1453年東ローマ帝国を滅亡させた男!征服王メフメト2世の波乱万丈な生涯について

紀元前753年にロムルスによって建国されたローマ帝国は、1453年についに滅びた。

その2000年に及ぶ統治を終わらせたのがオスマン帝国第7代スルタンであるメフメト2世である。

歴史にその名を刻むスルタンの生涯について見て行こう。

 2度の即位と弟殺し

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メフメト2世の父である第6代スルタンムラト2世は一度退位してメフメト2世にその位を譲っている。

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しかしまだ12歳だったメフメトに国家運営は難しく、結局はムラト2世が復位し、その死に際して1451年に再びスルタンの地位に就任している。

スルタンになった彼が最初にしたことは、弟アフメトの処刑であった。

後世評判の悪いオスマン帝国スルタンによる兄弟殺しであるが、政策という面からみると600年もの間オスマン帝国が続いた秘密でもある。

中華帝国において、最も長く続いたのは漢帝国ともいえるが、それでも200年ほど続いたのちに一度滅亡している。

他の中華帝国においては100年続くことは稀で、その多くが後継者争いによって国が分裂し、衰退し、滅亡していると言える。

ヨーロッパにおいてもこの傾向は強く、ローマ帝国なども後継者争いで大きく国力を消耗させた時代が存在している。

特にこの傾向が顕著だったのがモンゴルで、チンギスハーンが死んだ後には4か国に分かれ、そして200年もしない間にその領土をほとんど失った。主に後継者候補同士の争いが原因である。

イル・ハン国は80年、ティムール帝国も130年ほどで滅亡している。

オスマン帝国初期においてもその傾向は強く、一時期は兄弟同士で相争う時代もあった。

日本における「タワケ」という言葉は田を相続によって分ける「田分け」から来ていると言われており、やはり相続などによって徐々に勢力を失うことを揶揄している。

アフメトの処刑には2つの意味があったと言われている。

1つはアフメトの出自で、彼の母親はジャンダル侯国というトルコ系の侯国の王女で、もし彼が即位すればその王族が実権を握る可能性があり、所謂「外戚」が誕生するということ。

もう一つは若すぎる王位継承者を出さないこと。

アフメトの年齢は不明だが、メフメト2世ですら即位した時に19歳であったので、アフメトはそれよりも若いことは確かで、幼過ぎる後継者の存在は家臣団の増長を意味し、これまた中国やローマにおいて国力衰退の原因となった。

メフメト2世以後も400年オスマントルコが続いたのは、この際に確立した非情な後継者システムによるものだという説も然りであろう。

メフメト2世はウラマー(イスラムの法学者)達に「世界の為になる場合において」兄弟殺しを罪に問わないとする慣例を敷いた。

コンスタンティノープル陥落

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コンスタンティノープルはローマ帝国皇帝のコンスタンティヌス帝が建てた都であり、以降ローマに代わるローマ帝国の首都として難攻不落の要塞としての性格も持ち合わせていた。

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かつては栄光に浴した帝国も、首都コンスタンティノープル以外の土地をほぼ失い、もはや滅亡は時間の問題であった。

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それでもオスマントルコ内にはコンスタンティノープル攻略に反対する勢力が多かった。

1つはイスラム教の開祖マホメットの言葉に、コンスタンティノープルが滅ぶとき、最後の審判が始まる」という言葉を信奉するイスラムの神学者達、もう1つは大宰相チャンダルル。

チャンダルルは大宰相として東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やヴェネツィアなどのイタリア諸都市との交易による利益を一手に握っておりビザンツ帝国の滅亡を望んではいなかった。それに若輩のメフメト2世など自らの意のままに操れるという目算もあったことだろう。

これらの問題を解決したのが導師アクシェムセッティンという人物だった。彼は宗教的指導者としてコンスタンティノープル攻略をイスラム法的アプローチから正当化し、メフメト2世は自身の腹心たちであるカプクルによる行政権の支配を確立していった。

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メフメト2世の実力は大宰相チャンダルルの予想をはるかに超えて大きいものであったのだ。

メフメト2世はコンスタンティノープル攻略のためにボスフォラス海峡が最も狭まる箇所である「ボアズ・ケセン(海峡を絶つ者の意味)」と呼ばれる砦を築いた。

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コンスタンティノープルは立地的に海上からの補給がいくらでも望めるようになっていたため、これをまず断ったのだ。

同時にメフメト2世はチャンダルルの息のかかったイエニティリ軍団を更迭させ、自らの新軍団を結成させた。

更にハンガリー人技師ウルバンの開発した「ウルバン砲」を配備し、軍備面での充実を図ったうえでおよそ10万人と言われる軍団の編成に取り掛かった。

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ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世はこれに対しローマ教皇に救援を要請、ローマ教皇ニコラウス5世はこれを許諾するもそれは形だけにすぎず、具体的な救援は届かなかった。ビザンツ帝国に味方した勢力は、ダーダネルス・ボスフォラス海峡の制海権を狙うイタリアの都市ヴェネツィアとジェノバのみで、その数は約7000ほどであったと言われる。

