ハドリアヌスの名は映画「テルマエ・ロマエ」で市村正親さんが演じたので知っている人も結構いるかも知れない。
5賢帝の3番目にあたる人物で、アドリア海や現在のトルコ3番目の年エディルネ(アドリアノープル)などはこのハドリアヌスが名前の由来にもなっているような皇帝で、ハドリアヌスの長城をはじめ現在でも残っているような建造物をいくつも残している。
今回はそんなハドリアヌスについて見て行こう!
皇帝に即位するまで
ハドリアヌスは先帝トラヤヌスと同様ローマ帝国の属州であった現在のスペインにあるイタリカという町で生まれた。
ハドリアヌスの父親はローマ法務官を表すプラエトルの経験者で元老院議員で、ハドリアヌスは元老院議員の家系に生まれた貴族ということになる。
帝政もこの頃になると属州出身の元老院議員は増えていて、ハドリアヌス家が元老院議員の家庭になったのはユリウス=カエサルの時代で、貴族階級であるパトリキに列せられたのはヴェスパシアヌスの時代のことになる。
名門出身で何不自由なく暮らしていそうだが、ハドリアヌスが10歳の時に父親が亡くなっている。詳細な記録はないが父は自分の死を予測していたようで、幼きハドリアヌスの面倒を見るように後見人を2人指定していた。
1人は後の近衛隊長になるアキリウス・アティアヌス、もう1人は先帝であるトラヤヌスである。
ちなみにハドリアヌスとトラヤヌスの年齢差は23歳で、当時トラヤヌスは33歳。この時はまだ誰も彼がローマ皇帝になるとは思っていなかったであろう時期の話だ。
ローマ市民は兵役の義務を負っていたこともあって早逝することは珍しくなかった。そのため後見人の制度はかなり発達していたようで、任せる側も任される側もそれを当然としている節がある。
ハドリアヌスはローマに行き高名なクインティリアヌスの私塾に学んでいたようで、この頃ギリシャ文化に触発されたらしく、ギリシャっ子というあだ名で呼ばれていたそうだ。
レスリングの「グレコ・ローマンスタイル」という名称に代表されるようにギリシャ文化とローマ文化には密接な関係がある。
ギリシャ文化と言えば哲学や自然科学などが思い浮かび、ハドリアヌスはもちろんそういった文化にも感銘を受けるわけであるが、同時に同性愛にも目覚めたようである。
ローマ人もギリシャ人同様同性愛傾向の強い文化で、現代的のLGBT的な同性愛というよりも文化としての側面があったようだ。
ハドリアヌスの同性愛は有名だったが、結婚もしている。妻の名はサビーナと言って、トラヤヌスの姉の孫であったが、あまり仲はよろしくなかったようだ。その代わりにトラヤヌスの妻であるプロティナとは仲が良かったようである。古代よりプロティナとハドリアヌスの関係を疑う声は多いが、明確な証拠はない。
皇帝になる前のトラヤヌスは軍部の支持の厚い人物でもあったので、ハドリアヌスもモロに厚遇される。
20歳前後ぐらいでパンノニア総督府(現在のハンガリーのあたり)に送られるとトリブーヌス・ラティクラヴィウスというかなり地位の高い大隊長に任命されている。現代日本の大学生が自衛隊の幹部になるようなものだからなぁ。現代の出世はやっぱり遅いよな。もっと若者にいろいろ経験させないと国は益々衰退していく一方になるぜ。ブツブツ。
現代で言えば警察庁のキャリア制度に近いかもしれない。警察官僚はいきなり警部補から始まって20代後半には警視になって地方の署長とかを体験するし、それに近いだろう。
ただハドリアヌスは後に5賢帝の1人に列せられるだけあってこの任を無事に果たしたらしい。青年期は他の属州を渡り歩き着々とキャリアを重ねていった。
そんなある日大事件が起こる。皇帝ドミティアヌスが暗殺されてネルヴァが皇帝になったのだ。
そしてそのネルヴァも即位後1年ほどで死んでしまう。
次の皇帝になったのは自分の後見人であるトラヤヌスであった。
よほどうれしかったのか、記録によればトラヤヌス即位の報を最初にトラヤヌスに届けたのはトラヤヌスということになっている。
多分後付けの創作だと個人的には思っているけどね。
どのみちハドリアヌスはこのことに喜んだであろう。なにせ当時漢と並び世界最強の国家であったローマ帝国最高権力者への道が開けたのだから!
