世界史にはしばしば絶対的な権力を行使する女性が登場する。
オスマン帝国においては、17世紀前半において息子2人や孫を操り政治の実権を握ったキョセムがそれにあたるだろう。
今回は「キョセム・スルタン」と言われるほど権勢を誇った女帝キョセムについて見て行こう。
最も偉大な母后
建国からスレイマン大帝にいたるまで名君揃いのオスマントルコであったが、17世紀の前半においてついに「狂王」と呼ばれるスルタンを輩出してしまう。
絶対的権力とは常に腐敗するもので、「狂王」と言われたスルタンイブラヒムは、宝石類をプールに投げ込んではそれを女性に取りにいかせるのを好んだと言われ、好色であり、一晩で20人以上の異性との行為に及ぶなどの奇行で歴史に名を残してしまった。
彼は完全に精神を病んでいたようで、幼き王子をプールに投げ込んだり、ある日突然ハレムにいた女官や宦官280名を袋詰めにして海投げ込んだりと言った奇行が絶えなかったようだ。
乱交も好んでいたとされ、狂ったローマ皇帝として歴史に名を残してしまったヘリオガバルスとの共通点も多い。
特に似ている部分は、権力はあるけれども実際の政治にはほとんど関わらなかった点であろう。
ヘリオガバルスにおいては祖母のユリア・メサがその実権を握っていたが、オスマン帝国スルタンイブラヒムの時代にはその母親であるキョセムが実権を握っていた。
キョセムは元々の名をアナスタシアと言い、ギリシャ正教の司祭の元に生まれたが、幼くしてオスマン帝国に奴隷として売られ、アフメト1世のハーレムの一員となった。キョセムはあだ名で、闘う羊の意味があり、その名の通りかなり激しい気性の持ち主であったようだ。
やがて彼女は2人の子供を産み、その2人ともがオスマン帝国のスルタンとなった。
1人目はムラト4世として即位した。
ムラト4世の即位は混乱に満ちており、若年王と呼ばれたスルタンオスマン2世がイェニチェリ軍団によって処刑されるとムスタファ1世が即位、彼は処刑こそ免れたもののイスラムの長老や大宰相によって廃位され、代わりにスルタンとなったのがまだ11歳のムラト4世であった。
様々な勢力が強大な権力に群がる中、政治の実権を握ったのはスルタンの母であるキョセムであった。
3大陸にまたがるオスマン帝国の実質的権力者として君臨した彼女は、その権勢から「最も偉大な母后」という綽名で呼ばれ、この世の春を謳歌した。
しかし古代ローマ皇帝ネロよろしく、子どもは成人すると母を疎ましく思うようになるものである。
ムラト4世は次第に母を疎ましく思い、ウラマーであるカドゥザーデ・メフメト・エフェンディと手を組みイェニチェリを支配下において母親の介入を排除した。
これによってカドゥザーデは力を握り、彼の支持者であるカドゥザーデ派はオスマン帝国内で力を持つことになる。
ムラト4世はガドゥザーデのもと厳格なイスラム社会を作り上げ、最大のライバルであるハプスブルク家がドイツ30年戦争に介入している隙に東方のサファヴィー朝への親征を開始する。
この遠征はある程度成果を上げたが、1640年、ムラト4世は死亡する。
彼は弟のイブラヒムを殺すよう遺言していたが、それは母キョセムによって握りつぶされた。
ムラト4世の子供が皆幼くして亡くなっており、オスマン朝の血を引く人間はイブラヒムしかいなくなっていた。
デリ・イブラヒム
イブラヒムは24歳で即位したが、先述したように政務能力はまるでなかった。キュレムにとっては最も都合の良いスルタンであったことだろう。
誰も彼がスルタンになるとは思っていなかった。先王である兄ムラト4世は、オスマンの伝統に従って弟達を次々に処刑していたが、イブラヒムだけはそれを免れていた。自分の地位を奪うことはないだろうと思われていたのかも知れない。
イブラヒムが生まれつき精神のバランスを崩していたのか、このような状況に怯えて精神を病んだのかは定かではない。
イブラヒムの代わりに政治を行ったのは、大宰相ケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャと母であるキョセムであった。
良くも悪くもこの時期の政治は安定したが、オスマンにとって喉骨のように刺さっていたクレタ島があらゆる近郊を崩してしまった。
当時クレタ島はヴェネツィア共和国の領土となっており、カンディアの要塞は地中海一の堅牢さを誇っていた。
オスマン帝国はクレタ島に大軍を派遣するも攻略しきれず、逆にヴェネツィアによってダーダネルス海峡を封鎖されてしまう事態となった。海上封鎖は軍事的にも経済的にもオスマントルコを困らせた。
経済的に行き詰まった大宰相はイェニチェリへの課税を検討するが、これが反発を招き、イェニチェリ軍団はイブラヒムの息子メフメトに忠誠を誓い、メフメト4世として即位させてしまう。
残ったイブラヒムは廃位され、イェニチェリ軍団によって処刑されている。
キョセムの最期
メフメト4世のわずか6歳での即位はキョセムにとってはチャンスであった。
再び自分自身の傀儡にしようと画策したが、同様のことを狙うメフメト4世の母トゥルハンはこれを妨害、キョセムはこれに対抗するためにガドゥザーデ派の面々と手を組むも、それに反発した諸勢力が一気にトゥルハンにつく結果となり、ついには義理の娘によって暗殺されてしまう。
キョセムはオスマン帝国に大きな混乱をもたらした存在だと言えるが、死後メフメト4世の時代にはオスマン帝国は最大版図を記録しており、17世紀後半こそがオスマン帝国の全盛期だと主張する研究家も少なくない。
ただ、オスマン帝国が没落してしまうのもまたメフメト4世の時代だというのも確かである。