地中海を荒らしまわった大海賊バルバロス・ウルージの閃光のような人生について

「世界史」と呼ばれる一連の流れにおいて、古代世界の中心は地中海であった。

アルファベットを考案したフェニキア人やローマ帝国、7世紀に誕生したイスラム勢力など世界の中心地は地中海であったと言っても過言ではない。

古代世界においてはローマに代表されるように、地中海交易を支配したものこそが世界の覇者であったと言っても言い過ぎではないだろう。

そのような地中海交易の歴史は一方で海賊との戦いの歴史でもある。

かのユリウス・カエサルは海賊に人質に取られたこともあったし、そのライヴァルポンペイウスは海賊退治で名を上げた。

古くはヘロドトスの時代から海賊の活動は活発であり、しかしその地中海の歴史の中で最強の海賊はだれであろう?と考えた時に、恐らくはバルバロッサ兄弟こそが宋であろうと思う。

今回はバルバロッサ兄弟の兄であるバルバロス・ウルージについて見て行こう。

 レスボス島の兄弟

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地中海の各地域の領土変遷は激しい。

極東の島国である日本などはやはり領土がそれほど激しく入れ替わるということはないが、多数の民族や宗教が入り乱れる地中海においてはその支配者が変わることは珍しいことではない。

地中海に浮かぶレスボス島は1462年征服王と言われたメフメト2世によって占領された。

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正確な年代は定かではないが、後に地中海にその名を轟かせるバルバロス兄弟はその直後、1470年代に相次いで生まれたと考えられている。

彼らの父ヤクブはレスボス島を中心に交易をし、財を成したムスリム商人であり、バルバロス兄弟は幼い頃より父の船に乗り込み航海術をマスターしたものと思われる。ヤクブ死後は次男イシャクと四男ハイレッディンは父の跡を継いで商人となったが、長男イリアスと三男であったウルージは海賊へと転身した。

二人の乗る船はやがて聖ヨハネ騎士団の船と遭遇し、戦闘の結果長男イリアスは戦死、三男ウルージも捕まってしまう。

この際四男のハイレッディンは身代金を支払いウルージを解放しようとするが、ウルージは船が嵐に巻き込まれた際に隙を見て海に飛び込んで脱出、そのままエジプトのアレクサンドリアに流れ着き再び海賊団を結成する。

まるで漫画みたいな生き方だが、ウルージは四男のハイレッディンを加えて舞台を地中海当方から西方に移し、当時ハフス朝の支配下にあったチュニスに寄港、そこで略奪品の一部を献納することを条件に補給の許可と自由な港への出入りの権利を得る。

その後ウルージたちは後にナポレオンが配流されることになるエルバ島沖でローマ教皇ユリウス二世の船を拿捕し船員や積荷ともどもチュニスへ引き返した。ローマ教皇の船が大型のガレー船である一方ウルージの船は小型であったのだが、意表をついた戦略が功を奏して船はウルージたちのものになってしまい、そのことは瞬く間に地中海全体に広まり、ウルージの名前は広く知られるようになるのであった。

大海賊ウルージ

ウルージの快進撃はとどまることを知らなかった。チュニスを中心に地中海の交易船を狙い、1506年にはスペインのフェルナンド二世の船を強奪、500人いたスペイン兵共々拿捕に成功している。

コロンブスの新大陸到着が1492年で、あり、その後ピサロがわずかな兵力で南米を席巻したことを考えれば、当時のスペインが如何に戦闘に秀でていたかわかろうものであるが、ウルージはそれらスペインの船を圧倒していたのである。

ウルージはその後もスペイン戦を狙い続け、1512年には12隻の小型ガレー船1000人による艦隊を組織しアルジェリア沿岸に築かれていたスペインのベジャイア港砦を攻撃、しかし抵抗は激しくウルージは負傷、左腕の自由を失ってしまう。

その後なんとか生き延びたウルージはそのままイタリアの海洋都市ジェノヴァの船を捕獲。これが後々まで大きな問題として残ることになる。

というのも、ウルージを保護しているハフス朝とジェノヴァは航海条約を交わしており、ジェノヴァはハフス朝の許可を得て漁を行っていたからである。

ジェノバを支配するジェノヴァ元老院は、アンドレア・ドーリアを提督とする艦隊を派遣、傷の癒えないウルージはここで大敗を喫してしまい、6隻の船を失うこととなる。

しかしここでめげるようならウルージの名は大海賊として現代まで残ってはいない。

1514年、傷の癒えたウルージは再びスペインのベジャイア港砦を攻撃、攻略には至らず結局は撤退するが、1516年にスペイン王フェルデナント二世が亡くなるとその隙を突こうとアルジェの街を支配するサリームというアラブ人がウルージと共にスペイン人の追い出しを画策する。

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ウルージはトルコ人500人、小型ガレー船16隻の船団をアルジェに向かわせると自らはアラブ人の軍団を指揮し、なんとサリームを暗殺してしまう。

ここでサリームの息子はなんとか暗殺を逃れ、今度はスペインに救援を求めた。

スペインは1万を超える兵力をアルジェに派遣するが、その途中で嵐に遭い船の大半を失い、そこへ強襲してきたウルージの船団によって壊滅させられてしまうのであった。

しかしスペイン人を撃退しても首長を殺されたアラブ人は黙ってはいなかった。反ウルージを掲げるアラブ人は1万にも上り、1000程度の戦力しかないウルージ率いるトルコ人との戦いに臨む訳だが、結果はウルージ側の圧勝。

ウルージ側は兵力こそ少なかったものの、当時最新鋭であったウルヴァン砲を常備しており、その一斉射撃によって壊滅してしまったという。

ウルージの最期

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強大な武力をもったウルージのもとに、アルジェリア西部を支配するザイヤーン朝からの使者が来た。ザイヤーン朝は絶賛後継者争いの最中であり、ウルージにその協力を求めに来た訳である。

ウルージはこれを幸いと思う自らザイヤーン朝の覇権を握るべく進軍、ザイヤーン朝の軍隊を撃破するとそのままザイヤーン朝の首都であったトレムセンに入城する。

これと時を同じくして、スペイン王にカルロス一世が就任する。

世界史に詳しい方であればご存知の通り後にカール五世として神聖ローマ帝国皇帝も兼任する人物であるが、この人物が1万を超えるスペイン兵に対してウルージ討伐の命令を下した。

これを聞いたウルージは撤退を試みるも途中でスペイン軍と遭遇し、獅子奮迅の如く奮戦をしながらも部下のトルコ人達と共に悉く誅殺されるにいたった。

この戦いを生き延びたトルコ兵はただの一人もいなかったという。

享年44歳。

地中海を荒らしまわったウルージは砂漠に散ったのであった。

個人的なウルージの評価

日本を代表する少年漫画ワンピースにも「ウルージ」という名の海賊が出てきており、恐らくはバルバロス・ウルージをモデルとしたものと思われる。

現在ではウルージという発音よりも「オルチ」とされることが多いが、それはさておき一個人でありながら国家戦力にも比する戦力を持ちえた大海賊であり、弟のハイレッディンと並んで地中海を代表する大海賊である。

後年、黒髭と綽名されるティーチやバーソロミュー・ロバーツを始めとしたカリブの海賊が有名になるが、ある意味ではその走りであると言える。

カリブの海賊たちもそうであるが、海賊は最終的には大体正規軍によって討伐される運命にあり、ウルージはそういった意味でもその最初の人物と言えるかも知れない。