25歳になったハドリアヌスはクルスス・ホノルム(名誉あるコース)と言われるクワエストル(会計検査官)に当選しその後はトラヤヌスに従ってダキア戦争に従軍、ここで十分に戦功を挙げプエラトル(法務官)に当選、ここで属州総督の就任資格を得るとパンノニアインフェリオール(遠パンノニア属州)総督の地位へと昇り詰める。この時31歳である。
その次の年にはコンスル(執政官)に当選しているが、32歳でのコンスル就任というのはローマ史の中でも最速であった。日本で言うと32歳で総理大臣もしくは官房長官になるようなものだ。
その後はパルティア侵攻軍の司令官に任命されたりローマ最重要地区のシリア総督に任命された。
この頃になるとトラヤヌスの病状が悪化し、その病床でハドリアヌスを養子にすることを決定したようである。
「ようである」というのはこの部分は現在も、そして当時にも懐疑的な眼が向けられている点でもあるのだ。
皇帝就任と粛正と
現代のローマ史家は「パクスロマーナ」という言葉には懐疑的である。
ローマの平和ともいわれるこの言葉は18世紀イギリスのローマ史家であるエドワード・ギボンによって創設された。
ハドリアヌスの皇帝就任にはトラヤヌスの皇后であるプロティナの意向が強く働いたという話がある。
トラヤヌスの死に目にあったのは4人。
妻であるプロティナ、姪のマティディア(ハドリアヌスの妻の母)、近衛軍団長のアティアヌス(ハドリアヌスの後見人)、皇帝付きの医師。
この医師はなぜかトラヤヌスが死ぬと数日後に死んだ。原因はわかっていない。
全てがハドリアヌスに有利に運び過ぎているのは確かだ。これは現在はもちろん当時からかなり言われていたようである。
本当にトラヤヌスがハドリアヌスを後継者に指名していたのか?
その答えはもはや闇の中という訳であるが、ハドリアヌス自身の回想録においてもトラヤヌスがハドリアヌスを養子にするといった日と死んだ日が同じになっている。
正直かなり怪しいが、結果的にローマ帝国全体を考えたらベストな選択であっただろう。下手にネロみたいな奴に皇帝になられても困るしな。
ハドリアヌスもまたトラヤヌス同様軍部からの支持が厚かった。元老院もハドリアヌスの皇帝就任には意義がなかったようである。
「インペラトール・カエサル・トライヤヌス・ハドリアヌス・アウグストゥス」というのが正式なハドリアヌスの名前な訳だけれども、ローマ皇帝になった彼はいくつかの問題を抱えていた。
・ユダヤ問題
・ブリタニカ(イギリス)の反乱問題
・北アフリカでの反乱問題
・パンノニア問題
・パルティア問題
トラヤヌスが死んだ当時、ローマでは打倒パルティア熱がすさまじかった。古くは3頭政治で有名なクラッススが大敗北を喫しその後も辛酸を嘗めさせられた相手にトラヤヌスは鮮やかに勝利したのである。
ハドリアヌスに求められていたのはパルティア滅亡であっただろう。
ハドリアヌスはこの辺りをうまくやった。自身は経験豊富なパンノニア問題に着手し、パルティア問題はうっちゃっておいた。
パルティア王はその間に首都クセノフォンに戻り、アルメニアにもパルティア王が任命した王が就任した。事実上トラヤヌスの時代の前に戻っている。
当然の如くこのことに反発する者もいた。
正確には反発しそうな人間たちがいた。
その中の代表的な4人は死んだ。
ハドリアヌスによって殺されたのか?
