実は知性派!?孫策と互角に戦った呉の武将「太史慈」について!

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俺的三国志武力ランキングの記事でも紹介した太史慈

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君主を除いた呉の武将の中では甘寧か太史慈が最強だということであまり異論は出ないと思うんだけど、どちらが強いかは色々議論を呼びそう。

身長は2m越えの呂布や関羽に比べると小さい180cm弱ぐらいで、弓を構えれば100発100中の腕前。

今回はそんな太史慈について見て行こう!

 実は知性派!?

流石に孔明とか司馬懿に比べて知性派ってことじゃないけれど、太史慈がそれなりに知性派であるというエピソードが2つあるのでご紹介。

1つはまだ太史慈が官吏だったころの話。意外に思うかも知れないが太史慈は元々は地方公務員だったのだ。今でいうと市役所のお兄さんだった訳だが、郡と州との間でもめ事が起こった際都に上奏しに行ったときの話、太史慈は郡の代表として行ったわけだが、先に州の代表が上奏できそうな勢いだった。

太史慈はこれはまずいと思ったのか青州の役人に対し「書類に不備がある。見せてみよ」と言って上奏文を破いてしまうのであった。

後の猛将とは思えない小狡いエピソードだが上奏には成功したようだ。ただし青州の役人には恨まれたようで太史慈は逃亡を余儀なくされた模様。

その後は孔子の子孫でもある孔融の世話になっていた時期があるらしく、彼が黄巾賊に攻められたのを知ると救援に駆け付けたのだが、管亥に率いられた黄巾賊に囲まれてしまう。

太史慈は包囲された後に毎日的に矢を射るということをやっていた。黄巾賊は始めは何事かと思い見ていたが、段々と注意を払わなくなっていった。その隙をついて太史慈は劉備のもとへ援軍を要請することに成功したのであった。

張飛だったら多分1人ででも斬り込んで行ったな。

劉繇の配下として孫策と戦う

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どうして太史慈が劉繇の所にいたのかは定説を見ない。たまたま使いに行った際にスカウトされたとか、同郷のよしみであったとかいろいろな説がある。

どちらにせよ重用はされなかったようで、原因は許子将という人物にあったようだ。

許子将と言えば人相見の天才で、曹操に向かって「治世の能臣、乱世の奸雄」という評をしたことで有名な人物なんだけれど、月に一回人物評論会をしていて、当時「月旦評」と言われて知識人の間の注目を集めていた。許子将の影響力たるや絶大で、彼が評した人物は必ず出世し、そうでないと必ず没落するというもはや預言者に近い扱いだったようだ。

太史慈は許子将には評価されなかったようで、劉繇も重用するのをためらっていたらしい。この点で劉繇を無能とするのはどうだろう?

劉繇は確かに小人物ではあったけれど、この時点での判断を誤ったとも言えない。意外にも三国志の世界は知識人の世界で、人物評というのはギリシャのデルフォイ神殿ほどではないとしてもかなりの力を持っていた。そのため劉繇が太史慈を重く用いなかったのも無理のない話なのである。

孫策が攻めてくると劉繇はとりあえず太史慈を偵察に出した。

孫策は重臣である黄蓋や韓当と一緒にいたらしいが、何を血迷ったか太史慈は孫策に襲い掛かる。

これが三国志正史に残る数少ない一騎打ちのシーンなのだけど、すぐに止めが入ったらしい。

 その後は孫策があっさりと劉繇を倒すんだけど、太史慈は武闘派君主である孫策にめっちゃ気に入られる。殴りあうことで男の友情が芽生えたのかも知れない。

劉繇がその後病死してしまうんだけど、太史慈は敗残兵をまとめてくると言い残して孫策陣営を去っていった。多くの人が太史慈は帰ってこないと言っていたが、孫策はきっと豪快に笑っていたに違いない。

太史慈は約束通り劉繇の残党を集めて孫策のもとに帰ってくるのであった。

以降は実はあまり活躍していない

三国志を魏の側から描き史実をもとにした漫画蒼天航路では太史慈の出番はほとんどなかった。

なにせ孫策との一騎打ちをピークに太史慈はあまり活躍していないのだから仕方ない。

孫策の父孫堅の仇でもある黄祖討伐の際には活躍して人材コレクターの曹操が「欲しい」と言って自分に寝返るように言ったのだが太史慈がこれを拒否したという話以外あまり活躍した話は残っていない。

三国志最大の見せ場とも言える赤壁の戦いの前に病死してしまっているのだから正史を題材にした小説や漫画での出番が少ないのは仕方がないのかも知れない。

呉書によれば「大丈夫という者がこの世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきを、その志が実現できぬ内に死ぬ事になろうとは」という言葉を残して死んだという。

乱世に生きる男として、最終的には皇帝をめざしていたということだろう。忠義の士である太史慈とは思えない最後の言葉ではあるが、人間とは時に思いとは矛盾した生き方をする者なのかもしれない。

演義では中々酷い死に方を・・・

演義でも途中までは正史と何も変わらない太史慈だが、赤壁の戦い以降も生き延びている点が違う。

合肥をめぐり張遼と戦っている最中太史慈の部下が美味しい話を持ってきた。なんでも張遼に懲罰を受けた者がいて張遼に復讐がしたいから手引きをしたいというのだ。

呉の軍師で諸葛亮孔明の兄でもある諸葛瑾は反対するのだが孫権はGOサインを出す。

三国志でもトップクラスの名将張遼がそのようなことを見透かせない訳もなく策は露呈していた。張遼はわざと部下に鎧を脱ぐように命じ油断しきったふりをしていた。太史慈がしめしめと思って向かうと潜ませておいた伏兵が矢を雨あられと降らせ太史慈は散々に敗走するのであった。

この時の傷がもとで太史慈は死んでしまい、「この世に生まれながら名も上げられずに死んでいくとは!」と言い残したところで演義での出番は終わる。