イスラム最強君主!壮麗王スレイマン大帝の活躍に刮目せよ

16世紀は世界的に動乱の年であった。

スペインやポルトガルはアメリカ大陸への進出をはじめ、ドイツやイギリスでは宗教改革が起こり、極東の日本では100年に渡る戦国時代の真っただ中。

そのような世界的な戦乱の時代を迎えた16世紀の主役は誰であったか?

1人だけ上げるとしたらオスマン帝国第10大スルタンであるスレイマン大帝の名前があがるであろう。

スペインはその強大な武力でアメリカ大陸の支配を進め、7つの海を制覇しようとしていたが、ついぞスレイマン大帝率いるオスマン帝国には歯が立たなかった。

今回は16世紀世界の覇者であり、最強のスルタンであるスレイマン大帝について見て行こう。

 サーヒブ・キラーン

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スレイマン大帝は1520年、25歳の若さでオスマン帝国第10代目スルタンに就任した。

父は冷酷王と言われたセリム一世。

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オスマン帝国が最もその領土を拡大させたのは実はセリム一世の時期で、元々250万平方キロメートルであったオスマン領は彼の治世において650万平方キロメートルに拡大された。

ちなみに日本の領土は約38万平方キロメートルである。オスマン帝国がいかに大きいかが分かる。

父の治世中、スレイマンはローマ皇帝ハドリアヌスが建設し、かつてはハドリアノポリスと呼ばれたエディルネの守備を担当し、ヨーロッパからの侵攻を防ぐ重要な役割が与えられていた。

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セリム一世がサファヴィー朝やマムルーク朝との戦いに集中できたのは、西欧諸国がスレイマンを恐れて侵攻できなかったからだという意見もあるほどで、その真偽はともかく、その間領土を一切失わなかったのは確かである。

スレイマンの即位の際にはオスマンの伝統的ともいえる後継者争いは起こらなかった。これはセリム一世に他に男子がいなかったからとも、スレイマン即位の前に全て処刑されていたからだとも言われている。

スレイマンは「世界王」になるべくして生まれた。

イスラム世界では最高の生まれとされる木星と金星があわさる時に生まれた彼は、最高の天運を持つ「サーヒブ・キラーン(天運の主)」であり、世界を統べるものとしての役割を期待されていた。

同様にサーヒブ・キラーンの称号を与えられているのはチンギス・ハーンとティムールだけであり、スレイマンはイスラム世界にとっていわば救世主であり、世界を正す者であり、預言者でもあった。

父の時代にマムルーク朝に保護されていたカリフの身柄はオスマン帝国に移されており、カリフの地位はすでにスレイマンに移っていた。

領土、軍事力、生まれ、彼が即位した時には全てが揃っていた。

時は来たのである。

ヨーロッパ侵攻

即位したスレイマンはただちにヨーロッパ侵攻を開始した。

ドナウ川沿岸の重要都市ベオグラードを早々に占領するとこの地をヨーロッパ侵攻の足掛かりとし「聖戦の家」と呼んだ。

若きこのスルタンは、東ローマ帝国を滅ぼし、征服王と呼ばれたメフメト2世ですら占領できなかったベオグラードを、いとも簡単に攻略して見せたのだ。

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次にスレイマンは地中海のロードス島を攻める。

かつてローマの英雄ユリウスカエサルも留学したロードス島は、現在はキリスト教勢力であるヨハネ騎士団が支配する土地となっており、オスマン帝国の船舶に対して略奪を繰り返す、いわば喉に刺さった骨のような存在であった。

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要塞化したロードス島を攻めるのは困難を極めたが、5か月に及ぶ海上包囲によってヨハネ騎士団は降伏、騎士団はマルタ島に居を移し、以後マルタ騎士団として活躍し、現在でも騎士団は存続している。

地中海の制海権を手に入れたオスマン帝国の交易はますます発展し、経済は大いに発展した。交易で得た富は次の聖戦の費用となり、その勢いは止まらない。

大宰相イブラヒム

イブラヒムはバルカン半島の出身で、当時はヴェネツィア領だったギリシャ北部の都市に生まれたと言われている。元々はキリスト教徒の家に生まれたが、海賊に誘拐され、奴隷としてボスニア総督であったイスケンデル・パシャに献上されたという。