それでも堅牢な帝都を攻めるのに苦労したというのだから、如何にコンスタンティノープルが堅牢な都市であるかが分かる。

ビザンツ帝国側の兵を率いていたのはジェノバの名将ジュスティアーニと、オスマントルコにおいて後継者争いに敗れたオルハンの2人で、オスマン帝国の猛攻をよくしのいだ。

もしローマ教皇が十字軍を指揮し、フランスやイギリス、神聖ローマ帝国が援軍を送っていたらコンスタンティノープルはこの時に陥落しなかったかも知れない。

しかし援軍は来なかった。

それでも攻めあぐねたメフメト2世は奇策を用いる。

組織した艦隊を陸にあげ、鎖で封鎖された金角湾に運び、内側からコンスタンティノープルを砲撃する作戦に出たのだ。

 ここまでオスマン側が苦戦したのには、金角湾が長い鎖による海上封鎖を受けていたという原因があった。

 ウルバン砲は結局命中精度が悪く、また堅牢な城壁を破壊するまでにはいたらなかったため、中々攻めきれなかったが、「オスマンの山越え」と呼ばれるこの奇策の成功によりビザンツ側の補給を絶つことに成功。

ビザンツ帝国の人々はユスティニアヌス帝が建てた聖ソフィア堂に皇帝以下が集まり、神とキリストに祈りを捧げた。

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しかし勝利の女神はオスマン帝国に微笑んだ。

勝利の女神ニケからすれば、自らを追放したキリストの子たちへの復讐であったかも知れない。

1453年、2500年以上続いたローマ帝国はここに滅んだ。

476年にオドアケルによって西ローマが滅んだとする説、実はもっと前から滅んでいたとする説、ユスティニアヌス帝によって元老院が解散された時に滅亡したとする説、様々な説があるが、ここに完全に帝国としてのローマ帝国は滅んだ。

 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは、イスラム風にイスタンブールと名前を変え、以後オスマントルコの首都として生まれ変わることになる。

 コンスタンティノープル陥落の影響

東ローマ帝国の滅亡は世界的な大事件であった。東方教会が滅亡しイスラムが東方での覇権を握り、中継貿易で利益をあげていたジェノバやヴェネツィアなどのイタリアの都市国家は衰退を始めた。このことにより東方との貿易が困難となり、香辛料などの値段が高騰、イタリア諸都市の代わりにスペインやポルトガルが台頭し、大航海時代が始まる。

コロンブスはスペイン船に乗っていたが、イタリアの都市国家ジェノバの出身であることはその典型例だと言えるだろう。

また、キリスト教会としてローマと並ぶ二大勢力であったコンスタンティノープル大司教の存在は崩れたことによってローマ教皇の権威を弱体化し、結果的に宗教改革を招いたという説もある。

いずれにしてもコンスタンティノープルがヨーロッパ世界に与えたインパクトは大きく、大きな社会変質を迎えるきっかけになったのは確かであろう。

ファーティフ(征服王)メフメト~実質的な帝国へ~

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「全てのイスタンブルをスルタン・メフメトが作った」という言葉が残っている。

メフメト2世は征服したイスタンブルの復興事業に乗り出し、周辺都市の商人や技術者を移住させ、保護した。聖ソフィア大聖堂はイスラムのモスクとして生まれ変わり、戦中に発見されたマホメッドの親友アイユーブの墓はイスラム第4の聖地となり、人口はメフメト2世の治世末期には10万人を超えるほどになったという。

オスマン帝国の象徴ともいえる「トプカプ宮殿」も建設され、政務機能を集中させた。帝国の政治は宮殿におかれた最高意思決定機関ともいえる御前会議によって決定され、これらは重臣たちが会議をするのをスルタンが格子の裏から見るという形式になっていったようだが、メフメト2世の時代にはスルタンがこれを主催した。

御前会議の出席メンバーは大宰相、勅令を認可するニシャンジュ、国庫を司る2名のデフテルダル(財務長官)、そしてバルカン総督府である。

また、「オスマン帝国」と明確に呼べるようになったのもこの頃で、これまでは王を表す「スルタン」や「ハン」の名であったが、メフメト2世の代になり帝王を表す「パーディシャー」の地位を名乗るようになり、名実ともにオスマン帝国となったのであった。

もっとも、この頃のメフメトを表す呼び名は複数あり、スルタン、ハンも名乗ればシーザーやアレクサンドロスも名乗った。オスマントルコの君主はイスラム的であり、モンゴル的であり、ギリシャ的であるという訳で、全ての文化を束ねる帝王であるという訳だ。

そしてイスタンブールを都としたメフメト2世は大宰相チャンダルルことハリル・パシャを敵に内通した罪で処刑した。メフメト2世は要職にカプクルを配置し、その権力を絶対的なものとして圧倒的な中央集権化を行う。

カプクルが元はキリスト教徒であることでもわかるように、オスマン帝国内ではジズヤと呼ばれる人頭税さえ払えば信教の自由は保障され、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてむしろズィンミー(庇護者)として保護された。

