反骨の相はコジツケ!「魏延」の生きざまからリーダーに必要な資質を見る

その実力の高さは認められながら裏切り者のイメージの強い魏延

その実態はどのようなものだったのか?

今回は反骨の相を持つ魏延についてくわしく見ていこう!

 劉備が大好き反骨の相

歩く人間吸引機こと劉備玄徳は会う人会う人皆魅了されていく。

最大のライバルの曹操ですら魅惑されてしまうのだから、その魅力に抗える人物などいない。

魏延なんてまだ見てもいないのに劉備オタクみたいになっていた。

そんな魏延が劉備に会えるチャンスがやってきた。

そのころの魏延は劉表に仕えていたが劉表が死んでしまって次男の劉琮にそのまま使える感じとなった。

曹操から攻められて新野を追われた劉備が劉表の子供を頼ってやってきた。魏延の胸は高鳴った。憧れの劉備玄徳に会える。

そう思っていたのに実質的に実権を握っていた蔡瑁は劉備を歩く災いとして頭上から矢の雨を降らせて追い返してしまう。

魏延はこれに激怒して城門を開こうとするも文聘によってそれを阻止され、そうこうしているうちに劉備はどこかへと消えてしまっていた。しょうがないので長沙を守る韓玄の下で仕事に励む日々。

そんな魏延に神は微笑んだのか、再び劉備玄徳に見えるチャンスがやってきた。

劉備が長沙攻略に訪れたのだ。

韓玄がなんかわちゃわちゃと劉備様と喧嘩をしているのを見て、まどろこしいの嫌いな魏延はさっさと韓玄の首を以て開門し、劉備への土産とする。

初めてのお目通り、どんな言葉をかけてもらえるかワクワクしていた魏延だが、劉備のそばに控える軍師諸葛孔明は魏延を見るなり一言。

「反骨の相が出ています。殺しましょう」

焦る魏延だったが、劉備は自分を慕う者は何でも受け入れる性格、魏延が配下になるのを認め、これを重宝する。

ちなみに反骨の相というのは後頭部が出っ張っていることを指す言葉で、これがあると主君を裏切りやすいらしい。実際韓玄のことも裏切っているしな。

呂布のような例もあるけれど、魏延は劉備に関しては忠誠を誓っていて、そこに反乱を起こすなどと言う考えは一度もなかったようだ。

 魏延はスタンドプレーが過ぎることがあり、そのことで味方を危機に陥らせることが多々あった。同僚であった黄忠からも処刑すべきという声があがったが、劉備は魏延に対して文句が出るたびに「ワタシだから魏延を扱えるのだ」と言って妙に鼻高々だった。

ある意味その通りで、やはり劉備は天下人としての器だったのだろう。

劉備がいなくなると魏延を扱える者はいなくなってしまった。

馬超、黄忠、張飛、関羽、蜀の主要な将軍たちは死んでしまい、残った趙雲と魏延は蜀の大事な柱となった。

孔明の南蛮遠征の際にも付き従い、なんだかんだ言いながらも勝利に貢献する。

北伐の際にも同行し、敵将である王双を打ち破る活躍を見せ、山頂布陣をした馬謖の命を救ったりと蜀に魏延ありといったところを見せつけたが、命令無視を繰り返し、相変わらずスタンドプレーが目立つ存在だった。

酷い時には敵をおびき寄せるための囮に使い、敵軍もろとも焼き討ちにする計画を孔明が立て、それが雨で実行不能になるというほど仲たがいが酷くなり、やがて孔明が亡くなったことでその最後の蓋が外れてしまう。

孔明は死ぬ際に自分の後継者として楊儀・費禕・姜維らを選び、魏延には楊儀の下につくように命じた。

後継者となった者たちは北伐をあきらめ、軍を撤退させた。これを不服に思った魏延は楊儀の部下になることを拒否し、南下する楊儀に対して北伐の続行を主張、それが退けられると両軍は戦闘状態になった。

