蜀漢の名将!燕人「張飛翼徳」の戦いに満ちた豪傑人生について

「俺は張飛だぁ!文句のあるやつはかかってこい!文句のない奴もかかってこい!」

三国志に出てくる人物の中で、本場中国では張飛が一番人気があるらしい。

三国志を書いた陳寿が元々蜀の出身だったこともあり、三国志の話は古来より漢王朝の末裔である劉備玄徳が善玉で、漢を滅亡させた魏およびその後継である晋は悪玉であったと言っても良い。

元代や明代になるとその傾向は加速し、羅漢中によって三国志演義が書かれた時には張飛は完全に主役の1人となっていた。

今回はそんな張飛の話。

ちなみに張飛の前につく「燕人」というのは、燕の国の人と言う意味で、張飛の出身地の琢県一体を中国では伝統的に燕と言ったことに由来するのである。

 劉備、関羽の弟として流浪の旅に出る

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豹の頭に虎の髭、身長は優に2mを超え、声はまるで雷のようによく響く。

劉備が立て札の前で泣いている時、声をかけたのが張飛だった。

劉備は天下が大変な時に自分は一体なにをしているのだろうと言って泣いていたが、張飛もそれを見てもらい泣きし、ともに黄巾賊を討とうという話になった。そこへ赤ら顔の関羽も合流し、三人は翌日桃園にて義兄弟の契りを結ぶことになる。

誰が兄かを決める際、木を登って決めることになった。

張飛は得意になって頂上まで一気に昇る。

「一番上まで一番早く上った俺様が長兄だな。玄徳なんか木の下から一歩も動いてねぇじゃねぇか」

「うむ。だから私が長兄だ。根があってこそ枝や葉が伸びる。」

これに関羽も賛同し、張飛も笑ってそれに賛同した。

張飛はこのように猪突猛進だが素直なところのある男で、一事が万事、劉備や関羽の言うことは基本的に聞いた。

2人と共に黄巾賊討伐の兵を挙げ、持ち前の武勇をもって敵をなぎ倒し、敵将である鄧茂を一刀のもとに伏せる活躍を見せる。

その活躍で劉備が県尉に任命されるも役人は劉備に意地悪をして会おうとせず、腹を立てた張飛はその役人を木に縛り付けて叩き始める。慌てた劉備や関羽に止められるというエピソードは大変有名だ。

その後董卓が都の覇権を握ると各地の群雄は反董卓連合を結成、劉備もそこに参加する。

激しい戦いの中虎牢関の戦いにて関羽と呂布の戦いが始まると強敵が好物の張飛とついでに劉備もそこに加わると打ち合うこと100合、さすがに劣勢になった呂布が退き、勝負は引き分けに終わる。

反董卓連合が解散になると劉備に従って各地を転戦、袁術との闘いでは名将紀霊を打ち破る活躍を見せるも曹操との闘いにおいて三兄弟は離散、関羽は曹操に降り、劉備は袁紹の許へ、張飛は山賊となって各地を荒らしまわっていた。荒らしまわっているうちに一人の少女と会い結婚。この娘はどうやら魏の名将夏侯淵の娘であったらしい。

やがて曹操の許を離れた関羽を見つけると突然斬りかかり、ワーワーわめきながらも関羽に説得される。張飛は関羽が劉備を裏切ったと思ったらしい。その後袁紹の許を去った劉備と合流し、一路荊州にいる劉表の許へ行くのであった。

劉表の許で劉備がくすぶっていると、徐庶という人物と出会う。徐庶の言葉に従うと今迄勝てなかった曹操軍に勝てるようになったが、曹操の計略により徐庶は母を人質にとられてしまい泣く泣く曹操のもとへ下った徐庶が、最後に言い残した言葉は伏龍を訪ねよというものであった。

