オスマン一世の跡を継いで二代目のオスマン帝国皇帝となったのが息子のオルハンだった。
この頃はまだ「帝国」というようり「侯国」と言った方が正しいほどで、オルハンが即位したころはまだ都市に定住していた訳ではなく、まだ各地を放浪している集団と言った方がよいくらいだった。
そのような徒党から国家としての発展をしたのがこのオルハンの時代のことで、オスマン一世ではなくオルハンを実質的なオスマン帝国の建国者としてみるのが歴史的には正しいかもしれない。
ブルサ攻略
伝承によれば、オスマンの後継者候補はオルハンとアラエッティンの2人であった。オルハンはアラエッティンに跡を継ぐように勧めたが彼は自ら身を引いて田園での生活を望んだという。
これはオスマン側に残る伝承だが、ビザンツ側の資料では後継者の争いがあったことが記載されており、実際には激しい後継者争いがあったのではないかと言われている。
オルハンの即位時期についても明確ではなく、オスマン一世の時代には既にリーダーになっていたとも死後すぐにその地位を継いだともいわれており、詳しいことは分かっていない。
分かっているのはオルハンがビザンツ帝国(東ローマ帝国)の要所であるブルサを攻略したことだ。
ブルサの支配時期には諸説あるが、1326年とするのが定説のようだ。
ブルサを支配した後は325年に公会議の開かれたニケーアを1331年に、ディオクレティアヌス帝がローマ帝国の首都を置いたニコポリスを1337年に征服している。
1000年以上もローマ帝国が領有していた都市が、一時期は巨大なローマ帝国の中心都市だったこれらの都市が、ついにイスラム勢力の前に陥落した訳である。
チャンダルル家の台頭
オルハンの時代あたりから、トルコ民族は遊牧民族から都市に住まう定住型の民族になったと言える。
そのためには都市の治世を行える人物が必要であった。
オルハンは父オスマンとの関係の深いエデ・バリを通じて高名なウラマーであるチャンダルル家を招いた。
ウラマーとは日本語に訳されるときに法学者と訳されることが多いが、総じて知識人階級全般を指す言葉と言って良いかも知れない。
イスラム世界にはマドラサと呼ばれる高度な教育機関があり、そこで専門的な教育を受けた者がウラマーとなる。ウラマーはシャーリアと呼ばれるイスラム法に通じており、オルハンはイスラム法官と訳されるカーディーの位にチャンダルル家の面々を任命した。
以降オスマン家はチャンダルル家を代々優遇し、宰相や大宰相と言った地位にはこの系譜に連なる人物をつけるのが慣習化した。
部族連合として性格の強かったオスマンは、次第にオスマン家やチャンダルル家と言った有力部族に権力が集中していくわけである。
ビザンツ帝国との同盟
当時の小アジア、アナトリアにはまだトルコ系民族の国家が乱立している状態であった。この当時においてはオスマンよりもサルハン国、アイドゥン国の方が精強で、ビザンツ帝国とオスマン帝国は敵対しながらも利害は一致していた。
さらに言うとビザンツ帝国内部で権力者争いがあり、皇族の1人ヨハネスは有力部族オスマン族を味方にすべく娘のテオドラをオルハンの妻とする婚姻政策をとった。
夫がイスラム教で妻がキリスト教というのは不思議な感じもあるが、ヨーロッパでもそうであるように、宗派の違いなどは政治的な政略の前には意味をなさない。
ヨハネスは皇帝ヨハネス6世となり、オルハン率いるトルコ軍はバルカン半島へと進出し、当時精強だったセルビア王国との闘いに明け暮れ、長男スレイマンの活躍もあり領土を拡大することに成功したのであった。
寵愛する長男の死
恐らくは後継者にと考えていただろうスレイマン王子が死んだ。1357年のことだという。鷹狩の際の事故であったらしいが、死因は不明。
愛する長男の死によりオルハンは見る見るうちに衰弱し、後継者を決めることもなくそのまま亡くなってしまった。
オルハンの死後、残された2人の王子の間で激しい後継者争いがおこるのであった。
個人的なオルハンの評価
オスマン帝国の実質的な建国者はオルハンであろう。
オスマン一世の時代にはまだ徒党であったオスマン部族を国家にまで押し上げたのはオルハンである。歴史ある東ローマ帝国の主要な都市を征服し、銀貨の鋳造やチャンダルル家の採用などオスマン帝国の基礎となる土台を築いた。
彼の性格は厳格にして慈悲深く、貧民救済のための救貧院にて自らスープを配ることもしたという。
日本ではあまり知られることのない人物だが、以降600年続くオスマン帝国の実質的な建国者なのだから、もう少し日本でも評価されてよいように思う。
世界史的に見ても名君の部類に含まれる君主であろう。