楊儀は孔明の遺言書に従い魏延に向かい「誰か俺を殺せる者がいるか!と言ったら漢中を与えよう」と魏延に向かって叫んだ。

魏延がその通り「誰か俺を殺せる者がいるか!」と叫ぶと、背後から馬岱がやってきて「ここにいるぞ!」と言ってこれを切り殺したのであった。

思うに、魏延のエピソードをみるにつけ諸葛孔明はやはり英雄の器ではなかったのだなと思う。

劉備と孔明、全てにおいて孔明の方が優秀に見える。

しかし、結局劉備は英雄の器で、軍をまとめる才覚があったのだ。漢の高祖である劉邦同様、将の将たる将であったのだろう。

 孔明は劉備のように優秀な将軍たちをまとめる力がなかった。楊儀と魏延の仲の悪さを知っていながら魏延に謀反を起こさせこれを排除する計画だったのだろう。

 それは確かにうまく行ったが、代わりに蜀の軍勢を指揮する者がいなくなり、魏の攻略は絶望的になった。

 個人的に孔明に高評価をつけたくない理由はこの辺りにある。

正史での魏延

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正史における魏延の初登場シーンは劉備の入蜀に従った場面である。劉備は魏延の活躍を認めて牙門将軍に任じており、次のシーンは漢中を制した後漢中の守りに張飛ではなく魏延を任命したので周りがびっくりしていたという話が残っている。

このことから劉備が魏延をかなり高く買っていたのがよくわかる。なにせあれだけ苦労して手に入れた漢中という最重要地点の守りを任せている訳で、魏延の方も喜んで以下のような言葉を残している。

 「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来たならば、大王のためにこれを防ぎ、曹操配下の将軍が10万の兵でやって来るならば、これを併吞する所存でございます」

劉備が夷陵の戦いに負けた後は鎮北将軍にまで昇進しており、趙雲とほぼ同格の扱いだと言って良い。

劉備が亡くなった後丞相となった孔明に従い北伐に参加、周りの人間が魏延を将とすべきと言っているにも関わらずお気に入りの馬謖を将にして敗北している。

なお孔明による南蛮遠征は三国志演義による創作で、当然魏延に拠る活躍もない。

その後は北伐において費耀・郭淮と言った将軍を破っており、あの戦の天才司馬懿にも勝利を収めている。

演義同様魏延は高慢な性格であったようで、他の幕僚と仲が悪く、特に楊儀との相性は最悪で、魏延は度々楊儀に剣を突き付けて脅していたようである。

孔明は自分が死んだら撤退するように後継者たちである楊儀・費禕・姜維らに伝えていたが、魏延が反対したとしても構わず撤退するように伝えていた。

孔明の読み通り魏延は北伐の中止に異を唱え、途中の橋を落とすなどの行動に出る。その後は成都に上奏文を送り楊儀が謀反を起こしたとした。楊儀の方は魏延が謀反を起こしたという上奏文を出し、董允・蒋琬が楊儀の方が正しいと主張したので魏延は賊軍となる。

魏延の許からは兵士が離散し、楊儀が馬岱を派遣すると戦う兵もなく敗れ去り戦死したようだ。

魏延の首は楊儀に送られ、それを見た楊儀は「馬鹿め、もう一度悪さができるものならやってみよ」といってそれを踏みつけたという。

このような小物しかいなくなった蜀の命運は、当然の如く滅びの道となる。

もはや蜀には、英雄と呼べるような人物は1人もいなくなってしまったのだった。

個人的な魏延の評価

性格的には難がある者の、軍事的な才は確かで、劉備が見抜いた通り張飛にさえも劣るものではなかったのであろう。

実際に魏延を扱えるのは劉備だけで、孔明の器では扱いきれなかったようだ。

魏延の才は劉備あってのものだったが、孔明の才もまた劉備あってのものであったと言えるだろう。

楊儀のような小物を後継者にするあたり、孔明の器が知れるというものである。

蜀は人口も経済力も他2国に比べ遥かに劣っていた訳であり、そのまま人材の質が国の命運を決めたと言える。

そのような状況で上手く人材を使いこなせなかった孔明を英雄とするのは個人的には賛同が出来ない。

対して曹操は、人材の育成に力を入れ、魏国の礎を築いた。

もはや器が違うというべきであろう。

陳寿の言う通り、魏延には謀反の意思などなかったのだろう。

「魏延の心意を推測するに、彼が北へ行って魏に降伏せず、南に帰ったのは、楊儀らを除こうとしたからにすぎない。そうすれば、普段は自分に同調していなかった諸将も、諸葛亮の後継者として自分を望むようになるに違いないと期待していた。魏延の本心はこのようなものであり、謀反を起こそうとしたのではない」

陳寿が魏延の最期の行動について述べた部分であるが、魏延は魏延なりに蜀の将来を考えていたのではないかと思う。

部下の承認欲求をいかに満たすか、それもリーダーに求められる資質の1つであろう。

その点孔明はリーダーに向いた性格ではなく、劉備や曹操はやはりリーダーに必要な資質を備えていたというべきなのだ。

人をいかにうまく使うか、魏延の生きざまを通して我々はそれを学ぶことができるのではないだろうか?