馬超のご先祖様!後漢の名将「馬援」の活躍をご覧ください

三国志時代の英雄の1人である神威将軍馬超は、実はかなりの名門出身だ。

父馬騰は漢の官僚の一人であったし、その祖先を求めると「馬援」という人物までさかのぼることが出来る。

漢の名門一族として生まれ、簒奪王朝である新につかえたあと中国史上最強にして最高の名君光武帝に仕えた馬援について見て行こう!

 戦国時代より続く名門

馬援の一族は元々は戦国時代の趙の国の将軍趙奢の一族で、彼は馬服君と名乗ったのでそれ以来一族の姓が「馬」になった訳である。

古代においてこういうことがよくあって、中国ではないがポエニ戦争の時に象のような活躍をした将軍がいて、その一族はカルタゴ語で象を意味する「カエサル」を家名にすることにした。ツァーリもカイザーも、元をたどれば象という意味の単語だったのだ。

それはさておきいつしか漢王朝に仕えることになった馬一族は武帝の時代の巫蠱の獄で功績をあげることになる。

巫蠱の獄については以下の記事を見てくれればと思う。

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この時の馬氏の党首であった馬何羅は巫蠱の獄における元凶と言っても良い江充と親しかったためそこに連座されて党錮(官職に就けなくなる)となってしまう。武帝は本当に極端な政治をする。

漢王朝のもとで官職に就けなくなった馬一族にチャンスがやってくる。王莽による漢王朝皇帝位簒奪である。

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馬一族は王莽に取り立てられ、囚人を護送する任につくことが出来た馬援だが、ある日囚人に同情しこれを逃がしてしまうという事件が起こる。馬援はそのまま逃亡し、北方にて牧畜を営む生活を送る。

富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない

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王莽の建てた新という国は徹頭徹尾いい加減な国だったようで、逃亡した馬援は先祖伝来の地で堂々と牧畜を営み、そこには馬援を慕う人々が集まってきた。

馬援は集まってきた人々に金銭的な支援を施し、自らは質素な着物を着てひらすらに仕事に打ち込んだので、益々人々が馬援のもとに集まってきたのだという。

「富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない」

これが馬援の信条であったらしい。

やがて新が滅ぶと群雄割拠の世の中になり、馬援はどういう縁があったのか隗囂という人物に仕えていた。

隗囂は自ら群雄となっていたが、蜀に地にいる公孫述という人物と河北で有力勢力となっている劉秀のどちらかにつこうと思っており、馬援に探りをいれさせていた。

馬援は公孫述に会うと彼を「井の中の蛙」と判断し、次に劉秀のもとに向かった。態度が実に不遜だったのだという。

劉秀は馬援に会うと「あなたは隗囂と公孫述という偉大な二人の君主に出会っている。私など二人に比べてはるかに劣る存在で、あなたの貴重な時間を奪うことになってしまって申し訳ない」と謙遜して述べた。馬援もこれに対して「いやいやそんなことはない、あなたは素晴らしい人だ」なんてお世辞なのか本音なのかわからないことを言う。多分この時点で本気で言ったのだろうな。

馬援は劉秀の非凡さを認め、隗囂に対して、絶対に劉秀に味方すべきと説得して一緒に臣下になっている。

隗囂は破格の待遇で迎えられたが隗囂の野望は劉秀と公孫述が争っているうちに自分が天下の覇権を握る野望を持っていたため、やがて劉秀に反旗を翻し敗北している。

馬援はそのまま劉秀に仕え、隗囂が病死したあとはその残党を討伐している。

劉秀はそのまま公孫述を破り、中国を統一。再び漢帝国を復興させ、名前を光武帝と改めた。余談だが、この時代に委奴国王(わのなのこくおう)の印綬を倭国の王に与えており、これが日本史に出てくる初めての人物であり、世界の歴史に日本という国が最初に出てきた例である。

その名、後世まで残る

光武帝が再び中国を統一すると、ベトナムで徴姉妹の乱と言われる世界史の教科書にも出てくるような大反乱が起き、これを平定したのが馬援である。馬援はこの功績をもって伏破将軍に任命されている。

さらに余談だが、この記事を書くにあたって山川出版の世界史用語集を見ていたら「徴姉妹の乱」の項目に馬援が少しだけ載っていた。馬超は一切世界史の教科書に載っていないのに、馬超の方が圧倒的に日本で知名度が高いのは少し面白い。

馬援は光武帝に仕えて広い中国を東奔西走していたようであり、北方の騎馬民族である羌族の討伐にも功があり、馬援は敵でありながら羌族にも一目置かれていたようで、三国志の時代に馬超が涼州で勢力を持て、羌族との同盟を結べたのもこの馬援の活躍があったからである。

さらに言うと馬超の父馬騰は母が羌族出身であり、馬超はクォーターということになる。

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各地を転戦していた馬援だったが、光武帝からはもう年だから大人しくしておれと言われるも「ワシはまだまだやれる!」とばかりに60を越えても現役将軍としてバリバリ戦に乗り出していたが、働き過ぎたのか62歳になって病没してしまう。

馬援の死後、光武帝の側近は馬援を中傷し、光武帝もこれを信じ一度は位をはく奪するが、やがて思い直して馬援の名誉を回復させている。

個人的な馬援の評価

中国の名将で教科書に名前が載るのは珍しい。関羽や張飛でさえも載っていないのに、馬援は載っている。他に載っているのは衛青や霍去病などであり、馬援の功績の大きさがそれだけでもわかる。

もっとも、それは中国から見た歴史観であって、ベトナムから見れば長い中国支配という屈辱の始まりでもある。それはちょうど大航海時代が西欧中心の史観から見た名称であるというのと同じことであろう。

歴史とはある意味エゴとエゴのぶつかり合いの末にできたものなのである。勝てば官軍、負ければ賊軍、歴史を遺すことができるのは勝者の側なのだ。

さて、馬援であるが、文句のつけようもない名将ぶりである。

子孫である馬超は三国志演義ではその活躍が大幅に誇張されており、実際にはそれほど功績がないのだが、馬援の功績は本物で、光武帝の数いる武将の中でも一つ抜けていると言える。

中国の歴史でもトップクラスの名将と言って良いだろう。