三国志演義最大の被害者!実は敗戦のない「曹仁」は三国志最強の指揮官かも知れない!

日本人がよく知る三国志は明代に羅漢中という人物が書いた「三国志演義」をベースにしている場合が多く、これは陳寿の書いた「三国志」をもとにして作られた創作である。

三国志演義は劉備玄徳を主人公とする勧善懲悪もので、懲らしめられる悪はライヴァルの曹操であり、劉備の建てた蜀は善玉、曹操が基礎を築いた魏は悪玉として描かれる。

そのため蜀の面々は実際よりも遥かにゲタを履かされ、逆に魏の面々は敵役なので実際よりも遥かに悪く書かれることになった訳だが、その演義最大の被害者と言えるのが曹操の従弟「曹仁」であろう。

先に言っておくとこの曹仁、演義では負け戦ばかりなのに正史だと敗戦が記録されていない。しかも相手も劉備や関羽、馬超といった三国志でも最強の面々であって、実は三国志の登場人物の中でも最強なんじゃないかという気さえする。

今回はそんな「曹仁」にスポットを当てたいと思う。

まずは三国志演義の曹仁から見て言ってみよう。

 三国志演義の曹仁

演義での曹仁登場は反董卓連合が結成された際に従兄弟である曹操の許へ曹洪とともに駆けつけるシーンからだ。

演義では毎回のように曹操の戦に参戦しているものの、しばらくは名前が出るだけで大した活躍はしていない。

曹仁が初めて活躍するのは呂布との闘いにおいてで、曹操とは別動隊を率いて小沛をまもる呂布を打ち破るのに成功している。

けれども基本的にはやられやくで、徐庶を得た劉備治める新野を攻め、得意の「八門金鎖の陣」を敷くものの徐庶に見破られ趙雲の前に敗北、その後孔明を得た劉備を再び攻めては今度は孔明の前に敗北。

その後は周瑜との闘いに一端は勝利するも結局は計略にはまり領地を失ってしまったり、馬超との闘いに出向くも曹操を諫めるだけで特に活躍はしなかったりする。

それでも関羽との闘いでは徐晃とともにこの撃退に成功しており、その後は特に言及もなく、いつのまにか死んでいたことが少し触れられるだけである。

三国志演義での曹仁は純粋なるやられやくで、徐庶や孔明の引き立て役になってしまっている。

では、それを踏まえて実際の曹仁はどうだったのか?

正史での曹仁の活躍を見てみよう!

正史三国志の曹仁

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曹仁は曹操の従弟であるが、実は血のつながりはない。

曹仁の祖父曹褒と曹操の祖父曹騰は兄弟なのだが、曹操の父曹嵩は曹騰の養子であるため夏侯淵夏侯惇と違い、曹仁とは同性で一族なのだが血のつながりはないのだ。

この点は知らない人の方が多いんじゃないかと思う。

 そのためか曹操も曹仁よりも夏侯惇、夏侯淵を優遇している部分はある。

若い時から武勇に優れ、狩猟や馬術、弓術を好み、近隣の若者1000人あまりを連れて曹操が挙兵した際にこれに従っているのが正史での初登場シーンだ。明確な時間描写はないけれど、多分反董卓連動の前後ぐらいだと思われる。

董卓との闘いの際の記述はないけれども、袁術戦で大活躍した描写はあり、かなりの数の敵を倒したり捕虜にしたようだ。

その後徐州の陶謙攻めの際にも大活躍しており、陶謙側の将軍であった呂由という武将を打ち取る活躍をしており、騎馬隊を率いて陶謙軍を散々に打ち破ったという。

呂布との闘いにおいても劉何という将軍を打ち取り、敵の拠点も制圧し、呂布討伐において重要な役割を担っている。

張繍征伐の際には曹操とは別動隊を率いて近隣を制圧し、曹操が張繍の強襲を受けて散々に敗北し、弱気になっていたところを助け、張繍軍を見事に打ち破る活躍をしており、その様は「獅子奮迅の活躍」と記述されているほどである。

ここまで負けなし。

え?地味だって?

曹仁が倒した連中など誰も知らん!

そういう人も多いでしょう。

でも曹仁は、袁紹との闘いにおいて袁紹側の将軍となっていた劉備玄徳を散々に打ち負かしていて、袁紹側が曹操陣営の兵站を攻撃した際にはこれを撃退し、袁紹側の将軍韓荀を打ち取り、そのまま袁紹側の輸送車を襲い食料を焼き払う活躍を見せている。

曹操が敵の関を攻めている時も、曹操は「皆殺しにせよ!」と言って攻めていたのを諫めて、「包囲戦では生き延びる道を用意するのが上策、さすれば敵は降伏するでしょう。ここで無駄な時間と労力を使う必要はありません」と言って諭し、実際に敵軍はこの後すぐに降伏している。

荊州を攻めた際には周瑜と対峙し、部隊長の牛金を派遣するもこれが部下と共に捕まってしまう。

曹仁の周りは牛金のことは見捨てましょうと進言するも曹仁は自ら手勢を率いて突撃し、見事敵軍を撤退させることに成功、周りの人間は曹仁に対し「本当に将軍は天上のおかただ」と言って絶賛したという。

続いて涼州で暴れまわっていた神威将軍馬超との闘いにも参加しており、馬超の軍を打ち破る活躍をも見せている。

そして最後は荊州を守る関羽との闘い。

関羽が攻めてきた時、河の反乱によって一帯がビショビショになってしまっていて、樊城を守っていた于禁の軍は身動きが取れずに関羽に降伏してしまった。

関羽は船で城を包囲し、曹仁は食料が尽きてしまいそうになるピンチに陥った。しかも援軍も来ない。

されど曹仁は悲観することもなく兵士たちを鼓舞し、兵士たちは持ち直し、誰も関羽に降伏しようという者はいなかったという。

やがて徐晃が援軍を率いてやってくると水も引いていたので、外から徐晃、内から曹仁の攻撃を受けて関羽は撤退せざるを得なかった。

220年、曹丕が魏の文帝として皇帝になると、曹仁は建国の功臣として大将軍に次ぐ地位である車騎将軍に任命され、領土も与えられた。

曹丕は弟の曹彰に「大将となって法規を遵奉すること、曹仁のようであらねばならぬ」と言って諭したという。

車騎将軍となった曹仁は対呉戦線に投入され、223年、56年の生涯を閉じた。

曹仁の評価は高く、曹仁の武勇はいにしえの武将にひけをとるものではなく、張遼はその次に位置するとさえ言われた。

張遼はその名を出せば赤子が泣き止むとさえ言われた将軍で、それ以上の評価を与えられていることが、曹仁への何よりの評価と言ってよいであろう。

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個人的な曹仁への評価

曹操が攻めた各勢力の有力武将を打ち取っており、実際に勝利した相手も劉備、馬超、周瑜、関羽と一流どころばかり。

それらの名将と戦って負けなしというのに、曹仁の評価は低めである。

これは羅漢中による部分が大きいであろうし、曹操自体がやはり血のつながりを重視して、夏侯惇や夏侯淵を優遇したことや、名家出身の荀彧や荀攸を高く評価していたからなのではないかと思う。

曹仁は本隊を率いていた訳でなく、遊撃手として別動隊を大体の戦いにおいて率いている。そして常に勝利をおさめ、魏という国の基礎を築いた。

これほどの人物は三国志はもちろん中国史にも珍しく、派手さはないが実は歴史的な活躍をした指揮官としてもっと評価されるべき人物であろう。