その後はオスマン王家に献上され、幼少期のスレイマンと共に教育を受けて育ったと言われており、スレイマンは彼を早くから重用していた。

彼は当初公的な地位には就かず、スレイマンの影となって支えていたが、やがてスレイマンは彼を大宰相の任に就ける。

この人事は異例中の異例で、スレイマンの重臣たちの反発を買い、特にロードス島攻略で功のあった宰相アフメト・パシャはこれに反発、エジプトで反乱を起こす事態となった。

しかしスレイマンはこれを瞬時に鎮圧、未だ不安定であったシリアやエジプトの掌握に成功するとイブラヒムに対して様々な特権を与えた。

イスタンブルの中心に彼の住まう宮殿を建設させ、その宮殿でオスマン最高意思決定機関である御前会議の開催を許可し、トプカプ宮殿への出入りも自由、イブラヒムの結婚を祝う行事は2週間に及び、イブラヒムの側もこれによく応えた。

彼は幅の広い人脈を形成し、ヴェネツィアをはじめとしたヨーロッパ諸国家との外交にも大いに力を発揮していく。

スレイマンのこのようなイブラヒム重用は個人的な部分もあったかもしれないが、スレイマンなりの中央集権化であったと思われる。

彼は先王の影響力を排除し、自分の手足となる人物を臣下に据える必要があった。それはちょうど父であるセリム一世が行ったとの同じ政策でもある。

圧倒的専制君主による独裁政治。

国が最も発展する時、そのような政体であることが多いのは世界史の流れでもある。

モハーチの戦い(1526年)

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世界史には、歴史を決める戦いというのがいくつかある。

モハーチの戦いもそういった戦いの一つであろう。

ハンガリー王国はオスマン帝国がバルカン半島に侵攻した当初からのライヴァル国であり、キリスト教国の側からすれば防波堤のような役割を担っていた。

オスマン帝国の侵攻を常に防ぎ、ヨーロッパのイスラム化を阻止してきた同国との決戦の舞台はハンガリーのモハーチ高原。

イスラム側の指揮官は総督イブラヒム・パシャ、対するハンガリー側は若き王ラヨシュ2世。彼はボエミア王も兼ね、若くして勇猛で知られていた。

勇猛と若さは時に失敗を産む。

オスマン側の兵力は約7万、大砲300門を含む大軍勢である。対するハンガリー側は騎兵12000を含む30000の軍勢、援軍を要請していたがそれを若き王は待ちきれなかった。

かつて、イタリアで行われた第二次ポエニ戦争では、騎兵の数が戦況を決した。歩兵でいくら勝っても、騎兵隊によってそれが覆る。

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しかしそれは紀元前の話であった。

時は16世紀、オスマン帝国は銃火器で武装していた。兵力も武装も、オスマン帝国に分があった。純粋な騎兵勝負では、ハンガリー側が有利であったと伝えられている。

トルコ民族もハンガリー民族も、もとは騎馬民族であり、どちらもモンゴルの地に誕生したと言われている。ハンガリー人の祖先はフン族で、ハンガリの名前はフン人の土地を意味するフンノニアから来ており、彼らは常にその騎兵力でヨーロッパを脅かしていた。

そのハンガリー王国が負けた。

勇猛な王ラヨシュ2世は戦死し、首都ブタペストはオスマンに占領された。

オスマン帝国の軍勢は、ヨーロッパの中心部まであと一歩というところまで迫っていた。

ウィーン包囲網

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16世紀世界におけるヨーロッパの中心はハプスブルク家である。

日本ではあまりなじみのない名前だが、ウィーンを首都とし、歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ)やオーストリア、スペインにイタリアなど旧西ローマ帝国領を支配し、フランスとともにヨーロッパの2大勢力となっていた大貴族である。

フランス革命時のマリーアントワネットや有名な女帝マリア・テレジアなどもハプスブルク家出身であり、多くの音楽家や芸術家を保護したことでも知られている。

ハプスルブルク家はオスマン帝国がハンガリーに勝利するやすぐにそこに介入の意を示してきた。

当時のハプスブルク家は、カール5世が神聖ローマ皇帝としてドイツとスペインを領有し、弟のフィルディナントがオーストリア大公となっていた。

ヨーロッパの歴史がわかりにくいのは、このハプスブル家における外交戦略と姻戚関係がややこしいからであり、この時代、ヨーロッパの王家にはどこかでハプスブルク家の血が入っていた。ハンガリー王だったラヨシュ2世の姉はフィルデナントと結婚しており、オスマン帝国に対しハンガリー王位の継承権を主張したのだ。

