魏の初代大将軍!隻眼の将「夏侯惇」の活躍を見よ!

曹操は元々楚漢戦争の際に活躍した夏侯嬰の子孫で、父の代に後漢の有力者であった宦官曹騰の養子となった。

夏侯惇はそれゆえ曹操の従弟にあたり、曹操の最も信頼している部下で、漫画「蒼天航路」などでは曹操四天王として大活躍をしている。

今回は隻眼の大将軍としても知られる夏侯惇について見て行こう!

なお、読み方であるが、かこうとんとかこうじゅんの両方があり、このブログではかこうとん読みを採用したいと思う。

 曹操の片腕

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曹操はその挙兵の際、あるいはその前から従兄弟である夏侯惇、夏侯淵曹仁曹洪を特に重用しており、中でも夏侯惇への信頼は抜群であった。

董卓と戦った際には曹操があわや徐栄に殺されそうになった時にはこれを危機一髪救い、陶謙を相手に徐州に侵攻した際には最重要拠点濮陽の地の守りに任じられていたり、曹操の死後において魏の忠臣20名を祀った際にはその筆頭に数えられたほどである。

曹操死後、息子の曹丕が魏を建国すると初代大将軍に任じられ、軍事においては最高司令官の地位に就いたことからも、曹操一家への貢献度が伺われる。

そんな夏侯惇のイメージと言えば「隻眼の大将軍」であろう。

曹操が呂布を攻めた際、呂布の将高順を一騎打ちで破るとこれを深追い、伏兵にあい左目に矢が突き刺さってしまう。

すると夏侯惇はこれを引き抜き「これぞ父の精、母の血、無駄にするなど言語同断!」と言って矢を引き抜きこれを食べてしまう。

とにもかくにも獰猛な将軍で、曹操の許を去った関羽を見ると、通行証を持っていないとみるやいきなり襲い掛かり、劉備を攻めた際には諸葛孔明の読み通り深追いし敗北してしまうなど猪突猛進な性格が伺える。

曹操の最期を看取るが、その際には曹操が殺した人たちの怨霊を見てしまい、夏侯惇自身もその後すぐに亡くなってしまう。

正史での夏侯惇

三国志演義においては蜀の陣営が優遇されていることもあって魏の陣営の活躍が抑えられる傾向にあるが、夏侯惇もその例外ではない。

新野にいた劉備軍を襲って孔明の引き立て役になったこともなければ関羽と一騎打ちをしたこともない。

残念ながら関羽の見せ場である五将を破るは演義の完全なる創作で、ましてや夏侯惇はその最後の番人ではない。

ただ、演義だと高順は夏侯惇の敵ではないような書かれ方がするが、実際には夏侯惇は高順の陥陣営の前に敗れ去っている。

ある意味演義の一番の被害者はこの高順かも知れない。

他には新野には攻め入っていないが博望坡の戦いの戦いにおいて劉備を一旦は撃退したものの、追撃して伏兵を受けており、李典に救出され一命をとりとめている。

演義ではかなりの暴れっぷりを見せてくれているが、実際の夏侯惇は演義よりももっと暴れ者で、若いころ先生について学問をしたが、その先生を侮辱した男がいたので殺害にいたるという現代社会だったら絶対に許されないようなことをしている。

他にも、曹操陣営では夏侯惇と夏侯淵を区別するために夏侯惇のことを盲夏侯と呼んでいたが、夏侯惇はこの綽名を嫌い、鏡の前に立つたびに隻眼の自分に腹を立て鏡をやっていたという。

対立した部下を拘束してしまうこともあり、実際の夏侯惇も演義の激しい性格そのままだと言える。

ちなみに正史には夏侯惇が目を負傷したという記述はあるものの隻眼になったという記述はないが、綽名から考えるにやはり隻眼だったのだろうと思われる。

 呂布との闘いの際には敗北して人質になってしまい、韓浩という武将によって救われており、この際韓浩は人質としていた賊をもろとも切り捨て、曹操がこれを聞いて今後の国法にしたという話もある。

ちなみのこの韓浩と典韋は夏侯惇が推挙した人物で、ともに曹操陣営を支えた人物となっている。

呂布相手には敗戦を重ねたが、曹操の信頼が揺らぐことはなく、車への同乗や寝室への入室などが許されており、魏公となった曹操は夏侯惇を与えず、夏侯惇のことは最後まで臣下ではなく同格の人間として扱ったという。

夏侯惇は武芸一辺倒という訳ではなく、戦場においても講師を呼び寄せて勉強をするぐらい熱心で、土木事業などの内政面でも功績があり、文武両道の武将と言えるだろう。

史実においても曹操亡き後曹丕が魏を建国した際には大将軍に任命されており、その後すぐに亡くなっている。

勇猛で暴れん坊だった夏侯惇だが、最後は無事に畳の上で死ねたようだ。

悲惨な死に方の多い三国志の登場人物の中でも、良い死に方の出来た人物の1人だと言えるだろう。

個人的な夏侯惇の評価

ある意味演義よりも正史の方が勇猛だが正史よりも演義の方が強い武将かも知れない。

それでも曹操の陣営において果たした役割は大きく、魏の建国にはなくてはならぬ存在であったであろう。

百戦して百勝する武将ばかりが国に必要だとは限らない好例であろう。

呂布などは強かったが、やはり滅びるしかなかった人物である訳で、夏侯惇のような人材が国家運営にはどうしても必要なのである。