天下無双!三国志最強の男「呂布奉先」の裏切りに満ちた激しい生きざま

関羽や張飛が束になっても敵わなかった武将が1人だけいる。

燃えるような赤い色の馬に乗り、方天画戟を自在に操る三国志最強の武将呂布だ。

圧倒的な強さを持ちながらついぞ天下を取れなかった男の生きざまを今回は見て行こう。

 裏切りに裏切りを重ねた男

呂布がはじめに登場したのは荊州刺史の丁原の義理の息子として都で暴虐の限りを尽くしていた董卓の敵としてだった。

北方騎馬民族である羌族からも恐れられている呂布の存在に董卓はすっかり怖気づいてしまい丁原に手を出せない。

そこで董卓軍の李粛がこう耳打ちする。

「呂布は赤兎馬を欲しているので与えれば味方となることでしょう」

赤兎馬は汗血馬ともいわれるアラブ馬で、中国では非常に珍しく、一日に1000里は走ると言われていた。

実際に赤兎馬を見た呂布は、義父である丁原の首を土産に董卓の部下となり、董卓とも父子の契りを結んでしまう。

呂布の強さを手に入れた董卓はやりたい放題、人間が思いつく悪いことを全て行い、暴虐なる覇道をひた進んだ。

そうはさせじと袁紹や曹操、孫堅と言った英傑たちは反董卓連合を結成、董卓軍の将軍華雄を打ち取るなど快進撃を続けたが、順調な連合軍の前についに最強の武将がその姿を現す。

2mを超すその身長に、赤銅色の冠をかぶり、紅の錦の入った服を着て、帯には獅子の文様が、方天画戟を抱え赤兎馬にまたがるその姿に連合軍は恐れおののいた。

勇猛で名高い方悦を瞬く間に切って捨てると同じく武勇自慢の武安国を蹴散らし、白馬将軍と言われた公孫瓚をも敗北させる。

「ワシの相手になる者はおらぬか!」

その声にこたえたのが武勇自慢の張飛だった。

しばらく2人がうちあっていると張飛が段々疲れてきたのに呂布は全く疲れの色を見せない。そこに義兄弟である関羽が加わるもまだまだ余裕のある呂布、最後には劉備まで加わるもついぞ呂布を打ち取ることはできなかった。

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その後反董卓連合は英傑同士の仲たがいにより解散、董卓は洛陽の都を焼き払い自身は長安にて漢の皇帝献帝の名で各地に命令を下し、ローマと並ぶ世界最大の帝国である漢王朝を好き勝手に荒らしまわったのであった。

さしの暴虐に皆目をつぶりながら生きてきた。

後漢の司徒である王允もそんな人間の一人であった。

ある日王允の許へ絶世の美女と噂の養女貂蝉がやってきて一計を伝えた。

次の日王允は呂布を家に招き、貂蝉の舞を見せる。

呂布大いに貂蝉を気に入り、自らの妃とすることを決める。

しかし別の日、呂布が董卓の許へ馳せ参じるとそこには貂蝉の姿があった。

大層ショックを受けた呂布のもとへ貂蝉がさめざめと涙を流しながら訴える。

「董卓様が私に迫ってきた時、奉先様の立場がお悪くなるのを案じて断れませんでした」

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これを聞いた呂布は大いに怒り、その勢いで董卓を殺害してしまう。

実に恐ろしきは女性の色香と味方なり。

殺害された董卓には火がつけられたが、その火は3日間消えることがなかったという。

董卓を殺害され、涼州の兵士たちは大変怒りを感じ、李確を中心とした涼州兵たちは呂布を都から追い出してしまう。

放浪の身となった呂布は袁術の許へ身を寄せようとするがこれを拒否され、次に袁紹の許へやってきた。

袁紹は呂布を利用し張燕を滅ぼし、次に呂布をだまし討ちにしようとしたがこれは勘づかれると今度は張邈のもとへ身を寄せる。

この際張邈は曹操との戦争中で、濮陽の戦いにて呂布と曹操は直接対決をすることになる。

勇猛で知られた夏侯惇が斬りかかり、そこへ従兄弟の夏侯淵もすかさず参戦、典韋、許褚、楽進、李典と曹操軍の勇将たちがかかっていくも呂布はそれをいなしてしまう。

もはや人間じゃねぇ。。

「人中の呂布、馬中の赤兎」の名は伊達じゃない。

単独では最強の呂布だけど、兵士を連れての戦闘となればそうはいかず、曹操は次第に呂布を追い詰めていく。

呂布は濮陽を捨て、次は劉備玄徳のもとへ身を寄せる。

ちなみに張邈は曹操に敗れ、逃げる途中で自軍の兵士に殺された。

呂布が身を寄せる勢力は悉く滅亡の道を辿っている…

劉備が袁術と争っているうちに呂布は劉備軍の本拠地である下邳を襲撃しこれをのっとってしまう。帰るところのなくなった劉備はしぶしぶ呂布の配下となる。

呂布も劉備ももろとも滅ぼそうとする袁術軍が紀霊に率いられやってくると、呂布は激を地上に刺し、百歩の距離から矢を放つとこれがクリーンヒット、それを見た紀霊はなぜか軍を引いてしまう。

