稲妻王バヤズィット1世!有能だがアンカラの戦いで歴史的敗北を味わってしまったオスマン帝国4代目スルタンの生涯を見よ

「神の如き者」と呼ばれたムラト一世が暗殺されると、息子のバヤズィットが後を継いだ。

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今回は稲妻王とも呼ばれたバヤズィット一世の話。

 弟達の粛正と戦線の継続

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どの王朝においても、後継者争いは存在している。

ローマや中国などの巨大な帝国では後継者争いによって国力を大きく衰退させた王朝も珍しくはない。

オスマントルコにおいても当然のように後継者争いが度々起きている。

スルタンの地位を継承したバヤズィット1世が最初に行ったのは弟達の粛正であった。

この後度々起るオスマン帝国スルタンの兄弟殺しの始まりであり、同様のことは中国の煬帝や李世民、日本の源頼朝なども行っている。

すみやかに他の後継者候補を粛正すると捕虜となっていたセルビア軍貴族たちを処刑し、自ら先頭に立ってセルビア軍に突撃を繰り返したという。

やがて大勢が決するとセルビア公の娘を娶り、セルビアを支配下にするとビザンツ皇帝の帝位継承に絡み、自身の息のかかったヨハネス7世を擁立しビザンツ帝国をその影響かに置くことにも成功している。

アナトリア統一

小アジアともいわれるアナトリアには未だにトルコ系諸民族の国家が乱立していた。

各部族は「侯(ベイ)」を名乗り、アイドゥン侯国、サルハン侯国、メンティシェ侯国、ハミト侯国、ゲルミヤン侯国などが残っていたが、バヤズィットはこれを次々と撃破していった。

まさに稲妻の如き快進撃のバヤズィットであったが、最大のライヴァル勢力でもあったカラマン侯国の攻略にだけは大分手間取ってしまった。

カラマン侯国の君主アラエッティン・アリの妻メレクはバヤズィットにとっても姉妹にあたり、一度は和平が結ばれるも再び敵対、義理の兄アラエッティンは戦場でとらえられ処刑、これを併合することに成功した。

ニコポリスの戦い

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アナトリアを統一したバヤズィットはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの包囲を開始する。

周辺地域はほぼ制圧された状態においてもローマ皇帝コンスタンティヌス帝の築いた帝都だけは未だに健在であったのだ。

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このことに危機感を覚えたハンガリー王ジギスムントは教皇庁に十字軍の結成を要請、教皇ボニファティウス9世はニコポリス十字軍を結成し、東欧諸国を率いてオスマントルコへの攻撃を開始した。

十字軍はイスラム教徒キリスト教徒の区別なく殺戮を繰り返し、重要拠点ニコポリスへと迫った。

バヤズィット1世はコンスタンティノープルの包囲網を解き、これを迎撃、両軍はニコポリスにて激突した。

結果はバヤズィット1世率いるオスマン帝国の完勝、ローマ教皇直下の十字軍を打ち破ったことによりマムルーク朝庇護下のカリフは正式にバヤズィット1世にスルタンの地位を賜った。

これまでオスマン朝はスルタン位を自称していたに過ぎなかったが、これにより正式にイスラム世界でスルタンとして認められることになったのだった。

この後はバルカン半島をほぼ統一し、古来より発展を遂げてきたアテネやペロポネソス半島などをその支配下においた。

アンカラの戦いとティムール

ここまでバヤズィット1世は稲妻王に相応しい活躍を見せてきた。

十字軍を破り、アナトリアを統一し、そのままで言ったら世界史の教科書にも載るような偉大な君主になっていたかもしれない。

いや、実際少しだけだがバヤズィット1世の名は世界史の教科書に載っている。

それは偉大な名君としてではなく、無様に負けてしまった君主としてだ。

彼は生まれた時代が悪かったと言えるだろう。

バヤズィット1世は世界史の中でも上位に入るほどの戦功を挙げた君主で、戦闘における指揮能力も非常に高かった。

だが運が悪かった。

アンカラで戦ったティムールは世界史でも最強を誇る戦闘狂であったのだから。

イル・ハン国が滅亡し、いくつかの国が興った。アケメネス朝から始まりパルティア、ササン朝、アッバース朝などを輩出したペルシャを制したのは、モンゴル系貴族の血を引くティムールであった。

ティムールはその圧倒的な軍事力でペルシャはもちろんパキスタンやインド、中央アジアも手中に収め、イスラムの支配者であったマムルーク朝からシリアやイラムも奪い取り、その余波でもってアナトリアの地にも侵攻してきたのだ。

結論から言えばバヤズィット1世はティムールの前に無力だった。

ティムールは巧みにオスマン帝国の分離をはかり、幾人もの将兵がティムールの側に寝返った。

この頃のオスマン帝国は各部族の集合体という面が強く、ティムールはそこを突いてきた形となる。

バヤズィット1世はティムールの捕虜となり、失意のうちに没した。

オスマントルコはこれより後継者のいない大空位時代を経験することになる。

個人的なバヤズィット1世の評価

稲妻王の名前に相応しい活躍を見せたスルタンであった。

彼のもとでオスマン帝国は強大になり、ヨーロッパ連合国を破る活躍を見せ、困難であったアナトリア統一を達成した。

この当時ではまだ西方よりも東方の軍事力が強大で、ニコポリスの戦いでのジギスムントの敗北が象徴的であろう。

彼の不運は世界史的にみても5本の指に入るほどの軍事的才能をもったティムールと戦わねばならなかったことに尽きる。

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