伏龍鳳雛いずれか得る者あらば天下はその者の手になるであろうと言われる伏龍の正体は、諸葛亮孔明という名の若者であった。

劉備は自ら赴くも2度会えず、3度目になっても会おうとしない孔明に張飛は腹を立ててこう言い放つ。

「こうなったらこの家燃やしちまおうぜ!」

劉備は慌てて張飛を諫め、孔明の家の前で待ち続け、ついに諸葛亮を自らの陣営に迎えることに成功する。

その後の劉備は孔明にべったりであった。

そのことが張飛は気に入らない。

ある日劉備は張飛に言う。

「私と孔明は水と魚のようなものだ。魚は水がないと生きられないのだよ」

そう言われて納得してしまうあたり張飛の性格が出ていると言える。

長坂橋の仁王

劉表が死ぬと、劉綜が後を継ぐ。

そのタイミングを見計らって圧倒的な兵力をもった曹操が荊州への侵攻を開始した。

劉綜は早々に降伏し、残された劉備の軍勢ではまるで歯が立たず、劉備は逃亡を決意するのだが、領民たちは皆劉備を慕ってついてくる。

領民たちを連れての行軍は遅く、たちまちのうちに曹操の軍勢に追いつかれてしまう。

その数100万。

圧倒的な軍勢を前にした張飛は、橋の前にたった1人で仁王立ちになって稲妻のような大声で叫ぶ。

「我張翼徳、死にたい奴だけかかって来い」

そのあまりの迫力に、100万の兵が止まった。

誰一人その仁王の化身に立ち向かう者はなく、将兵は次々に逃げ出す始末。

かつて関羽が曹操の許にいた時、常々「張飛はワシよりも強い」と言っていた。

曹操陣営で誰も勝てなかった顔良や文醜をいとも簡単に倒した関羽より強い張飛。

その張飛が今、ものすごい形相でこちらを睨んでいる。

その迫力に、誰も抗えなかった。

張飛の活躍もあり劉備と領民たちは無事に逃げおおせることが出来たのであった。

益州攻略・漢中攻略戦

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孔明の活躍で呉と同盟を結び、赤壁の戦いにて曹操を撃退した後の劉備は荊州を制圧し、次の狙いを劉章の治める益州に定めた。

益州の攻略において張飛は老将厳顔を破る活躍を見せる。

 捕えられた厳顔は「殺すならさっさと殺せ」と張飛を睨みつける。張飛は例によって激怒するも厳顔は顔色一つ変えず「殺したいならさっさと殺せばいい、何を怒ることがあるのか?」と問われ、この厳顔のことが気に入ってしまう。

張飛は厳顔の縄を解き、手厚くもてなしたという。

やがて劉備が益州を平定するすると、漢の高祖(劉邦)が力を蓄えたという漢中の争奪戦に加わることになる。

当時漢中を治めていたのは五斗米道という道教の教祖張魯で、その時身を寄せていた神威将軍馬超と張飛は一騎打ちをすることになる。

蛮族さえもその名を聞けば逃げ出す馬超との一騎打ちは一昼夜に及び、互いに決着がつかなかった。

やがて張魯は曹操に降伏し、漢中の守りには名将夏侯淵と張郃の2人によって守られることになる。

劉備軍は漢中をかけて2人の将軍と戦い、張郃を破る活躍を見せる。

張郃は劉備軍を大いに苦しめた存在で、劉備は後に最も恐ろしかった敵として張郃の名をあげ、諸葛亮孔明も魏で最も警戒すべき敵として名を挙げているほどである。

やがて漢中王となった劉備は張飛を右将軍に任命され、劉備が蜀の皇帝になると張飛は車騎将軍に任命されることになる。

三兄弟の最期

荊州を守っていた関羽が死ぬと、劉備と張飛はかたき討ちのために呉に向けて進軍を開始した。

諸葛亮や趙雲と言った重臣は「本当の敵は呉ではなく魏です」と忠告したが、劉備と張飛は聞く耳を持たない。

張飛は兵を集めて劉備に合流することを約束し、その途中で部下に暗殺された。

劉備は張飛死去の報を、聞く前から感じており、急使がやってきた瞬間に「あぁ、張飛が死んだか」と嘆息したという。

そのすぐ後に劉備は陸遜に敗れ、失意のうちにこの世を去ることになった。

かくして桃園で義兄弟の契りを結んだ3人は死に、その生きざまは後世まで語り継がれる伝説となったのであった。

正史における張飛

というのは「三国志演義」の張飛である。

ここからは史実における張飛の生きざまを見て行こう。

正史における張飛は他の蜀の面々に比べると脚色が少なく、演義とそれほど変わることはない。

少し違うところは、県尉として任命された劉備を無視した役人を木に縛り付けたのは張飛ではなく劉備であるという点と実際には馬超との一騎打ちがなかったことぐらいである。

つまり曹操の大軍を前に大声で立ちはだかったのは本当であり、それに曹操軍がビビってしまって動けなかったのも本当である。

一番嘘っぽいところが本当なのが三国志の世界だと言えるのも面白い。

張飛の娘はやがて劉禅の妃となり、夏侯淵の息子の夏侯覇が蜀に亡命してきた際優遇されたのはこのためである。

個人的な張飛翼徳の評価

中国の武侠小説には張飛を模したキャラクターが良く出てくる。

勇名なのが水滸伝に出てくる豹子頭林冲と鉄牛であろう。

林冲は横山水滸伝だとイケメンっぽいが、原作では張飛に模した姿形をしており、キャラクター面では鉄牛が近い。

中国人が好む、性格は単純で猪突猛進、乱暴だが情や義に厚く、大酒のみで涙もろい性格をしていて、日本でも当然のように人気が高い。

俺自身も三国志の中で好きな人物上位に入る。

ただ日ごろから部下に乱暴をする癖があり、結果的にそのことが彼の運命を決めてしまった。

その豪傑ぶりは後世にまで伝わり、豪傑が出てくるたびに関羽や張飛よりも強いのかどうなのかと言われるほどになり、今では中国の長い歴史の中でもトップクラスの猛将として知られている。

根っからの武人で、政治などには興味がなく、とにかく暴れまわるのが好きだが素直で憎めない、実に人間らしくて魅力的な武将である。