春秋時代一の人格者!楚の荘王(熊侶) 「鳴かず飛ばず」や「絶纓の会」「鼎の重さを問う」の故事で有名な名君の生涯について

斉の桓公、晋の文公と共に確実に春秋五覇に入るのが楚の荘王という人物で、前二人が「公」となっているのに対し今回は「王」となっている。

これは前二者が周王朝の権威を尊重して王にならなかったのに対し楚は中原より遠く周王朝の権威が及んでいないことを示している。

 鳴かず飛ばず

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一般的な中国のイメージは非常に広大だが、この頃には当然の如く「中国」という概念はなかった。

歴史と言うのは常に後代から見るので現在的感覚で見がちだが、周という国は中国を統一した王朝というより、中原を中心として諸侯の連合体とみるべきであり、楚はその連合体の構成要員という訳ではなかった。

なので先述したように周と同格を表す「王」を使うし、後に始皇帝が作った秦という国に最も反発したのが楚であり項羽であったとも言える。

殷や周、その後の各中華王朝が黄河流域であるのに対し、楚は長江流域の国で、恐らくは民族そのものや文化、言葉さえも違ったのではないかと言われており、楚の国の人は自分たちを「夷狄」であるととらえていたようだ。「我は蛮夷なり。中国の号には与らず」という言葉は楚の国を表す言葉であるとして知られている。

実際、始皇帝が中国を統一して無理矢理のように書き言葉や度量衡を統一しなければ、フランスやドイツのような国家に分裂したヨーロッパのようであったことだろう。始皇帝が如何に世界の歴史を変えた人物であったかがよく分かる。

楚が王号を使用するようになったのは紀元前706年のことだと言われており、その後代々楚の国の君主は王を使用し、楚の荘王の時代に大幅にその勢力を拡大していくことになる。

荘王の父穆王は父である成王の軍団を包囲し、父を自殺に追い込んで自ら王として即位した人物で、軍勢を北に向けてその勢力を拡大した人物であった。

ちなみに晋の文公を保護したことでも知られる成王は最後に好物のクマの手を食べたいと言ったが無視されて失意の中死んだと言われている。

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父の代で楚はすでに黄河の流域まで領土を広げていたと言われており、穆王が死んだ後すぐに荘王は即位している。

しかし荘王は即位すると酒に美女にうつつを抜かし、全く仕事をしなかったという。

部下が憤慨して「ある鳥が3年鳴かず飛ばずでした、一体何という鳥でしょう?」と聞くと荘王はこう答えたという。

「三年飛ばないが飛べば天に至るだろう。三年鳴かないが、泣けば人を驚かせる」

このやりとりは「鳴かず飛ばず」として故事成語になったほどで、実際に3年が経つとまるで別人のように国政に取り組み、周辺諸国家を併合しながら北進し、ついに周の首都の洛陽(当時は洛邑)にまで軍勢を進めることに成功した。

問鼎

洛陽まで迫った荘王は周の使者に向かって周の象徴たる九鼎の重さを聞いた。これは楚に九鼎を持って帰るという宣言に他ならない。使者は毅然とした態度でこう答えたという。

「問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無である。周の国力は衰えたとはいえ、鼎がまだ周室のもとにあるということは、その徳が失われていないことの証に他ならない」

これを聞いた荘王は楚に帰っていったという。

このことは「問鼎」や「鼎の重さを問う」という故事として残っており、権威を疑うことという意味の故事成語となっている。

この部分の解釈は難しいが、荘王が未だ周王朝の権威は無になった訳ではなく、まだ滅ぼすべきではないと判断したのだろう。仮にここで周を滅ぼせば、他の全ての国が敵になってしまうことを恐れたのではないかと思う。

この後楚は北の大国晋との激しい戦争状態に突入し、邲の戦い(ひつのたたかい)にて晋の軍を大いに破り、荘王は名実ともに覇者となったのであった。

絶纓の会

ある時、宴を開いている際灯りが消えたことがあり、その暗闇に紛れて妃の唇を奪った者がいた。妃はそのものの袖を破っていたために灯りがつけばその狼藉者が誰かわかると主張したのだが、荘王は灯りをつけることをしなかったという。そして宴の参加者全員に袖を破るように言った。

それから幾星霜、楚は秦との戦いのさなかにあった。

 その戦いにおいて死に物狂いで戦う男の姿が荘王の目に留まった。武将は休むことなく戦い続け、ついに根も尽き果てようとしていた。

荘王はその武将のもとにかけよってなぜそんなに必死になって戦うのかを問うた。すると蒋雄という武将は「これで絶纓の会での恩返しができました」と言って笑って死んだという。

紀元前591年、荘王は息を引き取った。

個人的な楚の荘王への評価

荘王は後代の人物からの評価が頗る高い。

周王朝を理想とする儒教からでさえ評価が高く、荀子は荘王を春秋の五覇に選んでおり、当時風習となっていた京観(死体を積み上げる行為)をしなかったとして評価している。

いくつかの故事成語に見られるように大変優れた人格者で、政治的にも軍事的にも春秋一級の人物だと言えるだろう。