マリウスと言うと現在ではジャニーズ事務所のマリウス葉君が出てくるが、今回紹介さえていただくのは残念ながらイケメンの葉君ではなく共和政ローマ末期のイカれたおじ様であるガイウス・マリウスのことです。
ちなみに葉君はドイツの出身で、マリウスというのは基本的にはラテンネームだから彼はもしかしたらローマ人の末裔なのかも知れないね。
平民として生まれ、数々の軍功を挙げる
今迄紹介してきたローマ人はどのほとんどが貴族の出身で、クラウディウス家とかコルネウス家とかに属していたが、このマリウスは生粋の平民で、しかもローマの生まれではない。
彼はローマからはまぁまぁ近いアルピーノの土地で生まれていて、いつの頃からか彼はローマで兵隊として活躍していた。
マリウスは第3次ポエニ戦争の時には23歳であったということで、生まれは紀元前157年、グラックス兄弟とは同年代の人物である。
マリウスは社会的正義とか社会貢献とか弱気を助けるとか、そういうことには一切興味がなかったようだが、結果的にはグラックス兄弟のやりたかったことを後にやってのけるようになる。
マリウスはガイウス・グラッススが死んで2年後の護民官に当選していて、その後ローマの要職に就こうとするも失敗続き、40になるまではパッとしない人物だったと言える。
彼の転機はユリウス家の女性との結婚で、これで後ろ盾を得たマリウスはドンドン出世していくことになる。
ちなみにだがこのユリウス家の女性、かの有名なユリウス・カエサルの伯母にあたる人だったりし、このことが後にカエサルの政治基盤となった。
結婚して二年、マリウスはついにローマの重要役職であるプラエトル(法務官)に当選することに成功した。
プラエトルになると次の都市にはプロプラエトルという要職経験者としてスペイン総督に任命されることになる。
その5年後、ヌミディア国王ユグルタがローマに反旗を翻すと執政官メテルスの副官としてアフリカ戦線に投入されることになるが、メテルスとマリウスの折り合いはかなり悪かったようだ。
マリウスは自らが指揮官となるためローマに一度帰国し、選挙の末コンスルとなる。マリウスこの時50歳。かなりの晩成型武将だと言えよう。
元老院はメテルスを更迭しマリウスをユグルタ戦争の指揮官に任命する訳だが、メテルスは小人物であったようでマリウスに嫌がらせをして指揮していた兵士を副官だったロンギヌスに率いらせ、そのロンギヌスも兵士ごとガリア征伐に赴いてしまった。
率いる兵のいなくなったマリウスは後世マリウスの軍制改革と言われる改革に着手することになる。
具体的な内容は以下のようなものであった。
- 国が武具を支給する。
- 戦闘に従事する者の給料も国が支給する。
- 従軍期間を25年とする。
- 退役後、兵士たちに土地を与える。また司令官より年金を給付される
- 従来からの司令官が指揮可能な軍の制限(司令官1人が指揮できるのは2個軍団まで)を撤廃する。
これらの内容はグラックス兄弟が行おうとしていた改革と同内容で、それを実際に実行してしまった訳である。
多くの歴史家が指摘するように、グラックス兄弟はそれを護民官の立場で行おうとして失敗し、マリウスは執政官の立場でそれを成功させた。
改革をするのに地位は重要である。あるいはマリウスは兵制度だけを改革して土地改革を行わなかったことも大きかったかも知れない。
マリウスの改革は特に没落した自作農民たちに歓迎され、多くの志願兵をマリウスも得ることができた。
この改革は功を奏しユグルタ戦争に勝利すると続くキンブリ・テウトニ戦争でも大いに効果を発揮した。
この時期のローマは四方八方が敵だらけで、特に北方から侵入してきたゲルマン人には悩まされていた。すでにマリウスのコンスルとしての任期は終了していたが、民会によってマリウスは連続してコンスルに選ばれることになった。
ゲルマン人はおおよそ10万の単位でローマに侵攻してきたが、マリウスはその3分の1以下の兵力で快勝。ゲルマン民族であったキンブリ族とテウトニ族を壊滅することに成功し、ローマは歓喜の渦に沸いた。
ローマ市民はマリウスをロムルス、カミルスに次ぐ第三者の建国者と言って称えたという。
マリウスはこの勝利までに5年連続でコンスルになっており、これはローマの歴史の中でも唯一の例外と言える。
後にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に史上唯一3選しているが、それと同レベルの例外的な出来事だと言えるだろう。
