スーパー軍師「徐庶元直」の華麗な活躍と実像

三国志の中でも特に俺が好きなキャラクターの1人であるのが諸葛亮孔明、龐統に次ぐ劉備陣営第三の軍師である徐庶元直だ。

今回はそんな徐庶の話。

 徐庶・ザ・スーパー軍師

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徐庶は若いころは無頼者だった。

生まれは貧しく、若いころは悪さばかりしていて、ある日ついに国の役人に捕まってしまった。仲間のことを尋問されるも徐庶は一切口を開かず、やがて仲間が徐庶を取り返すことに成功した。

熱き友情に感激した徐庶はもう他人に迷惑をかける生活は辞め、天下泰平の世のために働こうと決意。剣を捨て学問を志すことにした。

されど当時の漢帝国は名士社会。寒門(生まれが貧しいこと)の徐庶では受け入れてくれるような私塾はなく、また出世も見込めなかった。

やがて門地に関わりなく学べる私塾があると聞き、徐庶は荊州へと足を運び、そこで「水鏡先生」と綽名される司馬徽のもとで学び始める。

やがて徐庶の前科を聞きつけた役人たちがやってきたので、徐庶は名前を「単福」と名乗り、木を隠すなら森とばかりに新野の街に紛れ込む。

時を同じくして劉備玄徳は太守として新野に赴任していた。

「髀肉の嘆」の故事で有名なように、劉備は腐っていた。荊州は平和だったが、しばらく馬にも乗っていない。すっかり肉もついてしまった。自分はこんなことをしている場合なのだろうか・・・

そんなくすぶりを抱えたある日、劉備は水鏡先生の元を訪ねた。

劉備は今の自分の境遇を話、思っていることを全て話したが、水鏡先生は「好きかな好きかな」と言うばかり。さすがの劉備ももう失礼しようかと思ったその時、水鏡先生は突如「臥龍か鳳雛を探しなされ」と真顔で言った。

「臥龍?鳳雛?それは人の名前なのですか?」

その後劉備が何を聞いても「好きかな好きかな」さすがの劉備も帰ってしまった。

天下のためにはと劉備はひたすらに臥龍と鳳雛を探すも全くラチがあかないある日、水鏡戦線のところに来客があったという知らせを聞き、劉備はこっそりとその人物のあとをつけさせる。

「あなたが臥龍と呼ばれるお方ですか?」

劉備はその人物に突然そのような声をかける。

「まさか、臥龍は私など足元にも及ばないほどですよ」

それを聞いた劉備はこの人物こそ臥龍だと確信してしまう。

「よろしければあなた様のお名前を」

「私は単福と申します」

そういって去って行こうとする徐庶をなんとかかんとか引き留め、自分の陣営に引き込んでしまう劉備玄徳。

徐庶も劉備の大徳には勝てなかったのか自分の身の上話をつらつらと。単福というのは偽名で本名は徐庶であると語り、劉備もすっかり徐庶を気に入ってしまった。

なんてことをしている間に曹操軍がやってきた。今回の敵は曹操の従弟が1人曹仁の配下である呂曠と呂翔という2人の将軍に率いられた5000人の兵士。

対して劉備側は2000の兵士。これらは関羽、張飛がなんとか追い払ったが、続いて曹仁が副将李典と共に25000の兵士を率いてやってくると城内は大慌て。劉備はもう逃げ出すしかないと言ってパニックになる。張飛は戦う気満々だが、関羽は冷静に新野は捨てるしかないと判断、撤退の準備をし始める。

そこへニコニコしながら現れたのが徐庶だった。

「皆さん、何を慌てる必要があるのです?曹操軍は所詮烏合の衆、兵士など500もあれば十分でしょう」

徐庶のこの発言に関羽は大きなため息を、張飛は憤慨して今にも斬りかかろうとする勢い。そもそも呂曠と呂翔が攻め込んできた時、この男は何もしなかったではないか。

しかし劉備は喜んだ。ついに臥龍の力が見られる。ついに負けっぱなしだった曹操軍に勝てる。

劉備はすぐに趙雲を読んで徐庶の言う通りにさせた。

曹仁は曹操軍旗揚げの時から参戦している歴戦の名将。相手が寡兵と言えどもあなどるということはしなかった。劉備軍は兵力こそ少ない物の、関羽・張飛という剛の者がいる以上、最善を尽くすべき。そう考え八門金鎖の陣を引いた。

八門金鎖の陣の陣はまさに必勝の陣で、これをもって曹仁は数々の戦を征してきた。死角はない、8つの門にて本陣を守り、攻めてきた勢力を悉く叩き潰す。

徐庶は一目その陣を見るや趙雲に東南の方角より突撃するように指示。

趙雲がその命に忠実に従うとなぜか曹仁の敷いた陣は完全に崩壊し、25000の兵は悉く混乱、気が付けば撤退していた。

しかし撤退した先には関羽が兵をもって待ち構え、これを散々に追撃してしまう。

さかのぼること数刻前、徐庶は関羽に兵を率いて待機しているように告げた。

関羽は呆れかえってしまった。なにせ、趙雲の軍よりも関羽の率いる軍の方が多いぐらいだったからだ。もしも敵がその気になって城へ攻めてきたら誰が劉備を守るのか?そもそも呂曠と呂翔が攻めてきた時には何もしなかったではないか?

