476年西ローマ帝国滅亡!ホノリウス帝からロムルス・アウグストゥス帝までの教科書では語られない治世について解説するぜ!

世界史の教科書には、「テオドシウス帝の亡き後ローマは東西に分裂し、西ローマ帝国は傭兵隊長オドアケルによって476年に滅ぼされた」とだけ記載してある。

この記述は世界中で共通であるらしく、ローマ帝国がどのように滅びたのかを解説している歴史教科書はほぼない。

しかし、と思う。

帝国の興隆以上にその滅びにこそ真の教訓があるのではないかと。

今回は決して教科書では語られることのないローマ帝国の滅亡を、詳しく解説していきたいと思う。

実はローマ帝国の滅亡と日本の衰退は、かなりの点で共通点が多いのだ。

 世紀の暗君ホノリウスの時代(395年~423年)

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ローマ史においては、ネロやコンモドゥスなど暴君が存在感を放っているが、ホノリウスは目立たないだけでそれらの皇帝よりも遥かに酷いと言えるだろう。

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テオドシウス帝が亡くなりローマはその息子2人によって東と西に分けられた。弱い方の西ローマ帝国皇帝になったのはまだ10歳の次男ホノリウスであった。

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テオドシウスは生前ヴァンダル族の血を引くスティリコという将軍にこのホノリウスの補佐を頼んでいた。

テオドシウスの姪と結婚したこの将軍は、ローマ帝国の衰亡を食い止めようと必死に戦った。ありとあらゆる反対勢力に邪魔をされながら、それでもなんとか異民族の侵攻を食い止め、国を存続させようと努力した。

しかしホノリウスはその、ローマ最後の名将と言っても良いスティリコに死を賜った。

まるで功労者SMAPに解散を強要したジャニーズ事務所のようだ。

スティリコには敵が多かった。特に既得権益化した宮廷官僚や宦官、ローマの元老院議員などである。現代なら国会議員やそのまま官僚が同様に日本という国を食い散らかしている訳だが、古代ローマも同様であった。

ホノリウスはオリンピウスという宦官の讒言を信じ、スティリコが帝位簒奪を狙っていると思い込んだのだ。

もしスティリコが帝位を狙おうと思えばいつでもできたであろう。だが彼は忠臣だっら。どれだけ愚かな皇帝であろうと、どれだけ救いようのない帝国であろうと、彼は逆らうことはなかった。

スティリコは皇帝の命令を受け、自死を選んだ。

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 スティリコの死に喜んだのはゲルマン人やフン族と言ったローマの敵だった。

なにせ最大の敵、唯一有能な敵がいなくなったのだ。これは好き勝手にローマ領内を荒らし回せることを意味した。

愚かなるホノリウスとオリンピウスは捕虜となっていた蛮族をここには書けないような酷い方法で処刑した。その結果、ローマ領内に住まうゲルマン人達は保護を求め西ゴート族の王アラリックの許にはせ参じることとなる。

アラリックはスティリコと3度戦い3度負けたが、スティリコが強すぎるだけであってアラリックは弱くなかった。名将のいなくなったローマ領内を、西ゴート族は荒らしまわった。

どれだけ領内が荒らし回されてもホノリウスは軍を派遣しようとしなかった。アラリックはついにローマ市内に進駐し、奪い、犯し、燃やし、破壊の限りを尽くした。

紀元前8世紀にローマが建国されて以来、首都ローマが蹂躙されたのはこれで二度目である。

紀元前390年、ローマはガリア人によって侵攻された。その後はローマ第二の建国者と言われる英雄カミルスによってガリア人は駆逐され、ローマを取り戻すことに成功した。

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しかしカミルスはもういない。アラリックを倒せるスティリコは死んだ。ローマ皇帝によって殺されたのだ。

ローマ中から金目のものを奪うだけ奪うとアラリックはさっさと引き上げて行った。蛮族が蛮族たるゆえんは奪うだけ奪い統治はしないからだ。

この際、ホノリウスの妹であるガッラ・プラテディアが連れ去られ、アラリックの息子アタウルフの妃となった。

ホノリウスの凄いところは、この間何もしなかったことである。ローマ皇帝とは軍の最高司令官インペラトールな訳だが、ホノリウスが考えていたのは自らの身の安全であったのだろう。彼はラヴェンナの宮廷に引きこもり、本当に何もしなかった。その間にローマに住まう人々はローマから逃げ出した。

そうこうしているうちにアラリックが病死した。

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そして423年、何もしないままホノリウスも死んだ。

その間、ゲルマン民族はガリアを支配し、スペインを支配し、ゲルマニアを支配することに成功した。

ホノリウスは、誰よりもゲルマン化に成功した人物としてゲルマン民族からは称えられるべき人物であると言えよう!

