春秋の五覇といいつつ候補は八人いる。
その中で確実に入るのは2人、斉の桓公、晋の文公、ほぼ確実に入るのは楚の荘王となっており、あとの2人は史書によって採用されている人物が違う。中国史においてよくあることなのだが、はじめに数字があってそれに誰があてはまるのかという謎なことをしている訳だが、これには大きな理由がある。
そもそも春秋時代の「覇者」というのは諸侯会議における議長のようなもので、その部分を重視すると秦の穆公と宋の襄公の二人が妥当であるが、五人の有力な諸侯という意味であれば後の二人は呉王闔閭あるいはその息子の夫差と越王勾践が入るのが妥当であろう。
今回は春秋時代特に強力な諸侯であった呉王闔閭、夫差親子について見て行こう。
呉の王位争い
闔閭を春秋の五覇に入れたくない理由としては、周王朝を差し置いて勝手に「王」を名乗ったことがあるだろう。
呉は楚と共に中原からは離れており、周の権威を認めてはいなかった。なので王を名乗った訳だが、儒教の創始者孔子はまさに春秋時代に生まれた人物で、しかも強力な周王朝フリークであった。
呉の国は中原の人々から見たら蛮族に等しく、後進国だと侮っていたところもある。
実際に呉がどのように建国されたのかはわかっていない。呉は寿夢という人物が建国した国だと言われており、寿夢には四人の息子がいた。
寿夢自体は末の息子である季札に跡を継がせたかったが、賢人として知られる彼は兄を差し置いて国を継ぐことを良しとせず、兄弟は長男から順に王位を継承することになる。やがて季札の番になったのだが、自分の番になった彼はどこかへと姿を消してしまう。
こうなると残された呉の国では誰が後継者となるかで国が分かれてしまうことになる。
結局国は三男の息子である僚が継ぐことになるのだが、これに不満を持ったのが長男諸樊の息子である光であった。
季札が王位を継承するならまだしも、王位の継承権では自分が上だ。光はそう思っていたが、実際に僚が王位についてしまったのだから仕方がない。
やきもきとして日々を過ごす光であったが、ちょうどその時楚の国から亡命してきた伍子胥との運命的な出会いが待っていた。
伍子胥は暗殺者である専諸という人物を紹介してくれた。光は暗殺者を自宅の地下に待機させ、呉王となった僚を食事に招待した。僚はもちろん警戒して護衛をつけてきたのだが、料理人に化けた専諸が焼き魚に凶器を隠して僚の暗殺に成功し、専諸もまた僚の護衛に殺害されるという結果に終わったものの、光は闔閭として呉王に就任することに成功したのである。
富国強兵と闔閭の死
闔閭は伍子胥を腹心に、孫氏の兵法書の作者としても知られる孫武と共に呉の国の富国強兵策に乗り出す。
ちなみに孫武だが、実は架空の創作なのではないかという話がある。春秋左子伝に孫武の記述がなかったり、不自然な点が結構あるので、孫武は実在しなかったという学者も多い。その場合孫氏の兵法書は孫臏という人物が書いたことになる。
いずれにしても呉は強くなった。楚を攻めてこれを降し、北の大国斉や晋とも互角の戦力を持つ大国へと成長していったのだ。
そして隣国の越の国の王が交替したことを知るやすぐに兵を向け、これを制圧する構えを見せたが、春秋一の名軍師である范蠡の策を受けた越は強く、また新たに越王となった勾践も傑物であった。
呉は大敗北を喫し、闔閭はこの時に受けた傷がもとで戦死してしまう。
臥薪嘗胆
闔閭が死ぬ前、誰が後継者になるかは揉めた。
功労者ともいえる伍子胥は夫差を推したが、闔閭は夫差は呉を滅ぼすことになると言って最後まで夫差の即位には反対していたのだが、最後の最期で夫差を後継者に指名し、息を引き取ることになった。
夫差は父の死と越に受けた屈辱を忘れないように毎晩薪の寝床で寝ることにし、毎日越への復讐だけを考えて過ごした。
三年後、夫差と伍子胥は会稽の地にて闔閭の仇をとることに成功する。