ハンガリーの諸貴族たちはハプスブルク家のハンガリー支配を嫌い、オスマン帝国との結びつきを強めた。

両雄並び立たず。

キリスト教国家最強国にしてヨーロッパ最大の貴族ハプスブルク家と、イスラムの盟主であり最強国家であるオスマン帝国の戦いの火ぶたは切って落とされた。

ハプスブルク家の領土はさながら西ローマ帝国に近く、オスマン帝国の領土は東ローマに近い。

さながら東西のローマ帝国がぶつかるようなものである。

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攻撃をしかけたのはオスマン帝国の側であった。

スレイマンは15万とも言われる大軍団を組織し、ハプスブルク帝国の本拠地ウィーンを攻めた。

この時カール5世は宗教改革の対応やフランス王フランソワ一世との争いで弟であるオーストリア公フィルデナントを支援することが出来なかった。当時はローマ教皇をも巻き込んだイタリア戦争の最中で、どうにも身動きがとれなかったのである。

そのためフィルデナントはウィーンから逃亡し、オスマン帝国はウィーンを包囲した。

しかし軍勢が多すぎた。

スレイマンは大規模な会戦を想定していたのかも知れない。国を捨てて君主が逃げるとは思わなかったのであろう。

包囲戦は両者ともに持久戦となる。

ウィーンを救ったのは大雪である。

ヨーロッパの冬は厳しい。

オスマン帝国は厳しい寒さの中、撤退を余儀なくされた。

これを敗北とすべきかは難しい。

後にナポレオンやヒトラーはロシアの冬将軍に敗北し、滅びの道を辿った。オスマン帝国は逆に早々に撤退したため国力を浪費することもなく、これ以降もしばらく全盛期が続いた。

歴史的に見れば、この撤退は妥当であり賢明であったと言えよう。

スレイマンは1532年に再びウィーンに侵攻するが、これも道の途上で引き返している。これは1533年にオーストリア公フィルデナントとの間に和議(コンスタンティノープルの和約)がなったからで、その結果親オスマン側のサボヤイという人物がハンガリー王位を継ぐことになり、ハンガリーは両巨大勢力の緩衝地帯としての役割を担うことになる。

1540年には両国の争いが再燃し、ハンガリーの南部をオスマン帝国が、それ以外をハプスブルク家が領有することになる。

フランスとの同盟とカピチュレーション

敵の敵は味方、という理論の通り、ハプスブルク家の最大の敵であった両国は利害が一致していた。

非公式には両国家は1525年には同盟関係にあったといい、イタリア戦争はこの同盟を背景に起こったともいわれている。

正式な使節が往来するのは1534年からのことで、1569年にはオスマン帝国はフランスに対してカピチュレーションを与えている。

これは通商特権とも訳されており、フランスにオスマン帝国内における通称の特権を与えるとしたもので、1580年にはイギリスにも与えられている。

この当時は対等、あるいはオスマン帝国の方が優位であったためそれほど問題にはならなかったが、後に西欧の産業革命が完了し、力関係が逆転すると列強との不平等条約の根拠となってしまうことになる。

内容は租税の免除、財産や身体などの絶対保証、居住、通商の自由を保障したもので、オスマン帝国はこれらの商人を通じて情報を得ていたと考えられている。後代になるとヨーロッパ諸国に大使館を建てるようになり、逆に西欧諸国もオスマン帝国内に大使館を建てることになる。

フランスとオスマン帝国は大いにハプスブルク家を苦しめることに成功し、オスマントルコも唯一フランス王国だけは対等な国家とみなしたという。

東方遠征

オスマン帝国の領土は広い。

この当時のオスマン帝国の最大の敵はハプスブルク家ではなった。

同じイスラム教と言えど、宗派違いのシーア派を信奉するイランのサファヴィー朝こそがオスマン帝国最大の敵であった。

当時の世界はオスマン帝国、ハプスブルク家、フランス、サファヴィー朝の4強時代だったと言え、イブラヒム・パシャを先遣させるとスレイマン自らサファヴィー朝討伐の兵を率いた。