 メフメト2世はまた征服王を表すファーティフの名で呼ばれ、東ローマ帝国を滅ぼした後もドナウ川の要所ベオグラードへの侵攻を行っている。

この侵攻はハンガリーの国民的英雄フニャディ・ヤーノシュの活躍により撃退されるが、バルカン半島はほとんどがオスマン帝国の領土となる。

メフメト2世に激しく抵抗したのが元オスマン帝国出身のアルバニアのアレクサンドロス・ベク(イスカンデル・ベイ)であり、彼はアルバニアを守りつつイタリアへの侵攻を行うなど非凡な活躍を見せたが、1467年に病没すると好機とみたメフメト2世によりアルバニアは併合され、以降オスマン帝国への重要な人材供給地となる。

 メフメト2世のライヴァルの中で一番有名なのはヴラド・ツェペシことヴラド3世であろう。

 彼は征服王メフメト2世を撃退したワラキア(現在のルーマニア)の英雄だが、オスマン帝国の捕虜を串刺しにして街道に置いたため「串刺し公(ツェペシ)」の綽名がつけられ、後にブラム・ストーカーの「ドラキュラ」のモデルとなった。ヴラド3世の政策は敵であるオスマン帝国はもちろん味方からの反発も大きく、ワラキア諸侯はヴラド3世の弟を王に据え、ヴラドは国外追放、ワラキア諸侯はオスマン帝国への臣従をし、貢納の義務は覆うものの広く自治を許される立場となった。

クリミア半島においてはモンゴル系国家クリミア・ハン国の相続争いに積極的に介入し、クリミア半島に大艦隊を派遣、ジェノバやヴェネツィアの勢力を一掃、クリミア・ハン国はオスマン帝国への臣従を誓う。

アク・コユンル(白羊朝)との戦い

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 アナトリア、バルカン地方を制圧したメフメト2世の次の相手はティムール朝にとってかわったトルコ系民族アク・コユンル、通称白羊朝であった。

 オスマン帝国を大いに破ったティムール帝国であったが、ティムール亡き後は急速に衰退し、トルコ系の諸部族が覇権を握るようになっていった。その中でも有力だったのが白羊朝とカラ・コユンル、通称黒羊朝で、最終的には白羊朝がイラン西部の覇権を握り、アナトリアの東部にも覇を唱え始めた。

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白羊朝は英傑ウズン・ハサンのもと精強となり、メフメト2世最大の強敵としてアルメニアの地を争った。

ウズン・ハサンの祖父はアンカラの戦いに参加しており、オスマントルコの側としては仇敵であると言ってもよく、ウズン・ハサン自体も自らをティムールの再来とした。

白羊朝はイタリアのヴェネツィアと結び、アナトリアにいたトルコ系諸侯を味方につけ、またビザンツ帝国の遺臣が組織したトレビゾンド王国も味方につけるとオスマン帝国と対決姿勢を見せた。 

 オスマン帝国はトビゾンド王国やカラマン侯国を併合し、白羊朝との対決に応じる。

両軍はアナトリアの東方オトゥルクベリにて激突し、メフメト2世は辛くもこれに勝利する。

 この敗北によりペルシャでは反乱が相次ぎ、ウズン・ハサンが無くなると大いに混乱し、白羊朝は勢力を失い、代わりにシーア派を信奉するサファヴィー朝が台頭することとなる。

征服王の死

1481年、メフメト2世は東方への親政中に突如亡くなってしまう。

死因については不明だが、ヴェネツィアによる暗殺説は根強く、またどこへ向けての親政であったのかも不明である。

記録によればメフメト2世は晩年なにがしかの病気を患っており、身体の肥満化と両端の腫れが見られたという。そのため病死であるという見方が現在は有力である。

オスマン帝国において歴史の編纂が始まるのがメフメト2世の息子であるバヤズィット2世の時代からであるため、メフメト2世においてもわからないことは多い。

メフメト2世の世界史に及ぼした影響は大きく、地中海の覇者であったヴェネツィアやジェノバは衰退し、代わりにオスマン帝国と手を結んだフィレンツェが台頭した。フィレンツェはルネサンスの保護者として名高く、ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世がローマ帝国の文化復興であるルネサンスに寄与していたというのは少し面白い事実かも知れない。

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 個人的なメフメト2世の評価

 東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世だが、結構負けている。

 この時代には各地に英傑ともいえる人物が誕生し、オスマン帝国の侵攻から祖国を守った人物が結構いる。

しかしそれらの人物が亡くなるや即座にその領土を手に入れており、メフメト2世の治世の間にオスマン帝国は大いに拡大した。

その生涯を戦いに費やしたその尊称の通りの征服王であったが、文化を保護し、政治システムを整備、財政の健全化や中央集権化を進めた政治的手腕は見事で、評価すべきは軍事的な面ではなくその内政政策にあると言ってよいだろう。

 後にスレイマン大帝の時にオスマン帝国は全盛期を迎えるわけだが、その下地を作ったのはメフメト2世だと言え、非常に優秀な君主であったと言える。

これだけ優秀な君主が連続して出た王朝は、世界史においてオスマン帝国以外にない。