しかし越はこのことを見越しており、宰相の伯嚭に賄賂を渡しておいた。伍子胥は越王勾践を殺すように夫差に促したが、伯嚭は「大王たるもの無益に人の命を奪う必要はありますまい。器の大きさを見せれば多くのものが従うことになるでしょう」などともっともらしいことを言って夫差を説得してしまう。
かくして越王勾践は命が助かった訳だが、会稽の屈辱を忘れないように毎日獣の胆を嘗めて過ごしたという。
この一連の話は故事「臥薪嘗胆」となって現代日本にも残っている。
夫差と伍子胥の不和
越を降し父の仇を討った夫差は気が大きくなり、北の大国斉や晋との戦争に乗り出していた。伍子胥はこれに反対したが、夫差は小さな勝利をかさね、越王勾践はこの夫差の勝利に対し兵を送り恭順の意を示すとともに、絶世の美女である西施を贈り敵意がないことをひたすらに示した。
こうなると夫差は伍子胥よりも越王勾践や宰相の伯嚭を信用するようになってしまう。
夫差の遠征は確実に呉の民や兵を疲弊させていたが、夫差にはそれが見えない。
伍子胥にはもう呉の行く末が見えていた。
夫差は斉との戦いの講和の場に伍子胥を派遣した。戦に反対だった伍子胥に対して自らの戦功を見せびらかしたかったのであろう。斉に行った伍子胥は友人に自分の息子を託し、単身で呉に帰国した。
これに喜んだのは伯嚭で、この事実をもとに伍子胥に謀反の心ありとして提訴、夫差はこれを真に受け伍子胥に「属鏤の剣」を贈る。
「私の墓の横に梓の木を植えておくがいい。その木はやがて夫差の棺桶を作ることになるだろう。また、呉の城門に私の目を括り付けておいてくれ。越が呉を滅ぼす様を見たい」
伍子胥はそう言って自らの首を刎ねたという。
夫差の最期
伍子胥のいなくなった呉は急速に衰退していった。范蠡の入れ知恵もあり、越王はすぐには攻めてこなかった。少しずつ弱くなる呉を見つめながら徐々に力をつけ、じわりじわりと後を追い詰めていく。
夫差はついに勾践に降伏し、命乞いをしたが范蠡は「会稽のことは、天が越を呉に賜っていたのに呉が取らなかった。今展が呉を越に賜っているというのに越は果たして天に背いてもよいものだろうか」と言って夫差を処刑することを進言。
勾践は命を救われた負い目もあったのか夫差を島流しにして許そうとするが、夫差は自ら剣をとって「伍子胥に会わす顔がない」と言って自らの顔に頭巾を被せて首を刎ねた。
こうして呉は滅び、賄賂をもらい続けた宰相の伯嚭はそのまま呉の宰相でいられることはなく、勾践によって処刑される。
この後范蠡も命の危険を感じて越を去り、結局呉も越も楚と言う国に呑まれ、春秋時代が終わるころには影も形も無くなってしまった。
夏草や 兵どもが 夢の跡
歴史を見るに、松尾芭蕉が如何に素晴らしい歌を歌ったがよく分かる。
個人的な呉王闔閭、夫差への評価
臥薪嘗胆、呉越同舟などの故事の由来となった二人で、どちらも春秋の五覇に数えられるほどがある人物で、呉の最盛期とともに滅亡を招いてしまった人物でもあった。
結果的には闔閭の人を見る目は確かで、彼の言う通り息子の夫差は呉を滅ぼすことになってしまった。
夫差が愚かだったかと言うと春秋時代の水準で考えれば暗君でも暴君でもなく、ただ敵方の勾践と范蠡が優れていたというだけのことである。
西施にかまけて政治をしなくなったせいで呉が衰退したというストーリーを描きがちであるが、実際に呉の国力を衰退させたのは無理な北伐によるものであった。元々の国力で言えば呉が遥かに勝っていたのに、連戦に次ぐ連戦で兵も民も疲弊してしまい、政治的な分裂もあり、越に敗北した訳である。
歴史とは不思議なもので、一人傑物が出ると、それに呼応するように傑物が出てくるようになる。
闔閭や夫差がいなければ、勾践もまた歴史の表舞台に立ってはいなかったかも知れない。
あるいは伍子胥がいなければ二人とも呉王になることはなかった。
歴史とは蝶の羽ばたきのようなもので、ある事象がドミノのように倒れていき別のドミノを倒していく。
伍子胥の始めた復讐は、一度は成功するものの、呉も越も結局は楚に呑まれてしまう。楚は伍子胥にとって最大の仇であると同時に先祖代々仕えてきた国でもあった。
まったく、歴史とは不思議なものである。