ヴァレンティアヌス3世とガッラ・プラティナの時代(424年~455年)

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西ゴート族に略奪されたガッラ・プラティナだったが、西ゴート族との交渉の結果ローマに帰還を赦されることとなった。そしてローマの将軍コンスタンティウスとの結婚において生まれたのがヴァレンティアヌス3世である。

子供のいなかったホノリウスの後にはこの皇帝の時代となる訳だが、3世はこの時6歳であったため、典型的な摂政政治が開始されることになる。

とは言えガッラも完全に無策で、その政策は全て行きあたりばったりであった。

彼女はローマ領内で暴れまわっていたアエティウスをローマ軍の司令官として迎える。

アエティウスは幼き頃をアラリック率いる西ゴート族やフン族への人質として過ごし、いわば蛮族とのコネを持っていたのだ。

この時期頭角を現した人物にボニファティウスという人物がいる。この人物は北アフリカにおいて力をつけていた将軍で、帝位簒奪を目論んでいるという噂があった。

ガッラは幼帝の名でボニファティウスに召還命令を出すが拒否され、両者は戦闘状態になる。

ガッラは討伐軍を北アフリカに送るがあえなく敗退、再び軍を送るも懐柔され再び失敗、ボニファティウス側はローマに攻め込むために軍備強化を考え、スペインで暴れまわっていたヴァンダル族の力を借りることにした。

しかしこれが不味かった。ヴァンダル族の王ゲンセリックは約10万人のヴァンダル族を率いてジブラルタル海峡を渡ってやってきた。その数はボニファティウスの兵の数を大幅に上回っており、危機を感じたボニファティウスは北アフリカを捨ててイタリアに亡命。

残ったヴァンダル族は北アフリカの地を大いに荒らしまわった。

この際、富裕層はイタリアに逃げ出したが、そうでないものは土地に残り、ヴァンダル族の支配をうけることとなった。

なお、ヴァンダル族はアリウス派のキリスト教を信奉しており、カトリックからはいわば異端扱いであった。が、アリウス派の方が未だに勢力が大きく、北アフリカにおいてアリウス派のローマ市民がヴァンダル族と結託し、暴威をふるうことになった。ちょうどこの時期には「神の国」などの著者で知られるカルタゴ大司教のアウグスティヌスが亡くなっており、遺体は略奪を恐れて富裕者によってサルデーニャ島まで移送されている。

地獄の沙汰も金しだいかも知れない。

ローマの小麦の3分の1は北アフリカ産のものであったので、その供給が途絶えるのはローマのライフラインが壊滅したことをあらわしていた。さらにヴァンダル族は北アフリカの造船技術を吸収し、海賊として地中海を荒らしまわることになる。

そしてほぼ同時期に北方よりフン族がガリアに侵攻を始めた。

フン族とアッティラとカタラウヌムの戦い

アッティラ率いるフン族と西ゴート族やフランク族などのゲルマン連合と手を結んだローマ司令官アエティウスは451年カタラウヌムで戦い、フン族を撃退することに成功、したのだが、敗れたアッティラはそのまま兵をローマに向け、略奪の限りを尽くすようになる。

この際アエティウスは動かず、西ローマ皇帝も動かなかった。

代わりに動いたのがローマ法王とローマ元老院である。

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キリスト教側からは「レオ一世の説得」と言われ、ローマ法王であるレオ一世の神のみ言葉によって蛮族アッティラは心を入れ替え去っていったキリスト万歳!となっているようだが、実際にはかなりの額の賠償金を支払ったと言われている。

どちらにせよアッティラはイタリアから去り、そしてすぐに死んだ。

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将軍の死と皇帝の死

フン族を撃退したことで用済みと思ったのか、ヴァレンティアヌス3世はアエティウスに会いにローマにまで出向き、そしてその場で皇帝自らアエティウス切り殺した。

実に20年以上も蛮族との闘いに明け暮れ、多くの勝利を手にしたアエティヌスだったが、最後は味方であるはずの西ローマ皇帝の手によってその生涯を終えた。

また一人、戦えるものが減った。

この半年後、ヴァレリンティアヌス3世はアエティアヌスの部下であった兵士たちによって殺害された。

30年と言う長い年月において、彼がしたことと言えばアエティヌスを殺害し国力をひたすら落としたことだけであろう。

テオドシウスから始まるテオドシウス朝と呼ばれる政体は途絶えた。

ローマ帝国滅亡まであと20年。

時は、加速する!