マリウスは特に平民からの支持が高く、マリウス一派のことを平民派(ポピュラレス)と呼び、最大のライヴァルであるスッラの率いる閥族派(オプティマス)と激しく対立するようになった。
この二派の対立は共和主義政権の元祖とも言え、現代アメリカの共和党と民主党の対立にも同じような構造が見られる。
現代アメリカとの違いは、これらの派閥が武力をもって争ったことであろう。
マリウスは6度目のコンスルに就任すると副官と言ってもよいサトゥルニヌスが権威をかさに好き放題し始めるようになる。元老院が見かねて元老院最終通告をだすとサトゥルニヌスは武装蜂起、マリウスはこれには味方せずに自ら鎮圧に乗り出しこれを制圧。責任を取る形で一度政界を去っていった。
老人の暴走
マリウスはこの時点で素直に引退していれば後世に汚名を残すことはなかったであろう。
ローマを救った英雄が腹心の失敗の責任を取って引退する。
ここまではそこまで悪い話ではない。
しかし、マリウスはここから完全に暴走モードに入る。
ローマはこれまで200年以上も同盟を保ってきた同盟市との戦争に突入することになる。これは今までの敵とは違いローマの戦術などをよく知っている相手であったため、戦争は泥沼化しそうであった。
それだけならまだしも、現在のトルコにあるポントスの王ミトリダテスが混乱に乗じてローマへの反乱を試みた。
元老院は早期に同盟諸都市にローマ市民権を与え、同盟市戦争終わらせるとスッラを司令官にしてポントスへの派遣を決定した。
マリウスは最大のライバルであるスッラの隙をつきスルピキニウスという人物と組んでクーデターを敢行、閥族派の元老院議員を数人殺害、スッラのことも脅しつけ無理矢理のようにスルピキニウス法案への賛同を要求する。
同法案の内容たるやマリウスへの軍事権移譲を認めるものであったが、スッラは隙を見てローマから脱出、軍部も掌握していたためマリウスへの攻撃をするため首都ローマに進軍を行った。
これにはマリウスも驚いた。ローマは不可侵の土地であり、ローマの700年近い歴史の中でローマに攻め込んだローマ人などいなかったからだ。
完璧に油断していたマリウスは逃亡、スルピキニウスはスッラによって処刑、北アフリカの土地でマリウスはついに捕まってしまう。
スッラは直ちにマリウスの処刑を行おうとするが、流石にローマ第三の建国者と言われたマリウスの処刑を行おうとするものはなく、あろうことかそのままの状態で小アジアに向けて旅立ってしまう。
スッラとしてもいち早くミトリダテスをどうにかせねばならない必要性を感じていたのだろう。
スッラは後事をコルネリウス家のコルネリウス・キンナに任せた訳だが、この人物がマリウス側に寝返ってしまう。
自由になったマリウスは憤慨し、閥族派のみならずスッラの味方をした元老院議員、市民、エクイティスと呼ばれる商人たちを血祭りにあげていった。
中には自分の義理の兄弟であるルキウス・ユリウスやポンペイウス、グラッススの父親など元老院議員だけで50人、粛正対象は1000人にも及んだという。
マリウスは見せしめのためなのか強い恨みのためなのか、これら処刑した人物をさらし首にした挙句民会や元老院を掌握し自ら7回目のコンスルに就任することに成功する。
そしてその数日後、いきなり病気で死んでしまうのであった。
マリウスの死は完全に病気によるものらしく、自分の死んだ後のことをキンナにしっかりと伝えていたという。
享年70歳。ローマ第三の建国者と言われた男は永遠の眠りについた。
個人的なガイウス・マリウスの評価
どうしようもない男である。
ローマの長い歴史の中でもワーストクラスの執政官だと言えよう。
あるいはローマ最悪の暴君と言っても良いかも知れない。
個人的にはネロやカリギュラよりも質が悪いと思っている。
もちろんこいつらも大概だが…
共和政ローマの人間たちは、いずれも国家のために尽くしてきた人たちであった。
ポエニ戦争の英雄スキピオやマクシムスしかり、カミルスしかり。
ロムルスはともかくマリウスをカミルスと並べるのはどう考えても失礼で、マリウスはただの暴君である。
もっとも、マリウスの軍制改革によってローマは大きく変わり、後のユリウス・カエサルを活躍させたことは功績だと言える。
若い時は英雄で後年失策を犯した様は、ローマ版毛沢東と言えるかも知れない。
老兵は死なず、ただ去るのみ
日本の国会議員もそうだが、老害ほど恐ろしいものはない。
国会議員や為政者には、60歳までという年齢資格を設けた方がいいんじゃないか?