この際「ワシは戦いは嫌いだ。戦いの仲裁をするのが好きなんだ」と言ったというから笑ってしまう。ボケやつっこみという言葉さえない時代の高度なボケである。

袁術は呂布を味方につけたいと思い呂布の息子と自分の娘を結婚させるべく使者を送った。

呂布はこれを喜んで受けることにしたのだが、徐州に住む陳珪という男に「曹操と結ぶべきであってこの婚礼は曹操の反感を買うからやめたほうがいい」と言われるとすぐに納得して婚約を破棄し、袁術の使者を殺害してしまう。

完全に無茶苦茶な行為なのだが、呂布はその勢いで曹操と同盟を結ぶべき陳珪の息子陳登を使者としてたてる。

この陳登が曹操の許へいくと「呂布はいい加減だから味方にしない方がいい」なんて言っている上に曹操もわかった、徐州は君のものだなんて言っちゃうんだからどちらも訳役者である。

陳登が曹操との同盟を締結できずに帰ってくると呂布は怒って「お前らが言うから袁術との婚姻を破棄したんだ!さては騙したな?」などと怒るので陳登も言った。

「いやいや、私は曹操にこう言ったんですよ。「呂布将軍を扱うのはちょうど虎を扱うようなもので、たらふく肉をあてがっておかねばなりません。お腹を空かせれば人間を食べてしまうでしょう。そうすると曹操が言う訳です、「それは間違っている。呂布は鷹のようなものだ。満腹になれば飛んで行ってしまう」とね」

どういう思考回路をしているのか呂布はこれで納得して期限がよくなってしまったらしい。

虎とか鷹とかいかにも強そうな生物に例えられてうれしかったのかもしれない。意味はよくわかっていないだろうが・・・

結局呂布は曹操と戦い、いつのまにか曹操の仲間になっていた劉備を攻撃しこれを撃破するとそのまま曹操と戦うも自らの武勇に頼り過ぎていたのと部下に強くあたるので将兵はいうことを聞かなくなったり曹操軍に投降していったりと散々な状態となり、高順や張遼と言った名将や陳宮といった軍師がいたにも関わらず結局3度戦い3度敗北を喫することになってしまった。

最後は捕えられ「殿が歩兵を率い、ワシが騎兵を率いれば無敵ですぞ!」などと言って命乞いをする始末。

そこへすかさず劉備がやってきて「丁原や董卓の例を思い出してみなされ」と言って呂布の処刑を促した。

呂布の最期の言葉は、劉備の方を見て言った「この男こそ一番信用出来ないのだぞ!」だった。

まったくもってその通りである。

正史の呂布

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と、これまでは三国志をベースにした三国志演義での呂布の話。

実際の歴史上の人物としての呂布はどんなだったかと言うと、基本的なキャラクターはあまり変わらない。

丁原や董卓を殺害したのも呂布だし、袁術や劉備を裏切ったり袁紹に殺されかけたり、最後に曹操に敗れて劉備を見ながら「こいつが一番信用ならないんだ!」と言ったことなどは演義と変わらない。

演技と違うのはその見せ場ともいわれる一騎打ちのシーンで、張飛や関羽とも夏侯惇や夏侯淵とも一騎打ちはしていない。

あとは貂蝉の存在は演義の創作と言われ、正史には董卓の女中と関係があってその発覚を恐れたという文があり、ここから膨らませた話であると言われている。

意外にも激を地上に刺した話や陳珪・陳登親子にいいようにされたのは本当の話で、この辺りは呂布のキャラクターが良く出ている話だと言える。

個人的な呂布の評価

三国志におけるトリックスターである。

北欧神話のロキ、ギリシャ神話のエルメス、そして三国志の呂布。

前2つの存在が架空の話であるのに呂布だけ実在の人物である。

実際呂布は勝利よりも敗北の方が多く、李確に敗れ、袁紹から逃げ出し、袁術にも敗北しており、最後まで曹操には勝てなかった。

実際にはそんなに戦闘には強くなかったが、個人の武勇はやはりずば抜けていたようで、袁紹が呂布を暗殺しようとしたとき呂布を恐れて誰もその下手人をやりたがらなかったという逸話が残っている。

3歩先はもちろん一歩先のことさえ考えられない性格で、常に意見がコロコロ変わり、まるで芯のない性格なのであの劉備にさえ嫌悪されている。

キャラクターがあまりにも強烈で、呂布がいなければ三国志がここまで人気になることはなかったであろう。

演義を作る際に最凶にして最強のキャラクターが欲しかった羅漢中が、呂布を最強の武将にした理由もよくわかる。

演義での天下無双ぶりをしっていると正史での呂布の負けまくりがなんか残念に感じる。実際かなり強かったみたいだが、常勝軍とは程遠いと言え、勝率も5割以下になっている。

なんかやっぱり残念だ。

なお、強い男の活躍を見たければローマ史はおすすめ。

呂布と違って本当に強い奴らがわんさかいて、生涯において無敗という人物も何人も出てくる。

三国志演義好きな人は結構ローマ史も好きになると思う。

なにせ俺がそうだからな!

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