勃発しており、晋の文公の祖父である武公の時代において本家が滅亡し、父の献公は本家の生き残りを根絶やしにし、周辺の小国を次々と併合し国を強大化していくことに成功する。

英雄色を好むというが、父の献公はまさにそのど真ん中の人物であった。

彼は西方の異民族を討伐した際、驪姫という絶世の美女を連れてきて側室とし、ひたすら溺愛してしまう。

溺愛しすぎて驪姫との間にできた子供を皇太子にすると言ったから大変だ。なにせ晋の文公こと重耳は正妻との子供であったので、その子が皇太子になるとしたら命が危ない。事実長男であった申生は自死を強要させられており、次は自分の番であった。

 重耳は晋から逃げ出し、母の国である狄(てき)に亡命を余儀なくされる。

やがて献公がなくなると兄の夷吾が秦の助けを得て晋の公に就任して恵公となった(なんかややこしい)。

 恵公は即位してから六年経って未だ生き残っている弟のことが気になった。気になったというのはきにかけたのではなく自分の地位を奪うのではないかと怖れたのだ。

 事前に情報を察知した重耳は母の故郷を後にし、春秋最強の君主と言われた斉の桓公のもとへ亡命することにした。

この時54歳。秦を脱出してから12年もの歳月が流れていた。

重耳が斉に着いた時はちょうど桓公は亡くなった頃であったが、重耳は斉の公女と結婚し、すっかり斉の国に慣れてしまい、一生を斉で過ごそうと思っていたようだ。

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斉は当時の最先進国であったため、もう故郷へ帰る気を失っていたが、亡命開始より16年付き従った家臣たちはそうではなかった。彼らには望郷の念があり、無理矢理のように重耳を晋に向けてかつぎだしてしまうのであった。

斉の公女たる妻も故郷奪還に賛同し、夫を叱咤激励、遅まきながら兵を挙げることとなる。

晋の文公

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やる気になったとはいえ重耳には兵もなければ何もなかった。そこで南の大国楚を頼ることにした。

重耳の到着を楚の成王は心の底から喜んだという。しかし楚の王は人がいいだけの人物ではない。重耳に対して「手を貸したらどのような見返りがあるのかな?」と問うた。

「戦になった場合我が方の軍勢を大幅に退却させましょう」と答え、楚の王は満足したという。

この答えに激怒した楚の臣下もいたというが、楚の王は「きっと重耳を助けるのは天命である」と答えたという話もある。

ここでさらにややこしいことが起る。

晋の恵公の息子が秦の人質になっていたのだが、父の病気を理由に国外逃亡したため代わりに重耳を人質にすることを決めたのだという。

重耳一行は今度は北方の大国秦に行き、今度は秦の穆公の娘と結婚するなど手厚くもてなされることになる。

紀元前637年、ついに晋の恵公が死んだ。後を継いだのは秦から逃げ出した人物である懐公であったため、秦は晋への侵攻を開始、重耳は実に19年ぶりに祖国の土を踏むことになった。

秦は晋を破り、重耳は晋の文公となる。62歳にして亡命が終わったかと思えば今度は公になった訳である。

城濮の戦い

苦労人だけあって、晋の文公は人にやさしい政治を行った。その結果国は富み、晋はいつのまにか大国となっていた。

紀元前633年、南の大国楚が宋を攻めて首都を包囲した。宋の救援要請を晋の文公は受けることにした。

秦、斉もこれに賛同し、各国連合軍と楚との間に城濮の戦いが始まった。

この時、かつての盟約に従って文公は部隊を退却させる。借りを返した訳である。

戦いは最終的に連合軍の価値となり、楚の北進は失敗に終わり、盟約を守りかつ勝利した文公の名声は一躍広まり、晋の文公は斉の桓公に続く第二の覇者として認められるのであった。

個人的な晋の文公への評価

春秋一の名君というべき存在であろう。

在位期間は8年間と非常に短かったのもあるが、その治世は善政で知られ、楚の強大化を阻止し、晋を春秋最強国家まで押し上げた功績は文句なしである。そのドラマチックな人生は春秋時代の主人公の一人とするに相応しい。

三国志の英雄曹操は文公に対し「斉の桓公・晋の文公が現在まで名声を残しているのは、その強大な軍事力をもってなお周王朝に仕えたからである」と述べており、その名声が約800年後になってもまるで衰えていなかったことがよく分かる逸話となっている。

晋の文公は諸侯会議を開催する際必ず盟主たる周を建てたと言い、「尊王攘夷」の語源となったともいわれている。

つまり晋の文公は19世紀の日本にさえ大きな影響を与えた人物であると言えるだろう。