そして滅亡へ

ヴァレンティアヌス3世が暗殺されてからローマ帝国が滅ぶまで20の間、じつに8人もの皇帝が誕生した。

誰を皇帝にするのか迷ったげく、元老院派ペトロニウス・マクシムスという人物を皇帝にした。

この皇帝の時代に起こったことと言えば南からやってきたヴァンダル族がローマを荒らしまわったということぐらいであろう。

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この際逃げ出そうとしたマクシムスは怒れる群衆によって殺された。

その治世わずか3か月であった。

なお、ヴァンダル族による略奪は、レオ一世との協約によってキリスト教関係の施設を略奪しないという約束の許スムーズに行われたという。

次に皇帝になったのはアヴィトゥスという人物であった。

この人物をローマ皇帝に列挙してよいのかは疑問である。なにせ彼はガリアの地で皇帝に擁立された。しかも擁立したのは西ゴート族である。

この皇帝は当時ローマを支配し、既得権益者となっていた官僚たちによって無惨にも殺された。

官僚たちは自分たちの意のままに操れるマヨリヌスという人物を皇帝に据えた。

この人物は皇帝になると官僚への規制を強めた。官僚が現代日本のように国を食いつぶしている癌のような存在だと気づいていたのだろう。

この皇帝はイタリアを離れ、北アフリカにヴァンダル族の征伐に向かっている。そしてあっけなくヴァンダル族に敗れる。しかも戦闘する前に建造中の軍船をヴァンダル族によって焼き尽くされての敗北で、これによってローマの国庫は空になったという。

失意のうちにローマに戻る途中でマヨリヌスは部下によって暗殺された。

次に皇帝になったのはセヴェルスという人物であった。

この時期は官僚の1人であるリキメロスと言う人物が力を握っていて、いわばキングメーカーとして存在していた。

自らは表に出ることなく裏で政権を握る。

このような卑怯者が政権を握った国で、繁栄をした国はない。

セヴェルスは4年の治世の後に465年に死去したという。リキメロスが暗殺したという話が当代より根強いが、これもまた証拠はない。

なお、リキメロスという人物は純然たるゲルマン人であって、父はスヴェニ族、母は西ゴート族の出身であったという。

セヴェルス死後の西ローマ皇帝にはアンテミウスという人物が就いた。

この人物は東ローマ皇帝レオ1世によって任命された皇帝で、軍勢を率いてローマ入りし、元老院の承認も受けており、ローマ法王はその頂に王冠をかぶせてもいる。

リキメロスはアンテミウスの娘を妻に迎え、ここに分裂後初となる東西ローマ帝国連合軍が結成されることとなった。

が、あっけなく負けた。

リキメロスとアンテミウスは終始お互いの足を引っ張り合い、そのすきをついたヴァンダル族の王ゲンセリックによって敵にもならないほどあっけなくやられたのだった。

この敗戦を受けて東ローマ帝国は西ローマ帝国を完全に見放した。もとより、経済力で言えば圧倒的に東ローマ帝国が有利であったし、もはや血のつながりもない。助ける義理さえも、東側には見いだせなかったのである。

見放された形のアンテミウスは西ローマの覇権をかけてリキメロスとの闘いに挑む。

紀元472年、7月にアンテミウスは死ぬ。

そして8月にリキメロスが死んだ。

皇帝にはオリブリウスという人物が皇帝になるが、10月に死んでいる。

リキメロスとオリブリウスについては病死だという。

この直後に皇帝になったのはグリセリウスという名の人物であったが、東ローマ帝国はユリウス・ネポスという人物を皇帝にすると言ってきた。ネポスにはまったくその気はなかったようで、彼は全然ローマに行こうとはしなかった。その隙をつきオレステスという人物が自分の息子ロムルス・アウグストゥスを皇帝位に就けることに成功した。

元老院はわずか15歳であったロムルスの皇帝就任を承諾する。

この隙をついてゲルマン人の傭兵部隊を率いるオドアケルがオレステスに対して未払いの給金を支払うように要求。オレステスとの戦闘になり、オレステスは2度も敗北したのち戦死、オドアケルはそのまま皇帝に住まうラヴェンナの地に入城し、最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスは廃位させられたのであった。

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くしくも、ローマを建国した人物である初代王ロムルスと、帝政を確立したアウグストゥスの名前を持つ者が最後の皇帝となった。

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ロムルスは特に処刑することもなく、イタリアでその天寿を全うしたという。

ロムルスを最後の皇帝とみなしてよいかの議論はしばしばみられる。東ローマ皇帝が任命したユリウス・ネポスはこの後480年に死去するまで皇帝位にあったと言えなくもない。

