魏国建国期の筆頭軍師!荀攸の活躍が実はすごかった!!

優秀な人物の多かった曹操陣営の中でも特に優秀だったのが荀彧と荀攸の2人であろう。

荀彧は荀攸の従子だが、荀攸の方が6歳上で、ともに漢の名門荀家の出身である。

 演義よりも正史の方が遥かに功績の多い傑物

f:id:myworldhistoryblog:20190406200714j:plain

このブログでは三国志の登場人物においては演義での活躍を書いてから正史での活躍を描くのが常であって、それは演義はそもそも正史をベースにした創作なので、ある意味演義のキャラクターというのはダースベイダーとかインディ・ジョーンズのような架空のキャラクターのようなものだからという事情がある。

三国志演義での荀攸の活躍を誰か語れるであろうか?

実は三国志演義では荀攸はほとんど活躍していない。それゆえに影の薄いイメージがあるが、正史における荀攸の活躍はエスパーなのではないのかというほどのレベルとなっている。

幼いころより才気煥発であった

荀彧や荀攸の出た荀家においては曹操の出自である夏侯家よりも名門で、漢の最高職である三役を何人も輩出していて、袁紹率いる袁家に匹敵するほどの勢いがあった。

荀家は春秋戦国時代に名をはせた荀子の末裔で、その中でも特に荀彧と荀攸は評判が高く、祖父の荀曇が亡くなったのち、墓参りをしたいという人物がおり、荀攸はその者の様子から何かあると判断、実際に親族が調べてみるとやはりその人物は殺人犯であった。

また、酒に酔って叔父が荀攸の耳を傷つけてしまった時の話、荀攸はそれをずっと隠して行動していた。そのことであとで気づき叔父は荀攸の才について感嘆したという。

このように評判がよかったので、何進が大将軍になった際には荀攸を招いて官職についている。

演義では地味なイメージがあるかも知れないが、荀攸はかなりの行動派で、董卓が都で暴虐の限りを尽くすと荀攸は董卓暗殺計画を立て、それが露見したことで逮捕・投獄されてしまう。

共犯者であった何顒という人物はもはやこれまでと獄中で自殺をしてしまうが、荀攸はどこ吹く風で食事をする際にも泰然自若としていたという。まさに鋼のメンタルである。

刑が執行される前に当の董卓が呂布に殺されたため荀攸の命は助かり、そのまま蜀の地の太守として任官されたものの道がふさがっており代わりに荊州に滞在していた。どうやらその後は無事に蜀の太守の任に就けたらしい。

曹操軍筆頭軍師

曹操が献帝を擁し許昌に都をおいた際、荀攸に手紙を送り汝南の太守に任命し、尚書の役職に就けた。

曹操は荀攸と始めて会談した後大満足したらしく「公達(荀攸の字)は並々ならぬ人物だ。私と彼がともにことを計ることが出来れば天下に何を憂うことがあろうか」と言ったことが伝えられており、荀攸のことを軍師としたという。

曹操の軍師というと筆頭は郭嘉のイメージがあるだろうが、実際には荀彧と荀攸が筆頭軍師で、荀攸の活躍は三国志演義においては郭嘉に置き換えられているところが多い。多分だがこれは最大のクライマックスである赤壁の戦いを盛り上げるためではないかと思う。

軍師となった荀攸は張繍征伐に随行し、張繍は劉表と手を結んでいて強いが、やがて仲たがいするのでその時を待つのが良いでしょうと進言、曹操はそれを採用せずに張繍を攻めたが荀攸の言う通り大敗し、息子や忠臣であった典韋を失っている。

この敗戦には曹操も相当堪えたのか荀攸に対し「君の言う通りにしておけばよかった」と言っている。

次に呂布を攻めた時も中々攻めきれなかった曹操が撤退を考えた際これに反対し今攻めなければ呂布は力を取り戻すと進言、曹操はこれを採用し三国志最強の武将である呂布を倒すことが出来た。

この際河の水を使って城壁を破壊したためか某三国志ゲームにおいては水計の使い手として登場する。

曹操最大のライバル袁紹攻めの時にも荀攸は大いに活躍し、白馬の戦いにおいて顔良や文醜を実際に破ったのは正史においては荀攸とされる。

三国志における天下分け目の戦い「官途の戦い」においても袁紹軍の兵糧部隊である淳于瓊強襲を進言したのは荀攸であり、その人選として徐晃を推薦したのも荀攸である。そして同時に袁紹軍であった許攸が兵糧部隊の正確な一情報をもって曹操軍に寝返り、この作戦は成功、兵糧の尽きた袁紹軍は戦闘の継続が不可能となり、勝者は曹操となった。

荀攸のこの作戦が成功しなければ兵力などの観点から勝者は曹操ではなく袁紹となっていたであろう。

これほどの活躍をしたのに演義では郭嘉と関羽にその活躍を完全に取られてしまったのは不憫だと言える。

官途の戦いに際して袁紹軍であった張郃と高覧が曹操の許へ馳せ参じたが、これを曹操の従弟の曹洪は軽んじていた。それを荀攸が諫めて両者の間を取り持ったというエピソードもある。

その後曹操は劉表を攻める訳であるが、この際後ろにいる袁紹の息子達の勢力が気になっており、どちらかに味方しようかと思案していた。荀攸はこれらを気にする必要はないと進言、理由は袁紹の息子達はお互いに憎みあい牽制していれば勢力を拡大することはできないが、どれかの勢力に味方をすれば残りが力を合わせて強大になってしまうからであるとした。

かくして曹操は荀攸の作戦通り、劉表や袁紹の息子達を撃破することに成功し、華北の地をその手中に収めたのであった。

生前、曹操は漢王室に対し上奏した文において荀攸を以下のように称賛している。

「荀攸は当初から私を補佐し、あらゆる征伐に従軍いたしました。前後に渡る勝利は全て荀攸のおかげでございます。」

また別の機会には以下のように言っている。

「忠義公正。緻密な策略をよく立て、国の内外を鎮撫した者としては第一位は文若(荀彧)ついで公達(荀攸)であろう」

紀元214年、孫権征伐に向かう際、病気により荀攸はこの世を去った。

享年58歳、曹操は荀攸の死を思い出してはそのたびに涙していたという。

個人的な荀攸の評価

羅漢中は荀彧や荀攸を気に入っており、賈詡のことを「おがら」荀攸のことを「夜光珠」という宝石に例えた。

当代においても最高の評価をされ、後代においても評価は高いが、なぜか三国志演義ではその活躍をはく奪されてしまったせいで日本ではどうしても地味なイメージがつく。

しかしその実態は三国志一の名軍師と言われる諸葛孔明を上回るものであり、荀彧と共に三国志時代を代表する軍師だと言えるだろう。

その判断は常に正確で、荀攸の言う通りに行動をして敗戦をしたことがなく、曹操の言う通り常に軍の勝利に貢献していた。

このような人物が一人いればどのような組織でも安泰というものであろう。

荀彧や荀攸のような優秀な人物がいたのだから、曹操が天下の半分以上を手中にできたのも必然であったと言えるだろう。

もちろん、袁紹のように部下の言うことを受け入れない君主ではなく、曹操が臣下の言うことをきちんと採用してくれる人物であったことが大きいのだが。

名軍師に英雄に、それでも天下統一できなかったのは、同じような英雄と軍師がこの時代に何人も現れたからであろう。

やはり三国志の時代は歴史上でも稀有な英雄乱立時代であったと言える。

その中にあってもなお、荀攸の活躍はその第一級にあると言って良いだろう。