先代のスルタンバヤジット2世のもとでオスマン帝国の文化レベルは飛躍的に上がったが、反面軍事的にはイランのサファヴィー朝に対応しきれなかったところがあった。
そのことに不満を感じて父王を退位させてしまったのが後に冷酷王とよばれることになるセリム一世だ。
実はオスマン帝国の領土を最も拡大させたスルタンで、その功績は征服王と言われたメフメト2世よりも大きいと言われているセリム一世についてくわしく見て行こう!
父を追い出した武断王
バヤジット2世には8人の息子がいた。
彼が最も寵愛していたのはアフメト王子であったが、セリムの娘婿であるボスタンジュバス・イスケンデル・パシャの妨害によりイスタンブル入りは阻止され、別の王子コルクトがイスタンブル入りするもイエニチェリ軍団の支持を得られず、最終的にはイエニチェリを掌握したセリムが父を廃位させセリム一世となってオスマン帝国第9代スルタンの地位に就任した。
先王バヤジット2世は死去し(おそらくセリム一世による暗殺だと言われている)、他の王子たちも皆処刑、冷酷王の名にふさわしい門出となった。
チャルデランの戦い(1514年)
スルタンになるとすぐにセリム一世はイランに兵を向けた。父王が出来なかったサファヴィー朝を征討するためである。
強大な軍事力を持つオスマン帝国を相手に、サファヴィー朝のシャー(王)であるイスマイールは消極戦法を採用した。
オスマン帝国の兵は500を越える大砲を有しており、攻撃力は高いが機動力は低いため、直接的な会戦は避け続けた訳である。
これは古代ローマにおいて対ハンニバルにおいて直接戦闘を避けた事例に似ている。
とはいえいつまでも逃げ続けている訳にもいかず、1514年両軍は黒海東岸のチャルデランで激突する。
サファヴィー朝の兵力は約4万、オスマン帝国側は6万、サファヴィー側は機動力に優れる騎兵中心であったが、結果は銃火器を中心とした編成のオスマン帝国軍の勝利となった。
この戦いの歴史的意義は極めて大きく、軍事的な中心が槍や剣などを中心とした騎兵や歩兵ではなく、銃などの火器を中心とした戦いに移行していったことを表している。
日本ではこれより60年後の1575年に長篠の戦いにて織田・徳川両軍が銃を中心とした編成で戦国最強とうたわれた武田騎馬隊を撃破しているが、さしずめチャルデランの戦いはオスマン帝国版長篠の戦いといったところであろうか。
これによりイスラム世界におけるオスマン帝国の覇権は確固たるものになり、勢いに乗りイラン西部の重要都市でありサファヴィー朝の最初の首都であるタブリーズの占領に成功する。
対するサファヴィー朝は勢いを失うもイスマイールの野心はついえることはなく、ヴェネツィアやロードス島にいるヨハネ騎士団、ハンガリー、スペイン、ローマ教皇、果てはインドにいたポルトガルにまで連携を呼びかけ、これらの連携は次世代への布石となった。
マムルーク朝の滅亡
軍事的に言えばこの時期の最強国家はオスマン帝国であったが、権威の面ではカリフを有するマムルーク朝がイスラム世界の主であった。
マムルーク朝はアイユーブ朝の奴隷軍人であったマムルークが反乱によって建てた国で、モンゴルや十字軍を撃退し、イスラムの聖地であるメディナにメッカ、シリアやエジプトを領有し、預言者の子孫であるカリフを保護している国家であった。
オスマン帝国にとってはいわば宗主国のような立場であったが、オスマン帝国はシーア派国家であるサファヴィー朝をマムルーク朝が支援したと名分を掲げてマクルーク朝への攻撃を開始した。
理屈よりもパワー。
もはやマムルーク朝に往年の力はなく、為す術もなくオスマン帝国の前に散っていった。
侵攻開始からわずか2年、マルジュ・ターヴィクの戦いで勝利したオスマン帝国は、首都カイロは制圧し、シリアやパレスチナなどを自らの領土とした。
この際アッバース朝のカリフであったムタワッキル3世を保護するものの、最終的には監禁し、カリフの位を自らに禅譲させた。
これによりオスマン帝国は精神面においても軍事面においてもイスラム世界の覇者となり、スルタン=カリフ(王=預言者)としての地位を確立させた。
セリム一世の時代、オスマン帝国の領土は約2.5倍となり、イスラム世界のみならず世界の覇者と言うに相応しいほどの領土を得ることに成功した。
次に狙うはヨーロッパの覇者。
古代ローマ帝国をも超える世界帝国の建国であった。
個人的なセリム一世の評価
セリム一世はロードス島への侵攻の準備をしている間に病死した。ペストであったと言われている。
彼の治世はわずか8年というものであったが、その間にオスマン帝国の領土は2.5倍になり、オスマン帝国全盛期の前夜を築いたと言える。
セリム一世は必要とあれば近親はもちろん部下の首も平気で飛ばしたが、かといって暴君かと言えばかなり難しい。冷酷王を表す「ヤヴズ」の名前では呼ばれているが、粛正の対象は基本的には先王や他の王子の支持者であり、兵士たちの不満を解消するために大宰相を処刑している例などはあるが、その部分がオスマン帝国の統率を強化させたこともまた確かである。
セリム一世には「オスマン帝国のアレクサンドロス」という尊称もあり、彼の生涯が勝利に満ちていたことも確かであろう。
その軍事的な才能は世界史レベルで見ても特出しており、近い時代の武田信玄と上杉謙信と織田信長が束になってかかっても敵わないレベルにあると言えよう。
生涯においてほぼ負けなしで、敗戦らしい敗戦が確認できない。敵もサファヴィー朝、マムルーク朝と手ごわく、ヨーロッパの国家に至ってはセリム一世の治世中はまったく手出しができなかった。
日本での知名度が低いのが不思議なぐらいの業績と軍才である。
彼の世界帝国への野望は息子へと託される。
息子の名前は「スレイマン一世」
のちに「マグニフィシェント(大帝)」と呼ばれ、世界史に名を刻む最強のスルタンである。