魏から蜀へ!悲劇の将軍「夏侯覇」について!

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前回は魏の名将夏侯淵について書いたのでせっかくだから息子の夏侯覇についての記事も書こうと思う。

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夏侯覇については某ゲームで変な仮面をかぶっているせいか変態のイメージがついてしまっているけれど、実際にはかなりの苦労人だったのだよ。

 父の仇である蜀を誰よりも憎む

曹操の親戚であり若き日の盟友であり妻が姉妹であり魏の功臣20選にも選ばれるぐらいの名将である夏侯淵の次男として夏侯覇は誕生した。

魏の功臣でもある父のことを夏侯覇はきっと誇りに思っていたに違いない。

紀元219年、父である夏侯淵は蜀の将軍である黄忠によって殺されてしまった。

正史魏書によれば夏侯覇は常に蜀に仕返しがしたいと思い「切歯扼腕」していたという。切歯扼腕とは司馬遷の書いた史記に語源がある言葉で、歯ぎしりをしながら腕をつかむほど悔しいという意味であるらしい。

兎に角蜀が憎かったようで、若い時から対蜀戦線に参加していて、命からがら逃げ延びたということもあったらしい。

夏侯覇はかなり優秀な人物であったようで、右将軍を経て征蜀護軍に任命されることになる。ようやくこれで蜀に復讐ができると思ったかどうかは知らないが、都では司馬氏がクーデターによって曹爽が誅殺される事態になり、しかも自分と日ごろから仲の悪い郭淮という人物が征西将軍に任命されたので、危機を感じた夏侯覇は劉禅をたよって蜀に亡命することを決意する。劉禅の妻は蜀建国の功臣張飛の娘で、張飛の妻は夏侯覇の従妹であったのだという。あれほど蜀を憎んでいた夏侯覇が蜀を頼らざるを得なくなったのは運命の皮肉だと言えるよなぁ。

途中道に迷って飢えのため乗っていた馬を食べなければならないぐらいまで追い詰められたけれどなんとか蜀にたどり着くことができたらしい。

劉禅は夏侯覇を迎えると「そなたの父は戦陣で命を落としたのであって朕の父が殺したわけではないぞえ」などと言い訳がましく弁解したらしい。なんで劉禅が弱気なんだ?って疑問はさておき夏侯覇は歓迎され爵位を賜ったというところで魏書による記述は終わっている。

魏略では車騎将軍にまでなったと記載されているので、蜀の中でもかなり出世した存在だといいだろう。人材不足だった蜀では結構厚遇されていたようだ。

その後は姜維と共に魏の武将を撃破したという記述があるのみで、八面六臂の大活躍とはいかなかったようだが、そこそこ活躍はしたようである。

三国志演義での夏侯覇

 史実は夏侯淵の次男だが蜀びいきの演義のせいか長男になっている。仁王立ちで有名な張飛によって川に突き落とされるぐらいで目立った活躍はなく、蜀に亡命した後に姜維の北伐に参加し、命を落とす。

残念ながら史実同様あまり活躍はしなかったらしい。