徐庶はニコリと笑い「あの時は関羽将軍がいましたのであれぐらいの兵力差なら私の出番はないと思っておりました。さすれば今回は私の兵法をお見せいたしましょう」と。劉備も関羽に徐庶の従うように指示をする。

かくして徐庶は曹仁を大いに破り、関羽も徐庶の働きを認めるようになっていた。

程昱の罠

曹仁の敗北を聞いて、曹操は憤慨するよりも喜んだ。

劉備のもとにはそんな素晴らしい軍師がおるのか。是非欲しい。

さすがは人材コレクターである。

「誰かその軍師をワシのもとに連れてこられる者はおるか?」

その呼びかけには曹操軍の軍師程昱(ていいく)が応えた。

やがて徐庶のもとに一通の手紙が届く。

それを見た徐庶は劉備に向かって「曹操の許に行かねばならない」と語る。

聞けば徐庶の母親は現在曹操のもとにいるという。簡単に言えば人質である。

劉備はこれを聞いて徐庶に餞別を渡す。

徐庶涙して言う。

「臥竜の本当の名前は諸葛亮孔明、彼の許を訪ねなされ」

劉備は徐庶の手を固く握り、そして見えなくなるまで見送った。

やがて徐庶が母に会うと、徐庶の母は激怒した。

「なぜ玄徳様の許を去ったのですか!私はあの不出来な息子が真の名君に仕えたと聞いて誇りに思っていたのですよ。それが…」

次の日徐庶の母は自らの手で命を絶ってしまった。

連環の計を見抜く

徐庶は曹操に仕えたが、劉備に義理を感じ、一切の献策を行わなかった。このあたり実に義理堅い。

やがて時は経ち、曹操と孫権・劉備連合軍との闘いが始まろうとしていた。

曹操は水軍の要である蔡瑁を周瑜の策略で失うと、その挽回策を求めて龐統の献策を取り入れる。

それは、船と船を鎖で結ぶという策であった。

龐統は献策が済むと旅立っていったが、船に乗り込む際背後から声をかけられる。

「貴様の狙い、知っておるぞ」

振り向けば徐庶であった。

2人はともに水鏡の許で学んだ同門であった。

龐統は笑い、徐庶も笑った。

徐庶の読み通り、劉備と孫権軍は船に火を放ち、曹操軍は鎖のため逃げられなくなってしまい、天下統一は遠のいた。

わずかな間しか仕えなかったものの、徐庶にとって生涯劉備のみが主君であったのだろう。

正史での徐庶

俺は徐庶が好きなので、本当はここで終わりにしたい。

演義での活躍と正史での活躍に、最も差のある人物の1人が徐庶である。

正史での徐庶は全く活躍していない。

曹仁との闘いが徐庶の見せ場だが、このような戦いは実際にはなかった。

そもそも曹仁は正史では一度の敗北が記録されていない名将で、ゆえに徐庶の活躍は演義の創作である。

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これを知った時の俺のガッカリ具合たるや、ご想像いただけるだろうか。趙雲と徐庶、俺の好きな人物はなぜこうも実像と虚像がかけ離れているのか・・・

徐庶が若いころ無頼で、捕まったのを仲間に助けられて以来学問に打ち込んだのは本当で、やはり家柄はかなり悪かったようだ。

司馬徽の私塾で諸葛亮孔明と共に学び、孔明は徐庶を州刺史か郡の太守ぐらいにはなれる器と評している。これは徐庶を良く評価しているのかどうか難しいところだ。

実際に徐庶が劉備に仕えたのは本当で、かつ徐庶が諸葛亮を紹介したのは本当。なお「三顧の礼」は演義の創作ではなく正史に記録が残る実際にあった話である。

曹操との戦いに劉備が敗北した際に徐庶の母親が捕まってしまい、徐庶は曹操に寝返ってしまう。

演義では一切曹操の許では働かなかったことになっているが、実際の徐庶は曹操のもとでそれなりに出世し、右中郎将・御史中丞というなかなかの位に就いている。生まれの悪さを考えればかなりの出世と言える。この部分は本来、門地などを気にせず適材適所に優秀な人物を配した曹操を評価すべきであろう。

漢王朝は徹底的な門地主義、貴族主義で、三国志で活躍した人物たちはほとんどが漢建国時からの貴族である。

曹操は夏侯嬰の末裔だし、劉備は言わずもがな、荀彧なんか荀子の子孫だ。出世システムの推薦制度であったため、有力者の推薦がなければ出世できないシステムであったのに、よくそこまで出世したものだなぁと。

とはいえスーパー軍師徐庶としては、そこそこ出世して終わるというファンとしてはなんとも言い難い微妙な活躍である。

ちなみに徐庶は結構長生きしたらしく、曹操の孫の曹叡の時代まで生きていたらしい。

演義でも正史でもその最後がどのようなものであったかの記録はない。

光栄の三国志では知力が96を越え、セガのゲーム三国志大戦では雷を落としていた徐庶だが、実際の活躍は非常に地味なものであった。

そのような人物を見事スーパー軍師として描いた羅漢中の描写能力とキヤラクター造形は世界の歴史においてもトップクラスであると思う。

徐庶の活躍において、誠に評価されるべきは三国志演義を作った羅漢中の筆力なのかも知れない。