サファヴィー朝は国内がまとまらず、アゼルバイジャンをオスマン帝国に占領され、重要都市バグダード、タブリーズを奪われることになる。シーア派の聖地と呼ばれるカルバラーとナジャフも占領、オスマン帝国は占領地で減税政策を行ったため現地の民衆に歓迎され、以後カフカフ地方およびイラク地方においてはオスマン帝国の優位が決定する。

バルバロッサ ハイレッティン

エリザベス女王が大海賊であったフランシス・ドレークと手を結んでおり、ドレークがスペインとのアルマダ海戦の際に活躍したことは有名だが、その政策はオスマン帝国の政策を真似たともいわれている。

地中海には当時、「バルバロッサ(赤ひげ」の名前で暴れまわっていたハイレッティンという名の大海賊がいた。

彼はアルジェリアの北岸を本拠とし、セリム一世の支援を受けてヨーロッパ戦の襲撃を行っていたが、スレイマンは彼をオスマン海軍提督に任命、1534年には彼に命じて北アフリカのチュニスを攻撃、これを占領する。

ハプスブルク家の当主カース5世がこれに反発し十字軍を結成、ジェノバのアンドレア・ドーリアを総司令官とし艦隊を派遣するとハイレッティンは逃亡、その後もアフリカ北岸を荒らしまわった。

プレヴェザの海戦

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オスマン帝国の拡大に恐怖したハプスブルク家は、ローマ教皇やイタリア諸都市を巻き込みオスマン帝国への大規模な攻撃を開始した。

スペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアはジェノバのアンドレア・ドリアを総司令官とし、オスマン帝国側は提督ハイレッティンがこれに対抗、1538年、両軍はギリシャのイオニア海にあるアルタ湾の入り口であるプレヴェザ海域で激突した。

キリスト教連合はまるで相手にならないとみるや即座に撤退を開始し、オスマン帝国は地中海の覇権を確固たるものにした。

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大航海時代の覇者であるスペインの敗北は世界に衝撃を与え、勢いにのったオスマン帝国艦隊はインド洋にも進出、アラビア半島の重要拠点であるアデンを獲得、時の制海権を握った。

イブラヒム・パシャの処刑とヒュッレムの台頭

理由はわからない。

だが確固たる歴史的事実として、大宰相イブラヒム・パシャの処刑は行われていた。

古来より、スレイマンの妻であるヒュッレムが暗躍していたと言われている。

ヒュッレムは確かに世界史を変えた人物の一人で、元々はイブラヒム・パシャに献じられた女性奴隷であったが、スレイマンに献上されると寵愛を受け、契約によって婚姻関係を認めさせるなどその辣腕を振るった。

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イブラヒム亡き後宮廷ではヒュッレムが力を握ったと言われており、以降スレイマンは大規模な遠征を控えている。

イブラヒムはスレイマンの後継者争いにおいてマヒデブランの産んだムスタファ王子の支持者であり、ヒュッレムには邪魔な存在であったと言われている。

イブラヒム自体もそのあまりの厚遇ぶりから帝国内には不満の声が満ちており、内政を充実させたいスレイマンにとってはむしろ邪魔な存在となっていという理由もあるだろう。

イブラヒムは「マクプール(寵愛されしもの)」との異名をとっていたが、この一件によって「マクトゥール(殺されしもの)」という異名をとるようになり、帝国内にあった銅像を引き倒され、その墓には名を刻むことさえ許されなかったという。

ヒュッレムにはイブラヒム以上の特権が与えられていた。

従来、女性奴隷はトプカプ宮殿には入城できないようになっていたが、スレイマンはヒュッレムのためにトプカプ宮殿を増築し、彼女との挙式を行い、彼女との間に生まれた子供は地方の長官にはならずにイスタンブールに留め置かれた。

彼女は大宰相リュステム・パシャと組んで蓄財を行い、その財産は帝国の年間収入をも超えていたという。

このような専横にイエニチェリ軍団は反発し、マヒデブランの産んだムスタファ王子の即位とスレイマンの退位を求め蜂起した。

これに対しスレイマンはムスタファを処刑、その側近も処刑、後継者はヒュッレムの産んだ2人の王子セリムとバヤジィットの争いとなる。

バヤジィットは偽王子ムスタファの乱をバルカンで起こさせ、自らスレイマンに代わって王となろうとするも露見し、処刑の一歩手前まで行くがヒュッレムのとりなしで不問、スレイマンは2人の王子をイスタンブルから遠ざけた地の太守に任命。