それは現代でも議論のあるところである。
ローマの歴史、大きく言えば人類の歴史は粛正の歴史でもある。
東洋だろうが西洋だろうが権力闘争は存在している。
コルネリウス・パルマ:二度の執政官経験者で初代アラビア総督。
ププリウス・ケルスス:二度の執政官経験者。トラヤヌスの腹心。
ルシウス・キエートス:執政官経験者。トラヤヌスの副将。
ハヴィディウス・ニグリヌス:ダキア属州初代総督。
トラヤヌスの側近であった4人は殺害された。
ハドリアヌスは近衛隊長であるアティアヌスが勝手にやったと弁明した。
アティアヌスはトラヤヌスと共にハドリアヌスの後見人を務めた人間である。
「勝手にやった」訳ないのだが、勝手にやったのだ。
誰も文句は言えなかった。文句を言えばどうなるかわかっていたからだ。
ハドリアヌスはトラヤヌスとは違う。
トラヤヌスは殺さずの誓いをし、それを完全に守った。
ハドリアヌスはそのような皇帝ではない。恐怖で人を縛るタイプの人間だった。
あるいはこの中の誰かが後継者だったのかも知れない。
有無を言わさぬ公然とした暗殺。ティベリウスの時とは異なる恐怖政治である。
ハドリアヌスは残虐にして寛容、厳格であるかと思えば愛想が良く、一貫していないことだけが一貫していたと歴史家は語る。
この辺りはなんとなくシンパシーを個人的には感じる。
ハドリアヌスは内部を粛正によって整理するとパンノニア、北アフリカ、ブリタニアの問題を次々と解決していく。
この際に建設されたのがかの有名な「ハドリアヌスの長城」だ。
ハドリアヌス長城はローマ帝国が外部膨張政策を断念した証としてもよく紹介される。
世界史の教科書で出てくるハドリアヌスの業績はせいぜい「拡大をやめて領土の縮小を行った。ハドリアヌス長城をイギリスに作った」ぐらいである。これでセンター試験対策は完璧である!
ハドリアヌスを悩ませたのがユダヤ問題である。
ユダヤ問題にはローマは苦しまされてきた。後にキリスト教に悩まされるローマ帝国であるが、この時はユダヤ教の反乱に悩まされてきた。
ユリウス=カエサルがユダヤに対し寛容な政策を行ってからローマはユダヤ教徒には寛容だった。
だがユダヤ側はローマ側の文化を受け入れられなかった。
ローマは多神教国家で、歴代皇帝は基本的には神になる。ネロ、ドミティアヌス、ティベリウスの3人以外は全て神格化された。
ユダヤ教はYHVHのみを神とした一神教である。ローマの文化なんか受け入れられるわけがない。
ユダヤの厄介なところは、彼らの離散傾向であろう。通常民族は固まる。日本人は日本列島に固まる。
ユダヤ教徒はあらゆる都市に離散し、コミュニティを作る。なのでユダヤ本体が反乱を起こすとそれが各地に飛び火するのである。
ハドリアヌスはユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。永遠の都エルサレムにはユダヤ教徒は立ち入り禁止にし、殺害されたユダヤ教徒は50万人にも昇ったという。
キリスト教史観においてはネロは暴君であるがハドリアヌスは暴君ではない。もしもユダヤ教史観が世界を制覇していたらハドリアヌスは暴君になっていたかもしれない。
歴史とは評価のつけ方でもある。
ハドリアヌスと旅と法律編纂と各自事業
ハドリアヌス 職業旅人です!よろしくお願いします!
歴代ローマ皇帝の中でハドリアヌスほど旅をした男はいない。彼はほぼローマ帝国中を視察旅行した。
特にアテネはお気に入りだったようで、ハドリアヌス最愛の人と言われるアンティノーもギリシャでであったようだ。
48歳のローマ皇帝が15歳ぐらいのギリシャの少年を本気で愛した訳だから、なんというか・・・
ハドリアヌスはこのアンティノーを本気で愛していたようで、アンティノーがエジプトで溺死した時には人目をはばからず女性のように泣いたという。
漢の中の漢みたいな人間がそのようなことになるのだからよほどのことだったのだろう。アンティノーを神格化させたばかりか溺れた川のふもとにアンティノポリスという都市まで作っている。さらには彼の彫刻を多数つくらせローマ帝国中に贈ったというのだからかなりのアレである。
さて、ローマ法を編纂した人物としては東ローマ帝国ことビザンツ帝国のユスティニアヌス帝が有名であるが、ハドリアヌスもローマ法の整備をしたことでも有名である。