だが、ローマ皇帝とはあくまで元老院が認めた者とするべきであろう。

その点において、やはり最後のローマ皇帝はロムルス・アウグストゥスであると言える。

紀元前753年にロムルスが建国したローマは、紀元476年に滅びた。

東ローマ帝国はこの後1453年まで続くが、すでにローマを領土としておらず、このブログではビザンツ帝国として扱うため、ローマの滅亡は476年としたいと思う。

ローマを滅ぼしたオドアケルは自らローマ皇帝になることはせず、ローマ教皇レオ一世に皇帝位を返上し、自らはその臣下となることを誓った。

ローマ教皇はゲルマン人を事実上支配下におき、21世紀となった現在においてもその力は失われることなく、あるいは当時以上の力を持ち合わせていると言えるだろう。

そういう意味では、ローマは未だに滅んでいないのかも知れない。

あるいは、もっと前にローマは滅んでいたというべきかも知れない。

いずれにしても言えるのは、ローマにおいて誕生したあらゆるものが現代社会に影響を与えているということだろう。

人は死ぬ。

しかし時空を超えて受け継がれるものがある。

ローマは3度世界を制したと言われる。

まずは軍事力、次は法、最後はキリスト教において。

そういう意味では、人類が滅びなければローマは真の意味では滅びないのかも知れない。

 ローマの滅亡について思うこと

初代ローマ王ロムルスの記事を書いたのが2018年12月29日のことだった。そして2019年3月26日まで実に多くのローマ人を通史的に扱ってきた。気が付くとローマに関する記事だけで100記事を超えたが、通史として扱うローマの歴史はこれで完了となる。

正直、結構疲れた。

小説であればラストに向けて盛り上がっていくところだが、歴史はそうはいかない。全盛期まで到達した王朝は最後は惨めに滅びるからだ。

ローマにおいて言えば、トラヤヌス帝の時に全盛期となり、以降は衰退していくのみであった。

それでもローマは幾度となく復活し、滅びそうになっては誰かが立て直すということを繰り返してきた。

ポエニ戦争では圧倒的な強国カルタゴを倒し、ハンニバルにイタリアまで迫られたが数多くの英雄が現れては滅亡を逃れ、内戦が始まるとカエサルが現れ、オクタヴィアヌスは以降数百年に及ぶ帝政を確立した。途中でネロなどがとうじょうするも、ウェスパシアヌスや五賢帝が登場し、むしろ全盛期を迎えるも、コンモドゥスやカラカラのような悪帝ののち軍人皇帝時代を迎え、滅亡は免れないかと思えばアルレリアヌス帝などが出てきて盛り返し、更にはディオクレティアヌス帝のような改革者が現れる。

ローマはいつ滅んだか?

世界中のあらゆる教科書においてもこのブログにしても紀元476年としている。

だが、個人的にはローマはコンスタンティヌス帝の時に滅びが始まったと思っている。

ローマは捨て去られ、コンスタンティノープルに新たな都が作られ、そこにキリスト教の施設が多数つくられた瞬間に、ローマは役割を終えたというべきであろう。

そして完全に滅亡したのは、テオドシウス帝がローマのあらゆる文化を破壊した時に尽きると思う。

ローマの守護神ユピテルが有罪になった瞬間に、ローマは滅びたのだ。

テオドシウス帝以降のローマはご覧の通り衰退する一途だった。

宦官や官僚といった佞臣が力を握り、既得権益者となった元老院と共にローマを食い尽くした。

最後の英雄と言っても良いスティリコを、皇帝自らが処刑した瞬間に、もはやローマ再興の望みは絶たれたというべきであろう。

かつてローマに既得権益者はいなかった。国を守るために、ローマ市民は喜んで兵役の直接税を負い、自ら闘いに臨んだ。

帝政末期においては、もう国を守ろうとする者はいなかった。

最後にローマンスピリットを以て国を守ったのがゲルマン人の血をひくスティリコだったというのは実に皮肉と言えるだろう。

ローマの滅亡は、対岸の火事ではない。

今日本で起きていることは、ローマ帝国が滅亡していく過程に似ている。

行政は肥大化し、既得権益を守ることしか考えない官僚や国会議員たちが国を食い物にし、我々は無茶な負担を強いられている。

人々は為政者に失望し、ただただその衰退を見守るだけとなっている。

ローマ帝国の末期、ローマの人口は全盛期の10分の1にも満たなかったという。

皆、ローマを見放したのだ。

今現在、日本からは有能な人材ばかりが流出している。

そのことから目を背けるのが無理なほどに、この国の状態とローマの衰退は似ている。