すると反スレイマン勢力がバヤジィットの元に集まり始める。

1559年、事態を重く見たスレイマンはセリムに対し正規軍を貸与し、バヤジィット征伐を命令、セリムは勝利し、バヤジィットはサファヴィー朝に亡命するも後に処刑され、後継者はセリムに決定する。

大帝の死

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スレイマンは「マグニフィシェント(大帝)」と呼ばれる。

サファヴィー朝に勝利し、スペイン、ハンガリー、オーストリア、ローマ教皇に勝利し、世界の覇権を握ったその活躍は「壮麗王」とも呼ばれ、まさに世界の王であった。

彼は晩年、再びハプスブルク家を開始した直後に亡くなっている。1566年、71歳でのことだった。

同時期の日本では、織田信長が美濃の攻略に成功し、天下布武のもと戦国の覇者にならんとしていた年であった。

晩年のスレイマンは痛風を患っており、歩くのも厳しかったようで、死因も恐らくは痛風によるものであっただろうと言われている。

晩年は積極的な攻勢をやめ、マルタ島にこもったヨハネ騎士団を攻撃するも失敗、ハプスブルク家打倒も果たせず家庭的にも不幸な晩年を過ごしてしまった。

なお、スレイマンに対して、トルコでは「大帝」や「壮麗王」以上に「カーヌーニー(立法者)」の名で呼ばれることが多いという。それは支配体制の確立とイスラム法の整備による統治を確立させたのがスレイマンの時代であると考えられているからだ。

なお、オスマン帝国の全盛期がスレイマンの時代であったかどうかについては未だに議論されており、現在ではこれ以降の時代の方が経済的に発展しており、領土的にも後代の方が広い版図を誇っていた時代もあることから全盛期はスレイマンの時代ではないという説の方が有力なようである。

個人的なスレイマンの評価

スレイマンの評価は実は難しい。

元老院を尊重し、虐殺などは一切しなかったトラヤヌス帝のような皇帝は手放しに名君と呼べる。

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スレイマンは特に晩年の血なまぐさい争いが評価を落としてしまったようにも思えるし、長年の右腕イブラヒム・パシャを突然処刑するなど名君とは呼び難い行動をとっている。

絶世の美女にかまけて政治をおろそかにしたという点も評価を落としていることだろう。

この点は難しい。

もしもスレイマン時代に後継者を決めておかなかったら、間違いなくオスマン帝国は後継者争いにより衰退していた。それはモンゴルのチンギスハーンやフビライハーン亡き後のことを考えれば明白であろう。

また、晩年において大規模な遠征をしなかったおかげでオスマン帝国の財政は健全化され、後のチューリップ時代などをはじめオスマン全盛期を迎えられることになった。

そういった視点から見ると、前半の大遠征時代よりも晩年の政策の方が評価されるべきなのかも知れない。

歴史というのは評価が難しい。

前半戦においては言う必要もないほどで、ヨーロッパ諸国には全勝、イランにも快勝、北アフリカの覇権を握り、インド洋にさえも影響を及ぼしたおかげで経済は活性化され、名実ともに世界の覇者となった。

16世紀世界における覇者であり、最強の君主であったと言えるであろう。

仮に世界にあった全ての国々と戦ったとしても、単独でオスマン帝国を敗れる国家はいなかった。同時代の日本が総力を結集しても、まるで相手にはならなかったであろう。

私見だが、戦国時代の日本は世界史的に見てもかなり強かった。特に後半は銃火器の保有数が世界有数であったし、戦術レベルも非常に高く、兵力動員数も大国並であった。それでもオスマン帝国の圧倒的な戦力には比すべきもなく、後の覇権国家となるイギリスでさえも、この時代にはまるで足元にも及ばなかったであろう。

世界一の軍事力を有し、政情を安定させ、黄金時代を作り上げたその手腕は、世界史の中でも指折りで数えられるほどである。

スレイマンほど、「大帝」の名にふさわしい君主は世界史においていないであろう。

まさにイスラム最強の君主である。