ローマ法は現在の各国家の法律と基本ともなった法で、イギリス法やフランス法は基本的にローマ法に準拠している。ドイツの法律はゲルマン法が基礎的で、日本はこれらの混合的な法律と言える訳だけど、ハドリアヌスはユスティニアヌスの600年ぐらい前にローマ法を大全化している。
この辺りがハドリアヌスが決定的な暴君とは一線を画するところだろう。武骨だがインテリなのである。
古代ローマのまま現代でも残っている唯一の建物と言われる「パンテオン」もハドリアヌス帝の時代に再建された。建設したのはアウグストゥスの片腕であるアグリッパだが、現在の形に再建したのがハドリアヌスなのだ。
他にも現在のトルコの地にハドリアノープル(アドリアノープル)を建設したり道路などのインフラ整備にも務めた。
明らかに働き過ぎである。
晩年と後継者問題
ローマ皇帝の寿命は短い恐らくはその激務ぶりで心身ともにやられるのであろう。
ハドリアヌスは晩年、精神をやられていたのではないかという気がする。
あらゆる巨大王朝が頭を悩ます問題。それは後継者問題である。
アドリアヌスには子供がいなかった。そこで後継者に名前が挙がっていたのが姉パウリーナの孫のペダニウス・フスクスであった。
この孫を後継者にととにかく頑張っていたのがセルヴィアヌスという男で、なんとか孫を皇帝にとおじいちゃんは頑張ったのであるが、孫のフスクスともども自殺を強要されている。
理由は明らかにされていない。
ハドリアヌスはティベリウスほどの恐怖政治は行ってはいないが、トラヤヌスの4人の腹心たちと後継者問題においては粛正を断行している。
フスクスに死を強要した理由はまるで分っていない。
ハドリアヌスが代わりに後継者に指名したのはケイオニウス・コンモドゥスという名の30才の男であった。彼はハドリアヌスの養子となりアエリウス・カエサルと名を変えた。
皇帝を表すカエサルの名を冠していることからもこの人物が後継者であったことはまちがいないだろう。彼はニグリウスの義理の息子である。
ニグリウスって誰だっけと思うだろうがハドリアヌスが粛正した4人の中の1人である。
彼は美少年だったらしく、ハドリアヌスは彼に護民官特権や軍の司令権なども与えており、内外ともに認知された次期皇帝だったのだが、病死した。元々身体があまりつよくなかったようである。
アエリウスの死を知ったハドリアヌスはかなり取り乱して口汚い言葉を多く発したらしい。
アエリウスの代わりに後継者としての白羽の矢が立っていたのがマルクス・アンニウス・ヴェルスという16歳の少年だった。
この少年が後のマルクス・アウレリウス・アントニヌスである。
ただ皇帝になるには若すぎたので、ハドリアヌスはアントニウスという50歳ぐらいの男を呼び、アンニウスを養子にすることを条件に自分の養子にすることを告げた。
このアントニウスこそが5賢帝の4人目アントニウス・ピウスである。
ピウスというのは慈悲深いという意味の言葉で、あだ名なのであるが、そのあだ名が後世まで定着しているのだから面白い。
ちなみにアントニウスが慈悲深いとされたのはハドリアヌスが原因である。
ハドリアヌスは元老院から嫌われていた。
どれくらい嫌われていたかと言うと、神格化を拒否されるぐらいには嫌われていた。
アントニウスはこれに反対してハドリアヌスを神格化してほしいと元老院に頼み込んだのだという。人々は言った。アントニウスはなんてピウスなんだと。
個人的なハドリアヌスの評価
結構長くなってしまった。ここまでで6000字。なぜかトラヤヌスの2倍近い。
ハドリアヌスは世間で考えられているような賢帝のイメージとは遠い。
武闘派で粛正もいとわず結構無茶苦茶やっている。
トラヤヌスがせっかくパルティアの首都を陥落させたのにそれを返還してしまうしあまりローマにいなかったためかまた個人の趣向のためか元老院からは嫌われていたようである。
政策はトラヤヌスの時にすでに完成されていたのでそれを事業として引き継げばよかったのであまり新しいことはしていない。
国力を衰退させていないという面では名君だったと言っても良いだろう。
身内を決して優遇せずに国家を混乱や危機に陥れていないし国力を衰退させた訳でもない。
近年では5賢帝の評価を落とすことに熱心な人たちが多いが、5人ともが優れたローマ皇帝であったという評価を覆すまでに至るのはやりすぎだろうと思う。
だってネロとかカリギュラとかのちの軍人皇帝たちとかと比べてみてくださいよ。
如何にハドリアヌスが優れた皇帝かってことがわかるじゃあございませんか。